サラワクと依岡省三

依岡省三(中央)とサラワク先住民ほか関係者

数年前のこと、青年海外協力隊員としてマレーシアのサラワク州ミリに派遣されていた高知県の女性を取材していた時、聞いた話である。かつてサラワクに白人のラージャ(藩王)が統治していて、依岡省三という人物がゴム・プランテーションを開き、日沙商会という会社を創設したという。依岡は高知県出身で、神戸で鈴木商店を経営していた金子直吉の後ろ盾を得て、サラワクに向った。

ボルネオ島は今では北半分がマレーシア、南側はインドネシア領となっているが、戦前までは前者がイギリス、後者はオランダの植民地だった。ボルネオ島の北側にはブルネイ王朝があり、スルタンが統治していた。ブルネイは今でも小さな独立王国として存在しているが、かつてボルネオ島北部を手広く支配していた。19世紀半ばのブルネイでは原住民の反乱が相次ぎ、ブルネイのスルターンは1839年にサラワクのクチンにやって来たイギリス人の探検家ジェームズ・ブルックに鎮圧を依頼した。ブルックは、英国海峡植民地政庁の協力で鎮圧に成功し、褒賞としてサラワクが割譲され、ラージャに任じられた。ブルックは“白人王 (White Raja)”の称号を与えられ、ここにサラワク王国が建国された。(ウィキペディアより)

サワラク王国は、ブルック一族のより三代にわたりこの国を支配した。依岡が進出したのは初代のジェームズの時代だった。ブルック一族は先住民の利益を守るため外国からの投資を一切禁止した。どういうわけか依岡だけは例外だった。国王の絶大なる信頼を勝ち得たというのだから面白い。依岡は会社設立後の1911年、マラリアに罹り死去するが、依岡の日沙商会は弟の省輔が経営を引き継ぎ、第二次大戦の時代まで続いた。

元協力隊員の話で面白かったのは、今でもサワラク州で中国人の比率が高いということだった。中国人は早い時代から東南アジアで活動を始めていたが、ジェームズがラージャになる前にサラワク州で金鉱山を発見して経営したことが中国人移住に引き金になったようだ。

省輔は鈴木商店の傘下にあった神戸製鋼所に勤めていた関係で、金子直吉の信頼を得ていた。鈴木商店は1920年代に倒産したが、日商岩井(現双日)、帝人など多くの企業群を残した。日沙商会もその一つで、1936年、新聞記者だった岡成志が『依岡省三傳』(日沙商會)を残しており、依岡の人生を語る数少ない証言として残された。その現代語改がネット上の「鈴木商店記念館」で読むことができる。https://yorioka.blogspot.com/

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夜学会の原点、山嶽社

はりまや橋商店街で夜学会を復活させたのが2015年1月。高知市土佐山西川に山嶽社跡を見つけたことがその原点にある。板垣退助の秘書で、萱野長知とともに孫文の中国革命に尽くした和田三郎の生家でもある。自由民権運動の影響を受けた医師・和田波冶・千秋父子が自宅を提供し寺子屋をつくったのが始まりで,後に門下生の高橋簡吉が遺志を継ぎ,民権結社山嶽社を結成し,県下各社と連携をとりながら発展させた。

明治15年11月12日、東京を追われた民権家、総勢2000人が巻狩大懇親会と称して、この地に集った。政治的デモが認められなかったため、「巻狩」と称して気勢を上げたのだ。「自由は土佐の山間より出ず」という有名な言葉はひょっとして、この巻狩に原点があるのではないかと思っている。

当時、高知県には190もの夜学会があったとされる。議論の場が各地で出現し、県内で平均して2日に1回、夜学会が開かれていたと考えれば、歴史の壮観であろう。高知は決して酒ばかり飲んでいたのではなかった。

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電動バス、タクシーに驀進する深圳市

寒村から40年で人口が1300万人に達した深圳市。ハイテクを中心に世界の最先端都市として注目度ナンバーワンだ。その新興都市で進むのが乗り物の電動化。1万6000台のバスは100%、2万台を超えるタクシーもほぼ100%がすでに電気自動車(EV)となっている。充電基地は広東省内に5万5000カ所もあり、アメリカ全体の数に匹敵する。ちなみに日本全国のガソリンスタンド数は約3万カ所にすぎない。電化の牽引役は地元に本社を持つBYD社だ。

中国のEVシフトは2009年に始まった。政府は国家を上げて、「十城千輌」政策を3年間で推進した。毎年10の都市の公共交通に対して1000台分の補助金を出した。エンジンと比較してモーターのエネルギー効率は4倍以上。マイカーの普及で燃料供給に問題が出ると考えた政府がエネルギー政策を大転換させた。その後は、北京、上海、杭州など各都市が独自でEVシフト施策を打ち出し、公共交通のEVシフトが進んでいる。現在では全国の充電スタンドは60万カ所を超えている。

BYD(比亜迪)はもともと電池メーカー。2008年、電池製造を強みにEV製造に乗り出し、アメリカの投資家、ウオーレン・バフェットが早くから将来性に着目し投資を開始した。深圳市のバス、タクシーはすべてBYD製だ。深圳市のタクシーはフォルクスワーゲンの赤いサンタナが有名だったが、10年で青色のBYD車が赤いタクシーを駆逐した。

BYDは昨年、テスラが上海でEV製造を始めるまでは、中国EVのトップランナーだった。2014年から2018年までの5年間に前途汽車、奇点汽車、BYTON汽車、零跑汽車など多くの新興EVメーカーが創業した。2019年の生産実績を見ると、NEV(新エネ)乗用車メーカー66社のうち、生産台数1万台以上メーカーが18社、NEV商用車メーカー141社のうち、生産台数1000台以上メーカーが22社にとどまっている。

中国のEV車製造の底流には、電動自動車と電動低速車の普及がある。EV車はエンジン車と比べて構造が簡素であるため、新規参入が相次いでいる。

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電気自転車が2億5000万台 夜学会

10月9日(金)午後7時から

WaterBaseで

講師:伴武澄

驚いた。中国で電気自転車が2億5000万台も走っているというのだ。90年代に7000万台という報告を読んだ時も驚いたが、電気自動車EVの普及で世界をリードしている中国では自転車の世界でも大きく世界をリードしていることが分かった。

中国はもともと自転車王国だった。マイカーが走り出したのは2000年ごろからで、貧しかった時代のもっともポピュラーは移動手段だった。それが、90年代から簡単なモーターと鉛電池を取り付けた電動化が始まった。本田宗一郎らが戦後、「原動機付自転車」という新ジャンルを生み出したように、そんな需要を先取りして小資本な電動自転車メーカーが乱立した。日本ではアシスト機能の電動自動車が走り出してたが、道交法が災いして「自走」する自転車は普及しなかった。中国では免許もプレートも不必要だったため、電動自転車の普及が一気に広がった。「電動機付自転車」という新しい概念が定着したのだった。

さすがの中国でも電動自転車に関する規制が相次いで登場した。免許は必要な都市と不必要な都市もあるが、2011年、中国政府はリチウムイオン電池への転換を促すため、電動自転車の車重を40kg以下に制限して、重量のかさむ鉛蓄電池を実質的に禁止する方針を打ち出した。新たな国家標準では、電動自転車はペダル付きであること、最高時速が25キロ以内であること、時速15キロに達するとアラームが鳴ること、車両総重量(バッテリー含む)が55キロ以内であること、モーター定格出力が400ワット以内であること、バッテリー電圧が48ボルト以内であることなどが求められている。

いつの間にか、中国ではモーターと電池という組み合わせが普通になった。中国の人々にとって、エンジンとガソリンが当たり前だった時代がほとんどなかったから、電気自動車に対して大きな抵抗感はないといっていい。

筆者は、マイカーと公共交通手段の中間に位置しながら、第三の移動手段を模索してきた。高齢化の時代、運転免許を返納した高齢者の移動手段を考えて行く必要があると考えてきた。行きつく先は低速の乗り物である。そしてこの分野では日本は中国に学ぶ必要がありそうだ。

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人物往来32 森小弁

森小弁(1869年 – 1945年)明治時代中期にミクロネシアのトラック島(現ミクロネシア連邦チューク州)に渡り、現地人妻を娶り、大酋長となり、教育を中心に島々の発展に尽くした。1000人規模の子孫を残し、政財界に大きな影響力を持つファミリー。人気漫画「冒険ダン吉」のモデルとされた時代もあり、七代目大統領のマリー・モリは曾孫にあたる。

 明治維新後、初の国会が開催された1891年、22歳の森小弁は南洋貿易商社「一屋商店」の社員の一人として天祐丸に乗り込んだ。日本刀と短銃一丁を携えていた。

 小弁は現在の高知市で、土佐藩士の父可造と母加奈の間に二男として生まれた。可造は維新後、大阪で裁判所判事の職を得た。土佐藩蔵屋敷があった土佐堀に住み、小弁もそこで幼少期を過ごした。父親の死亡で高知に戻り、海南学校に通った。自由民権運動が最盛期だった。海南学校を中退、大阪裁判所に勤務していた兄を頼って再び大阪に出た。大井憲太郎を首謀者とした大阪事件に巻き込まれるものの、逮捕は免れた。その後、東京へ出て大江卓や後藤象二郎の下足番をしながら、東京専門学校に通った。

 小弁の南洋志向に影響を与えたのが当時読んだ1890年刊行の「浮城物語」だった。日本男児の一団が南洋に進出し、イギリスやオランダを相手にジャワやスマトラなどを攻略するという空想小説である。国会は開設されたものの民主主義とはほど遠いやりとりが繰り返され、中江兆民などは「議会は無血虫の陳列場」と言って議員を辞職するほどであった。一方で列強との間に結んだ不平等条約の改正交渉はまったく進まず、日本は内患外憂。多感な小弁は日本を捨てて南洋に活路を見出した。

 小笠原諸島を経由してトラック諸島のウエノ島に上陸して住み着いた。トラック諸島では島の酋長同士が争っていた。小弁はウエノ島のマヌッピス酋長のもとで先頭に立って戦い、酋長の信頼を得て、その長女イサベルと結婚する。当時、トラックを含む東カロリン諸島はスペイン領だった。小弁は石鹸の原料となるコプラを日本に輸出し、衣料やランプなど日用品を輸入し、トラックに初めて貨幣経済を持ち込んだ外国人となった。

 生活の糧を得た小弁の仕事は順風に見えたが、1898年、島々はドイツに売却され、ドイツは日本人排斥に動いた。小弁はトラックに居残ることを許されたが、他の日本人は追放の憂き目になった。当然、貿易会社は閉鎖となり、日本との行き来もなくなった。

 小弁の生活に再び光が差したのは第一次大戦の勃発だった。日本海軍はドイツ領だった東カロリン諸島に進駐し、トラック諸島は国際連盟の日本の委任統治領となった。日本は西カロリン諸島のパラオに南洋庁を置き、日本の支配が始まった。トラックに長年居住していた小弁は日本とのパイプ役として注目され、日本との貿易も再開し、大きく発展した。

 商業で得た利益でまず学校を作り、政府に寄付した。当時の「大南洋興信録」によると、小弁は「島民家屋の改造、道路、橋梁、波止場の改修及び新設。並びにコプラ製造法の改良等、島の改善、産業に尽力した」と書かれてある。そのころ、小弁はウエノ島大酋長になっていた。

2008年、高知市を訪れたモリ大統領は「かつて南洋に新天地を求めた日本人の開拓者の血が、わたしを含め多くの奥民に流れている。われわれの誇りとして受け継がれている」いと述べた。チューク州には森性を名乗る人は3000人といわれ、同州の人口の約10%を占める。(萬晩報主宰・伴武澄)

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高知県三里村の人々 夜学会

講師:伴武澄

日時:10月2日(金)午後7時から

場所:はりまや橋商店街Water Base

財団法人霞山会の雑誌ThinkAsiaの秋号に森小弁について書いた。自由民権運動の時代に翻弄され、南洋のトラック島に渡り地元の酋長にまで上り詰めたミクロネシア連邦の立志伝中の一人である。

高知県三里村に育ったのは、森小弁だけではなかった。同じころ三里村種﨑に育った萱野長知もまた、自由民権運動に関連した後、上海に逃れ、孫文の中華革命に尽くした。三里という地区に関心を持ったのは数年前のことである。たまたま、元共同通信社の記者だった山田一郎氏がかつて高知新聞に連載した「南風帖」を読んだ。山田氏もまた三里仁井田で育ち高知の学校に通ったという経歴を持つ。連載は幸徳秋水から始まる。三里出身として小説家の田中貢太郎、田岡典夫が登場し、後に高知新聞の論客となる中島及に広がる。ちなみに山田氏は『寺田寅彦覚書』で1982年芸術選奨新人賞を受賞した。個人的には結婚の際に仲人になってもらった関係である。

幕末、土佐藩は三里村に砲台を築いて外国からの侵略に備えた。土佐藩が抱えていた砲術家たち藩士が多く移り住んでいた土地柄で、普通の農漁村ではなかった。知的水準も相当高かったものと思える。そうした藩士の子弟たちが明治に入って頭角を現したとしてもなんら不思議でない。高知の自由民権運動が全国に広がり、新思潮を生み出した。その一角に三里村を位置づけたら面白いことになるのではないかと思い始めている。

三里村は坂本龍馬の銅像が立つ桂浜の対岸にあり、仁井田から堀川に巡航船が通じていた。明治22年、市町村制施行により種﨑村、仁井田村、池村が合併して三里村となり、昭和17年、高知市になった。陸路ではなく、海路でつながっていて、種﨑の人たちが高知市内の移り住んだ種﨑町を形成していた。後の中種、つまりはりまや橋商店街の前身、中種商店街は長く高知市内の中核商店街として繁栄してきた。

仁井田地区には龍馬の継母の家が現在もあり、龍馬19才の時、仁井田の浜で砲術の稽古をしたと言われている。隣接する仁井田吹井には武市半平太(瑞山)の生家と瑞山神社がある。

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まぐまぐの上場

まぐまぐ。インターネットで、メールマガジンという新しいカテゴリーを生み出した存在。そのまぐまぐが今頃、上場というのも不思議な話だが、それなりに感慨がある。

1998年2月、萬晩報を始めて約1カ月、まぐまぐに出会った。メールマガジンの配信数は百を超えていた。マイクロソフトのメールソフトにはBCCという機能がなかったため、Netscapeというメールソフトを導入した。このソフトは有料だった上、20通ぐらいしか同時に配信できなかったため、何度かに分けて配信した。配信数が増えてくるとこの作業も大変になって来た。萬の読者だった東大電算センターの人から「まぐまぐ」という無料の配信ツールを使ったらどうかという提案があった。へんな名称の会社だと思ったが、使い始めて見るとすごかった。

萬晩報のIDは0000002548だったから、前年に始めたサービスは数カ月で2000件を超えていたことになる。少し経つとサイバー・エージェントがmelmaという同様のサービスを開始した。5行広告が始まっていて、メルマガに添付すると1通につき約0.5円の広告費が発行者に支払われた。

萬晩報の最盛期は2004年ごろだった。配信数26000を超えていた。当時、津支局にいたが、本社転勤で47NEWS の初代編集長となったため、僕の頭の中で生まれるアイデアはすべて47NEWSにつぎ込まれ、萬晩報に集中できなくなった。一方でブログが登場して素人が次々と質の高い発信力を身につけて行った。

メルマガが衰退した一番の理由はブロードバンドの普及だった。ダイヤルアップでネットに接続していた時代は1分ごとに通話料が発生していたため、多くのネット利用者はメールをダウンロードしてからメールを読んでいたため、「プッシュ型」の発信が主だった。それが常時接続となったとたん、「プル型」に転じた。情報を定期的に送ってもらうのではなく、自ら探しに行くようになった。

そのころ始まったのがgoogleだった。検索する能力が格段に進歩した。欲しい情報はgoogleで検索する。そんなことが常識化したのだった。

いずれにせよ、まぐまぐには22年もの間、お世話になった。

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フランクリンとの出会い 夜学会

講師:伴武澄
日時:9月25日(金)午後7時から
場所:はりまや橋商店街Water Base

 雷雨の中、凧を上げている男の図。ベンジャミン・フランクリンの名前を知ったのはいつのことだったか覚えていない。雷が電気であることを証明した人だった。萬晩報を発刊してから、フランクリンのことを思い出した。数十万ボルトにも及ぶ電圧の中に凧を飛ばすなどありえないと閃き、『フランクリン自伝』を読むことになった。どうやら、この命がけの実験は本当にあったことのようだった。フランクリンはこの実験のお蔭でイギリス王立協会の会員となった。1752年だから、アメリカ独立戦争が起きる10年以上も前のことである。当時、電気といえば、ライデン瓶ぐらいしか知識がなかった時代である。
『フランクリン自伝』を読むうちにいろいろなことが分かった。フランクリンの両親はイギリスからの貧しい移民で、自身は12歳の時、ボストンの印刷所に丁稚に出された。あー、アメリカにも丁稚なる制度があったのかと考えさせられた。植民地の政治の中心地だったフィラデルフィアに出て、印刷屋として成功を収め、『ペンシルベニア・ガゼット』紙を買収した。20歳代のことである。フランクリンは10歳までしか学校へ行っていなかった。印刷所で文字に目覚め独学で学んだこともあった本に対するあこがれがあり、仲間を集めてアメリカで初めての図書館を設立した。公共図書館のはしりとされる会員制の図書館だった。フィラデルフィアでは41歳で郵便局長に就任し、フィラデルフィア・アカデミー(後のペンシルベニア大学)を創設した。雷の実験はそのころのことである。
 1776年には5人の起草委員の1人としてアメリカ独立宣言に署名する。このことはみんな知っているはずだが、雷の実験のフランクリンと革命家フランクリンがどうもつながらない。フランクリンが学びの場としてのアカデミーを創設したのは多分、世の中に対する疑問がスタートラインとなっていたのではないかと思われる。
 今日、話をしたいのは図書館とアカデミー創設という学び舎をつくったことである。アートとサイエンスのためには図書館と学び舎が不可欠なのは今も昔も同じだろう。

 1728年、イギリスのイーフレイム・チェンバーズがに『サイクロペディア、または諸芸諸学の百科事典』を出版している。タイトルが「Art and Science」だった。この本は各項目がアルファベットの順に配列されていたことに注目しなければならない。18世紀、フランス革命の前、パリを中心に百科全書派という一群の人々が登場する。フランス啓蒙思想運動の一環としてダランベール、ディドロ、ヴォルテール、ルソーらが『百科全書』 (L’Encyclopédie)を発行した。音楽、芸術から科学技術を網羅した書籍。いわゆる「なぜなぜ本」である。日本でも同じころ「和漢三才図会」が作られているから面白い。
 アメリカの大学には学部がないことを知らされたのは最近のことである。リベラル・アーツといって「教養」を学ぶ場であって、日本でいえば「旧制高校」のような学び舎なのだ。アートとサイエンスという言葉が持つ意味に注目したのも最近のことである。

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漢口のサクラ

 

 武漢大学のサクラは中国でも有名だそうだ。大連出身の文彬さんに聞いたことがある。その武漢のサクラと我が萱野長知と関連があるという話があって興味深い。萱野長知孫文関係資料集に「バンドの桜」と題した一文が掲載されている。書いたのは鈴木鋗一郎で、昭和三十九年のある日、日比谷の陶陶亭の囲碁室で萱野長知の長男長雄氏と話しているときに「中国から視察旅行に誘われている。一緒に行きませんか」というのだった。

 長雄氏によれば、漢口の揚子江の岸に桜があり、その桜は萱野長知が日本から贈ったもので、「花の時にぜひ見たい」と言った。長雄氏はその話から二カ月後に死んでしまったので、鈴木氏も武漢の桜を見ることは果たせなかった。

 武漢はもとは武昌、漢口、漢陽の三つの都市が揚子江沿いにあり、1926年に統合されて武漢市となったが、1911年10月10日の辛亥革命はその一つ武昌の町で起った。萱野長知は革命軍を指揮していた黄興から「武器を調達してすぐに武昌に来い」と促されて、11月6日には武昌に入った。

 萱野は日本で武器と汽船を調達して武昌に向った。海軍の加藤友三郎に護衛を依頼したが、断られている。しかし、船が東シナ海に差し掛かると、いつの間にか駆逐艦が一隻、汽船の後を追跡し、揚子江を遡り、無事に目的地に到達したという。萱野がどれほどの武器を調達したのかは分からないが、汽船を調達したぐらいだから十丁や二十丁の鉄砲ではなかったはずだ。辛亥革命の前にも萱野は広東省に武器を運び込む経験をしている。その時は、清朝軍に見つかりそうになり、目的を果たせなかったが、今回はどうやら成功したようなのだ。

 武昌の対岸の漢口は岸田吟香が目薬「精錡水」を大陸で販売するために楽善堂を設けていた。アジア主義者の荒尾精が出入りし日清経済研究所を上海に設立するきっかけも漢口にあった。大陸の交通網の中心は今も昔も武漢にあった。東西を流れる揚子江は東シナ海と四川省をつなぐ、南の広州からは武漢を経て北京につながる鉄道が早くから敷設されていた。

 萱野がいつ、漢口の桜を植えたのかは分からないが、どう考えても辛亥革命の後であらねばならない。そうなると漢口の桜は100年前後の歴史があってもおかしくない。文彬さんの話では、桜を見ると日本を思い出し、拒否反応を起こす中国人が少なくないのだそうだ。だが、この漢口の桜ばかりは武昌蜂起で黄興とともに戦った萱野の思い入れがあり、日中が対立する以前のそれこそ友好の桜だったと言っていいかもしれない。

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レ・ミゼラブルの衝撃 夜学会

日時:9月18日(金)午後7時から

場所:はりまや橋商店街Water Base

17日、愛宕劇場で「レ・ミゼラブル」を見た。ヴィクトル・ユゴーの作品だと思って見ていたら、スクリーンにジャン・バルジャンやコゼットが出てこない。19世紀のパリが一向に現れない。やがて、僕は勘違いをして映画館に入ったことを知った。

時代はフランスがサッカー・ワールドカップで優勝した年。ユゴーの小説の場となったパリの下町モンフェルメイユ。「新人警官と同僚たちが、ある少年の引き起こした些細な事件をきっかけに、やがて取り返しのつかない事態へと陥っていく」。この地区は今ではアフリカ系回教徒が多く住む貧しい街となっている。フランス映画であるのに白人は数人しか登場しない。主人公ステファン、「この町では俺が法律だ」とほざく警察官とその上司の女性だけだ。ほとんどは黒人と褐色の人たち。「市長」も黒人、警察官も白人ではない。

映画はフランスでの移民社会での苦悩を描くのだが、多くの思いが頭をよぎった。中東やアフリカからの移民問題。アメリカでの人種対立。パリに回教徒の多く住む地区があることは知識として知っていたものの、移民社会がもたらす対立がこれほど凄まじく描かれた映像はみたことがなかった。まずそのことに衝撃を受けた。こうした問題がパリ以外のヨーロッパの多くの街で起きているのだろうと想像するのに時間はかからなかった。それでもヨーロッパの多くの国では移民の寛容さを持っていることに驚かざるを得ない。

自由とか平等だとか我々が日頃なにげなく使っている言葉があり、正義を掲げる政治家が少なくない中で、近代社会が当たり前として来た多くの崇高な理念までもが、どこの惑星のものなのか分からなくなった。同じ日、菅さんは新政権をスタートさせた。メディアに規制緩和やデジタルの文字が踊っていることに大いなる違和感を感じた。僕のやってきた夜学会のテーマも日本という小さな島国に矮小化されていることに今悩まされている。

地球規模で起きている一番難しい問題は人種間の対立であり、そのことはアメリカだけではなく、ヨーロッパ全体に広がっているのだ。この人種間の対立にどう考えどう行動するのか、僕を含めた日本社会は全く無感覚である。見て見ないふりをするという表現があるが、たぶん今の日本にはこの問題を見る視覚すら持っていないのではないか。そう思うと怖ろしい。

ラジ。リー監督インタビューhttps://fansvoice.jp/2020/02/29/les-miserables-ly-interview/

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安倍さんのアベノミクス 夜学会

9月11日(金)午後7時から
WaterBaseで

9月8日、自民党は総裁選に入った。結果が分かっている選挙ほどむなしいものはない。来週には1カ月前には誰も想像しなかった菅内閣が誕生する。野球でいえば、「名キャッチャー」が急きょマウンドに立つようなものだ。試合には勝ってきたが、度重なるピッチャーの暴投でこのキャッチャーは満身創痍であるはず。球団フロントは何を考えたか、満身創痍のキャッチャーに登板を促したのだ。
8月28日(金)午後5時、安倍晋三首相は記者会見で辞任を表明した。自ら病気を理由にし、責任を以って政権を維持できなくなる可能性について言及した。体調の悪さについては夏前から噂されていたから「やっぱり」というのが第一印象だった。
僕の周辺では、病気だけではないという考え方も出ていたが、メディアの関心事は「なぜ政権を放棄するのか」という辞任の理由には向かず、次期政権の担い手問題に集中した。
僕の関心事は、安倍政権の7年8カ月に何をしたのかという問題だった。

憲法改正
安倍首相が一番やりたかったことは何か考えた。それはまぎれもなく憲法改正だったと思っている。「美しい日本」つまり「軍隊を持てる国」に変えたかった。国会では憲法改正の発議権である3分の2を確保していた。自民党としては千載一遇のチャンスに安倍首相は前に進むことができなかった。それはなぜなのか。単に勇気がなかっただけなのか。自民党内での議論が進まなかった背景にはやはり平和憲法を維持すべきだという勢力が小さくなかったのか。真相は分からないが、安倍一強と言われる中で、モリカケ問題に対しても一切、政権批判が起きなかったことを考えると、国会議員の中でそんなに崇高な国家観を持った議員が多くいるとは考えられない。そうなると、安倍首相の決断力の欠如こそが問題だったと知ることになる。もちろん、僕は憲法9条改正には反対だから、これでよかったと思っている。
アベノミクス
アベノミクスについては当初から疑問を持っていた。そもそも自らの経済政策に関して自ら命名することなどありえない。成功した暁に後から命名されるはずだと考えた。自ら命名するということは「まゆつば」ものということになる。「アベノミクス三本の矢」のうち、実際に実現したのは、「金融政策」と「財政政策」だけだ。
実現したと言っても、褒められたことではない。財政面では国債の大量発行への依存が目立った。GDPがかろうじて下向きにならなかったのは、財政が支えたからで、これは1990年代からの自民党の借金政策から脱却できなかっただけで。積極的に評価するような代物ではない。付けは後世に残すだけに終わっている。
それだけではない。大量の国債発行を消化したのは金融機関ではなかった。金融機関が購入した国債はそのまま、日銀に流れた。その結果、1000兆円の及ぶ発行済み国債の半分が日銀の所有となった。政府が発行した国債は政府に一部である日銀が直接購入ことは、「禁じ手」なのであるが、「いったん市場に流れた国債を購入するのだから問題はない」というのが政府の公式的見解なのだ。
経済学で言えば、中央銀行による国債の「吸収」は通貨の下落を招き、極端なインフレーションを引き起こすことになる。だが、それは起きなかった。いやまだ起きていないと言った方がいい。ヨーロッパもアメリカも同じことを始めたため、売りたくても買える通貨がないというのが実態なのだ。

黒田バズーカ砲
金融面の日銀による金融緩和は黒市場田バズーカ砲といわれたが、量的緩和によって円の信認を失わせることによって円安を演出し、輸出企業の好決算をもたらした。これについては評価が分かれるだろうが、僕は全く評価しない。結果として企業の好決算によってもたらされた富は国民には還元されず、企業の内部留保として貯めこまれただけだった。そもそも、黒田バズーカ砲は「デフレ経済からの脱却」を目的として掲げたが、7年8カ月かかっても、デフレから脱却できていない。国家観など持たない金融界のスズメたちには「株価維持策」にしか映らなかったはずである。その証拠に、株式市場では「円高イコール株安」「円安イコール株高」が繰り返された。
黒田バズーカ砲の効き目がなくなると、日銀は大量の資金を株式市場に注入した。90年代、同じようなことがあった。この時、メディアは「PKO」(プライス・キーピング・オペレーション)といって批判したが、今回、メディアから批判すらなかった。多くの企業で筆頭株主が「日銀」という奇天烈な現象が起きている。国家が株主ということになれば、それは社会主義的資本主義となり、中国が標榜する「資本主義」と同じことになる。皮肉にも、共産主義国家としての中国を批判する日本が実態的に中国経済に近づいていることになる。

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万次郎の不思議 夜学会

日時:9月4日(金)午後7時から
場所:はりまや橋商店街Water Base

8月、万次郎づいて、7冊関連の本を読み、次々と疑問が浮かんだ。まずホイットフィールド船長が万次郎を教育しようと考えたことである。機転が利いて向学心が旺盛だったそうだが、本当に読み会すらできなかったのか。ある程度の素養がないかぎり、船長の眼鏡にかなうはずがないということだった。万次郎が遭難したのは初めて本格的な漁に出た数日後のことで、漁船の操舵すら大した技術を持っていたとは思えない。どう考えてもどこかで読み書き以上の素養を得ていないとその後の万次郎の活躍は説明すらできない。
万次郎が生まれた中の浜についても「寒村」と書かれているが、当時の中の浜はそうではなかった。鈴木典子『現代語訳 池道之助日記』などによると、中の浜は当時、鰹節生産の中心地で、山城屋の屋号を持った業者が「700人」もの人を雇っていた。現在でもなかなかの規模の経営といわなければならない。池道之助は中ノ浜の佐平の長男ということになっている。万次郎に伴って長崎へ行った日記がこの本… もっと見る

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米中対立構造の行方 夜学会

日時:8月28日(金)午後7時から

場所:はりまや橋商店街Water Base

今のアメリカと中国の対立構造を理解するキーワードがいくつかある。まずは東西対立。そして東側の分裂。この構造はいつか見てきた歴史とオーバーラップする。そう、1930年代のアジア太平洋をめぐる日米の対立構造である。東洋の日本という国家の存在感が第一次大戦以降、急速に大きくなった。特に中国市場をめぐっては既得権益を持っていたヨーロッパ勢が劣勢となる中で日米が権益を拡大した。対立の激化は日本の陸軍の暴走とアメリカ側の挑発によって臨界点を超えてしまった。

国家が台頭する時期に起きるのは自らの「過信」であり、対立する側への「憎悪」である。僕の中で、習近平の一帯一路構想は大東亜共栄圏の発想と生き写しとなっている。ともに生存権の拡大を目指している。周りの国や相手国からみると暴走気味に映る。自らの生存権の拡大は周辺国にとっては当然ながら逆に死活問題となる。

アメリカ側から見ると、30年来の中国は戦前の日本の動きと重なるはずだ。当時の日本は皇国史観に固まっており、現在の中国は共産党思想に固まっている。90年代の中国はなんとか国際社会との協調が不可欠だった。江沢民時代、反日教育を復活させるなど強硬姿勢を崩さなかったが、欧米諸国とは友好を重視した。アメリカにとってもまだ中国は脅威の対象ではなかった。

2010年を境に中国のGDPは日本を追い越し、中国は空母を保有するまで海軍力を強化した。南シナ海をめぐる領有権問題で、軍事拠点の建設を進めて支配を強化した。

アメリカからみると、経済的にも軍事的にも強大なライバルが登場したことになる。しかも民主主義という自らの陣営の理念を共有しない共産主義国家である。

アメリカは戦前、ABCD包囲網を形成して国際的貿易から日本を排除しようとした。「挑発」である。戦後、東京裁判の裁判官として唯一、日本の無罪を主張したインドのパール判事は「必ずしも侵略戦争ではなかった」と断定した。戦争の引き金として日本包囲網の存在があったとしている。

トランプ政権になってから、アメリカは対中貿易を不公正なものとして圧力を加え続けている。ハイテク技術は80年代の原油輸出にあたるかもしれない。台頭する中国の勢力拡大にとどめを刺そうとしているようにしか映らない。

南シナ海で中国が4発のミサイルを撃ち込んだ。これは何を意味するのか。日本人としてよく考えなければならない。「挑発」に対する「報復」なのか、偶発であるはずがない。中国にすれば、香港問題も台湾問題も主権にかかわる問題。民主派、独立派が台頭するのは背後にアメリカがあると考えるはずである。いずれにせよ、戦争でとばっちりを受けるのは周辺国である。われわれはアメリカの中国に対する挑発に軽々に乗ってはならない。それは香港や台湾も同じだろう。

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高知城を国宝に、棟札に500万円

高知城追手門の前に「高知城 国宝」と刻まれた石碑が立っている。

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香港で起きる新聞の死 夜学会

日時:8月14日(金)午後7時から

場所:はりまや橋商店街Water Base

8月10日、リンゴ日報の創業者、ジミー・ライ、民主派のアグネス・チョウら10人が香港国家安全法違反容疑で逮捕された。6月30日施行された同法は、当初は「抜かずの宝刀」ではないかと考えられていたが、そうではなかった。施行後たった40日で「過去に遡る容疑」で逮捕したのだから乱暴だ。どう考えても長年、英国法による犯罪取り締まりに親しんできた香港警察の手法ではない。北京からの直接采配があったに違いない。

僕がショックだったのは、民主派の逮捕ではない。新聞発行者として長年、中国を批判してきたジミー・ライを逮捕したことだった。

自由民権時代の新聞条例を思い出していた。明治時代の新聞はそもそも政府批判を名目に発行された経緯がある。この条例のため、各地の新聞は発行禁止処分に遭った。政府を批判する側もさるもので、多くの場合、題字を変更したり、発行者を差し替えたりして翌日から発行を継続した。香港の場合は違った。発禁を通り越して「創業者」を拘束した。大陸では新聞の検閲は当たり前のことだが、香港では返還後も検閲はなかったはずだ。その香港で検閲ではなく、逮捕に踏み切ったのはたぶん、香港に新聞条例がないからであろうと思う。

ジミー・ライは逮捕後、翌日に保釈されたが、免責になったわけではない。捜査は継続していて、いつでも「送致」「起訴」に持ち込むことが可能である。

明治15(1882)年、高知市で「新聞の葬式」があった。明治維新後、憲法制定や議会開設など国民の政治参加を求めた自由民権運動の中で、民権派の「高知新聞」が同年7月14日、政府から発行禁止処分の弾圧を受けた。既に5回の発行停止処分を受けていた。この発行禁止処分への抗議への意味を込めて行われたイベントだった。

ジミー・ライの逮捕はまさに「新聞の死」を意味している。テレビはすでに放送法によって香港政庁が介入することができるため、あからさまな政府批判はこれまでも少なかった。新聞の死の後、何が起きるか。たぶんネットの規制であろう。大陸ではFacebook、Twitter、Google、You Tubeはブロックされて「国内では使用ができない」。同じことが香港で起きるはずだ。改革派がデモや集会を呼び掛ける手段がなくなるとどうなるか! 香港が持つ唯一の強みは西側の常識が通用する空間だった点だ。香港には大陸の「本音」が漏れ伝わる独自の情報ルートがあった。西側にとって香港が重要だったのは、北京発の大本営発表に現れてこない情報を収集することだった。香港のメディアが大本営化したら、西側にとっても香港は不要な存在となろう。

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武士道と李登輝さん 夜学会

8月7日(金)午後7時から

場所:はりまや橋商店街Water Base

先週、「台湾民主化の父、李登輝」をテーマとした。李登輝さんが書いた『武士道改題』と『武士道』(新渡戸稲造)、『明治という国家』(司馬遼太郎)を改めて読んだ。新渡戸稲造がなぜ『武士道』を書かざるを得なかったか。なぜ多くの武士たちが明治以降にプロテスタントとなったのか。そして、李登輝さんが武士道の何に心を動かされたのか。いくつかの疑問が氷解した。

明治国家を築いた人々の根底に何があり、行動や思考を突き動かした背景に「国民」としての目覚めがあった。明治という時空を歴史的に切り取ってみると分かりやすい。徳川家による統治が崩れ去った後、明治の人々は新たな国づくりを余儀なくされた。日本にはヨーロッパ諸国のようにキリスト教という精神的支柱がなかった。しかし、武士たちの家では人間の生き方について厳しい教えが語り継がれ、それを日々生きる糧としてきた。

新渡戸稲造はそれを「義」という概念で定義した。英語で言えば「ノーブレス・オブリージュ」となろうか。もちろん儒教の教えの中にある概念である。儒教における最高規範は「仁」だったが、新渡戸は、武士たちは儒教の教えの中から「義」を最も大切なものだと定義し、新興国、日本の精神的支柱だと世界の人々に説明した。人のために尽くすこと。これが義ではないか。僕はそう考えたい。

これは「公」につながる。李登輝さんは義の中の「公」に大いなる価値を見出した。中国社会になくて日本社会にあったのが「公」だと国民に伝えた。李登輝さんは、「公」の重要性を伝えてくれた日本を大切に思ってくれたのだった。李登輝さんたちは台湾建国の中心理念に「公」を据えた。それが「日本精神」であったと思いたい。司馬遼太郎は明治期のプロテスタントの教えについて、武士たちが持っていた「義」という心意気に相通じるものがあったと説明している。

西洋で国民国家が誕生した背景にプロテスタントの思想があったと説明するのはマックス・ウエーバーだった。かつて国家は王様のものだった。中国の古代でも「帝力いずくんぞ我にあらんや」と喝破した農民の話を古典に残している。民主主義は人々が国のことを自分のことと考えないかぎり成立しない。李登輝さんが「公」を持ち出す理由がそこにあった。国のかじ取りを担う政治家はもちろんのこと、政治家を選ぶ国民にも「公」が不可欠なはずである。「公」を一言で説明しろと言われてもなかなか難しい。だが、今の日本人でもなんとなく分かる概念ではないだろうか。新渡戸稲造は「義」と説明した武士道を李登輝さんは「公=ノーブレス・オブリージュ」と翻訳した。分かりやすい。ともにプロテスタントだった。

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被災の球磨村でトレーラー・ハウス

球磨村でトレーラーハウスによる仮設住宅がオープンした。画期的なのは被災後約一ケ月での入居である。全国の自治体が備蓄し、被災地に互いに融通すれば仮設住宅のコストは格段に下がるはず。 

熊本県球磨村で2日、村内の総合運動公園内に設置した仮設住宅の入居が始まった。高齢者など支援が必要な33世帯が優先的に入居する。村内では他に仮設住宅113戸の建設を開始しており、9月下旬の完成を目指している。

 仮設住宅は工場で組み立て、トレーラーで運搬が可能な「ムービングハウス」。2018年の西日本豪雨などでも活用された。2DKタイプと、入居者が多い世帯向けに壁を外して2DKタイプ2戸を合わせた2種類を用意した。

 住宅が浸水するなどの被害が相次いだ神瀬地区の80代の夫婦は娘夫婦と一緒に総合運動公園を訪れ、「仮設住宅に入れて良かった」と笑顔だった。

https://news.yahoo.co.jp/articles/4118472e25f5e5b48c7037890344725dea0a92cb

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台湾民主化の父、李登輝 夜学会

7月31日(金)午後7時から

場所:はりまや橋商店街Water Base

30日、大きなニュースがいくつも世界を駆け巡った。コロナ感染者が国内最大となり、米GDPが4割以上も落ち込んだ。そして台湾民主化の父、李登輝さんが97歳で亡くなった。「日本精神」という言葉で日本を励ます一方、台湾の成功に日本統治時代の経営が生きていることを台湾人たちに訴え、日台に大きな絆を築いた。李登輝さんは21歳まで「日本人」。京都大学に在学中、大阪師団に入隊、名古屋で終戦を迎えた。日本名、岩里武則は台湾のウィキペディアにも載っている。農学者として活躍したが、当局から嫌疑を受けて取り調べを受けたこともある。

台湾は大陸で敗れた国民党が長く政権にあり、蒋介石独裁国家だった。長男の蒋経国が総統を引き継ぎ、80年代まで外省人が台湾人を統治していた。日本の代わりに国民党がやってきたたけで、台湾人は「犬が去って豚がやってきた」と語っていた。

台湾に転機がやってきたのは、1988年の蒋経国の死だった。たまたま台湾人の李登輝を副総統に据えていたため、党規に従って総統に就任した。李登輝は1996年、初めて総統選挙を実施し、初の民選総統に就任した。中国は台湾海峡でミサイル訓練を行うなど選挙に対して圧力をかけた。

中国共産党と国民党はともに独裁政権である意味でコインの裏表のような存在だったが、その片割れの国民党が独裁政治から決別し、民主政治を目指すことには大きな意味があった。戦後一貫して台湾の軍事解放を国是としてきた中国を刺激することによって再枠の事態を招く可能性もあったが、李登輝は台湾の民主化にあえて大きく舵を切った。その勇気は台湾精神を鼓舞した。李登輝は難しい国際政治の中でみごとまでの手腕を発揮したアジアの数少ない政治家といえよう。

その哲人政治家のもう一つの側面が「元日本人」という人格だった。台湾の経済的成功について、戦前の日本統治にあった「公」という概念に着目し、国民に対して「私」ではなく「公」の重要性を訴えた。植民地から独立を果たした多くの新興国がかつての支配者への否定から始まったのに対して、李登輝は日本統治を肯定した。破壊から新社会を築くのではなく、新国家の基礎を過去の統治にもとめたのだから、多くの政治学者は戸惑ったに違いない。

僕は、孫文革命は李登輝によって引き継がれたのではないかと考えている。孫文は1925年、死の直前に神戸市で行った「大アジア主義」という講演で、日本に対して「西洋の走狗となるのか、アジアの干城となるのか」迫った。李登輝は総統退任後、何度か日本を訪問した。日本人に対して訴えたいことが多くあったはずである。「公」の精神を失った今の日本の現状を憂いていたはずだ。僕は一度も李登輝さんと会ったことはないが、長老派のプロテスタントである李登輝さんは新渡戸稲造と同様に日本の武士道の精神を併せ持った稀有な政治家だと思っている。多分、どこかで賀川豊彦の著作にも出会っているはずだと確信している。

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新宿中村屋サロン 夜学会

7月17日(金)午後7時から

場所:WaterBase

アンパンを作ったのは銀座木村屋。ではクリームパンは? 答えは新宿中村屋だ。シュークリームからヒントを得たという。明治時代、日本でパンの普及は菓子パンから始まったというのが定説だ。中村屋は当初、本郷の東大近くにあり、学者や学生たちに評判を得ていたが、後に新宿に移転する。きっかけは、パンの行商で近郊を売り歩いているうちに購入者が多かったためとされている。

中村屋は信州安曇野出身の相馬愛蔵と仙台藩士の娘で明治女学校を出た良の二人が創業した。二人は結婚後、安曇野で養蚕業をしていた。二人ともキリスト教徒で、愛蔵は井口喜源治らと明治31年に私塾「研成義塾」を開講するなど進取の気性があり、良もまた明治女学校で文学を通じて多彩な人脈を持っていた。

中村屋が新宿に移転すると、愛蔵と良を慕って多くの文化人が近隣に住み着いた。まず安曇野出身の彫刻家、荻原守衛がアトリエを開いた。戸張孤雁、柳敬助のほか、中村彝、中原悌二郎らが中村屋に出入りし、とみに芸術的雰囲気が広がり、芸術家のサロンと化した。外国人の出入りも少なくなかった。盲目のロシア詩人、エロチェンコ、そしてロシアのニンツァ。インド人革命家で日本に亡命していたボースは、英国の訴追を逃れて、中村屋に姿を隠した時期もあった。

中村屋のレストランの定番メニューとなっている、インドカレーや月餅、ボルシチはそんな外国人との交流から誕生した。たまたま生業としたパン屋が芸術家のアトリエとなり、国際交流の場となる背景には「「人はいかなるものになろうとも、何をしようとも、その前に良き品性の人になれ」という研成義塾の教えがあった。相馬夫妻のことを知ったのは学生時代に呼んだ『安曇野』がきっかけだった。インド人革命家の亡命生活を支えていたのが新宿のパン屋だったという話が忘れられなかった。

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内山完造と中国―日中友好協会70年 夜学会

7月10日(金)午後7時から

場所:WaterBase

今年は日中友好協会が生まれてから70年になる。1950年は日本が戦争に敗れて5年、まだ連合国の支配下にあった。大陸では前の年の1949年10月、中国共産党が中華人民共和国を宣言していた。日本に外交権がない時代に大陸との正常化を目指す国民運動が起きたのである。イギリスはすでに中華人民共和国を国家として承認していたが、朝鮮半島では南北に分れて対立が激化していた。世界ではまだ東西対立という言葉もなかった時代である。

日中友好協会の初代の理事長に就任したのが内山完造だった。内山完造は1913年、上海にわたり、参天製薬の薬売りとなった。今もある大学目薬である。日本と同様に家の中が不潔だった中国で日本の目薬がよく売れた。内山は揚子江沿いに販路を拡大していったが、上海に残した妻のために書店を開いた。内山書店である。内山はキリスト教徒だったため、最初は宗教書を売っていたが次第に一般図書にまで広がった。

当時の中国の知識人は日本語に翻訳された欧米の書籍から知識を吸収していたから、内山書店は繁盛した。店を訪れる知識人との交流は広がり、日本の知識人が大陸を訪れる際の接触の拠点となった。芥川龍之介、賀川豊彦、吉野作蔵、多くの日本人を中国人とつなげていった。同じ時期に北京のスラム街で学校を経営していた清水保三とともに日中の架け橋的存在となった。

内山を有名にしたのは、魯迅との出会いであった。魯迅は仙台で医学を学び、後に文筆家として大陸で第一人者となる。魯迅は兄の周作人がいた北京と上海を往復していたが、共産主義に軸足を置いていたため蒋介石の国民党から危険視されていた。その魯迅が上海で頼りにしたのが内山だった。内山は大陸に関する多くの著書をものにした。

最初の「生ける支那の姿」の序文を書いたのも魯迅だった。「著者は二十年以上も支那に生活し各地方に旅行し各階級の人々と接触したのだからこんな漫文を書くに実に適当な人物であると思う」「老朋友であるから悪口も少々書き添えておきたい」「支那の優点らしいものをあまりに多く話す赴きがあるのでそれは自分の考えと反対するのである」それに対して内山は言った。「もし書いたことが中国人の優点美点であると見えるなら、従来日本に伝えられた中国人の生活は、その反対である醜いことや劣った点ばかりが伝えられて居ったと云うことになるのではあるまいか」

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