やっぱり仏ヴェオリア、宮城県水道民営化

 早ければ来年4月から宮城県で水道が民営化される。言葉は悪いが、「やっぱり仏ヴェオリア社が出てきた」。先週、仙台の知り合いの弁護士から電話があり、最後まであきらめず反対運動を続けると言ってきた。

20年前なら僕も民営化に賛成していたかもしれない。2年前、僕は年柄もなく高知市議選に立候補した。理由はただ一つ。「政府が進める水道の民営化に反対の声を上げる」ためだった。その時は浜松市の上水道がヴェオリア社などに買収される寸前だった。市民による運動によって、鈴木市長は民営化を断念せざるを得なかった。

宮城県の村井知事は民営化の「フロントランナーになる」と豪語している。民営化によって本当に宮城県の未来が明るくなると信じているのだとすれば、ノー天気と言わざるを得ない。コンセッション方式による民営化は設備そのものは自治体が保有し、運営権だけを民間に委ねるものだとされるが、問題となっている老朽水道管の交換は相変わらず行政負担となる。これだけでもコンセッション方式は眉唾だと言わざるを得ない。企業はおいしい部分だけを得ることになる。

問題はたくさんある。民営化されたとたん、水道は情報公開の対象とならなくなる。企業経営は秘密のベールにつつまれる。ベルリン市の水道は今、公営に戻っているが、ヴェオリアらが経営していた時代は市議会議員にすら情報が秘されていた。どれだけ利益があることさえ分からなかった。勇気ある市議が裁判に訴えて情報公開を勝ち取ったが、勝利の対価は1500億円にもおよぶ損害賠償費用を必要とした。

20年という契約期間中、市民は自分たちの水道の経営内容を知らされないのである。パリ市は10年前、20年の契約更改時に公営に戻す公約を掲げた勢力が市長選挙で勝利し、損害賠償の負担なく経営権を取り戻した。その結果、水道料金は十数%も安くなった。

宮城県の場合、コンセッションで売却対象となるのは、上水道が大崎広域水道事業など2事業、下水道が阿武隈川下流流域下水道事業など4事業、工業用水が仙台北部工業用水道事業など3事業。対象区域内に約190万人が居住する。

「県の試算では、従来方式で3事業を20年間運営する総事業費は3314億円だが、コンセッション導入で247億円を削減できるという。受託企業にはそのうち200億円を削減してもらう計画だ。村井嘉浩知事はコンセッションにより「水道料金の値上げを抑える」と説明する。20年後に2割増えると予想される水道料金の引き上げ幅を、コンセッションで1割程度に抑えたい考えだ。」(日経新聞)

 昨年9月議会で民営化条例が成立し、今年3月から入札企業が公募され、3社が参入した。その結果、水処理会社「メタウォーター」が優先交渉者に選ばれた。フランスのヴェオリアグループの関連企業「ヴェオリア・ジェネッツ」、オリックスなど10社で構成するグループ。同グループの提案によれば20年間の水道事業費が287億円削減できると見込む。

 ただこれは現時点での計画にすぎない。この30年、世界中で行われた民営化ではどこでも「経費削減」がうたわれたが、結果、ほとんどの地区で値上げが行われている。ヴェオリアとスエズが経営するマニラ市水道は5-6倍に跳ね上がっている。

 一番の問題は民営化後、経営がうまくいかなかった場合、水道事業が転売される可能性があるということである。サッチャー首相によって民営化されたロンドン水道はドイツ企業に転売され、現在はオーストラリア企業が運営している。国防に関連する企業や放映権がからむ放送事業などには外資規制がかかっているが、日本の水道事業は全く無防衛だ。その証拠にフランスのヴェオリアを中心とした「メタウオーター」が優先交渉者となっている。メタウオーター社が経営難に陥り、社会主義国の企業に宮城県水道の経営権を売却する可能性だってないわけではない。村井知事はそんな事態になった場合、どう責任を取れるのか。

 このままでは6月県議会でメタウオーターへの経営権移譲が成立してしまう。今からでも遅くない。宮城県民は水道民営化をストップさせてほしい。水道民営化というウイルスを宮城県から他の都道府県、市町村にまん延させないでほしい。

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収益一辺倒の企業経営への疑問 国際商業1986年9月

 国際商業1986年9月号

 通商摩擦の記事がプロ野球並みに日々の新聞紙上を賑わせ始めて久しい。半導体、自動車。工作機械など先端分野から鉄鋼、繊維といった10年以上も前に問題になった分野でもいまだに軋樫が続いている。円高と原油安のおかげで、国際競争力がないということで国の手厚い保護を受けた石油化学でさえ競争力を回復しつつある。明治以来、衰退してしまった産業はアルミ精錬と石炭ぐらいのもので、なぜこうも日本が強くなったのかわからない。欧米の強い批判にようやく重い腰を上げ、「内需主導の産業構造に転換する」と公約したものの、長い年月を経て築いてきた輸出主導型の国内産業構造は一夜にして変えられるものではない。
 自動車産業は年間500万台ある国内需要に対して一千数百万台を生産する能力を国内に持っている。つまり、作ったものの半分以下しか国内で売れず、あとの700~800万台を売るために、各メーカーは虎視耽々と海外市場を狙っている。米国への輸出が増えないとわかると。ありあまった力を中国に向ける。中国が外貨不足になると今度は欧州に集中豪雨的輸出を仕掛ける、といった具合。生産を調盤しようといった考えは全くなく、この間も生産力を強化してメーカー間の競争は激化する一方だ。こうした傾向は何も自動車産業に限ったわけでなく、電機、精密機械とあらゆる産業分野で展開されている。
 政府は輸出を抑制する一方で輸入品購買の奨励にも力を入れているが、各産業分野で生産力が国内で消費される分量を大幅に上回っているため、外国製品の輸入を許すスペースはほとんど残っていない。
 生産拠点を海外に、という議論も盛んだが、これまで生産していた工場の労働者を簡単にクビにするわけにはいかない。労働者ごと工場を海外に引っ越しさせるのはなおさら難しい。
 ないないづくしでは到底。欧米の不満を和らげることはできないが、昨年の対米黒字500億ドルの数字を分析してみると。邦貨計算(1ドル=160円)で約八兆円。日本の国民総生産約300兆円からみると3%足らずと大した金額に思えない。しかし、このところ欧米で盛んになっている企業買収でたとえると、米国の大手石油会社やコンピュータ会社の買収金額が100億ドル内外。つまり、ガルフオイル、ヒューズエアクラフト、ゼネラルフーズといった巨大企業が年間5社ずつ買える計算になり。10年も続ければ、世界のトップ企業はほとんど日本企業の軍門に下ってしまうことになる。こんなことを欧米が許すはずもなく危機感はわれわれが考える以上に強いはずだ。
 ただ。ここで忘れてはならないのは、膨大な貿易黒字は企業の収入として入ってくるのであって、政府が金持ちになったり、国民一人一人の年収が増えたということではない。さらに、企業の収入が増えることは必ずしも利益が増えることには直接つながらない。もちろん増収による増益効果はあるが、半導体のように生産が増えるほど、一つ一つの製品の利幅が減るものも多い。ところが、日本の企業がこれまで指向してきたのは増収の一辺倒。企業の評価も「売上高がいくらある」というのがもっぱら。激しいシェア競争の中で利益優先といった考えはほとんど定着していない。
 世界的な低成長時代に日本だけが量を増やし、伸び悩む全体のパイを侵食してばかりいてはうまくいくはずがない。難しい時代だが、経営者は「もうかる経営」の基本に立ち戻る必要があり、営業の最前線も「売上げグラフ」ばかりに固執せず、利益の発送に転換を図る時期がきている。★

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山東半島ルポ2 人材登用がカギ

神奈川新聞1988年10月15日


 山東半島保北側の開放都市、煙台市では経済開放を模索する中国の一つの側面を見た。煙台市郊外で日中合弁のワイン造りに乗り出した日中友誼葡萄公司で、日本人の塚本俊彦社長が昨年暮れ、副社長以下経営の足を引っ張っていると判断した人の解雇を断行した。この結果「企業の役に立たない者はやめさせられる」ことが分かって、社内にかつてない緊張感がみなぎり「経営は一気に軌道に乗った」(同社長)という。
 社会主義国では世ほどのことがない限り従業員の解雇は実現したい。
 人事刷新が当然に
 実はこの回顧劇の裏には愈正声煙台市長の並々ならぬ協力があったようだ。「われわれは山梨の中小企業。8億円もの金をつぎ込んだこの事業に失敗したら屋台骨が崩れてしまう」と塚本社長の必死の説得で愈市長が前面に出て合弁会社の人事刷新に乗り出した。
 このことについて愈市長は「外国企業との提携では、中国側がどれだけ有能な人材を提供できるかが勝負。能力のない人はやめてもらい、有能な人材を登用するのが煙台市のやり方」と自信たっぷり。
 中日友誼葡萄公司の解雇をきっかけに、煙台市では今年に入って企業の人事刷新が一気に進みつつある。「もはや外国系企業では解雇は当たり前。今では中国企業でも人事刷新は浸透しつつある」(孫佑天煙台日報編集主任)との見方があるほどだ。
 外資導入では遅れ
 山東半島はかつてドイツや日本の支配下にあったこともあり、繊維や食品産業が発達。石炭、石油といった資源にも恵まれ、中国の中でも一、二を争う経済発展への潜在力を持つといわれている。しかし、ここ数年、外資導入に関しては中国南部や天津、大連といった先進地区と比べれ「「遅れをとっている」(青島の日本商社筋)ことは否定できない。
「青島開発区にすでに74の企業誘致が決まっている」(汪少華開発区管理委員会建設部副部長)とはいうものの、外資との合弁は18件だけ。
 業種も繊維や食品加工など軽工業に隔たり、青島市が求めているハイテク産業は皆無だ。
 問題はまだまだ山積
 山東半島の経済界j法が期待外れに終わっている背景には、人材問題のほかにも、外国からの交通の不便さ、道路や港湾といったインフラストラクチャー(社会基盤)の未整備など山東半島には問題がまだ山積しているという現状がある。日本企業の山東半島への進出を中国が本当の望んでいるとすれば、「良質の労働力の提供に努力するとともに、インフラ整備のスピードを上げるなど外資受け入れ態勢を早急に整えていくことが不可欠」(日中経済協会)との指摘を忘れてはならない。(2021年4月アップ)

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山東半島ルポ1 急接近する韓国

神奈川新聞1988年10月14日

 日本と韓国に最も近い中国といえる山東半島が経済開放に向けて大きく動き出している。中国初の輸出加工区の建設が計画され、日本の対中円借款でも青島市経済技術開発区のインフラストラクチャー(社会基盤)の整備が対象となった。韓国との接近もクローズアップされるなど、経済開放に積極的に収り組んでいる山東半島をルポした。
 輸出加工区の建設
「機械は台湾製。材料のポリエステルとナイロンは韓国と台湾から輸入しています」―青島市経済技術開発区で昨年から稼働している協連繊帯有限公司は、衣料用リボンを製造する香港と中国との合弁企業だ。開放が進んだ中国南部だけでなく、山東半島でも韓国や台湾といった国交のない国や地域との経済協力が始まっている。
 山東半島第一の工業部市で青島市は1984年に経済開放都市に指定されて以来、経済技術開発区の建設に着手、外資導入を本格的に進めようとしている。
 青島市がそうした中で今、日木に協力を求めているのが、輸出加工区の建設。開発区開拓の一角保税地区を設けて外資導入の起爆剤にするのが狙いだ。「韓閥の馬山、台湾の高雄の輸出加工区をモデルにする」に(劉世光開発区管理委員会副主任)というだけに、日
本を中心とした韓国、台湾を中心とした外国企業の寒心も高い。
 訪中団が10団体も
 特に、山東半島の開放都市が期待を寄せているのが韓国。青島市政府によると山東半島を訪れた韓国経済界の訪中団はこの春からだけでも10団体を超える。「ソウル・オリンビック前の8月はどちらを向いても韓国人だらけだった」(青島氏のホテル関係者)というほどだ。
 合弁士業の成約などの具体的成果はまたほとんどない、韓国との貿易量の拡大に伴い、山東半島の青島と韓国の仁川を結ぶ定期貨物船(パナマ船籍)が8月から修交した。
 山東省から民間訪韓ミッション出ている。この9月の訪韓の際は、大韓貿易振興公社(KOTRA)との間で貿易事務所の相互設置とフェリー開設でボウイ、近く具体化の見通しだ。
 中国も韓国のラブコールにこたえ、「ソウルまで飛行機で飛べば30分。北京より近い」
といったエールまで飛び出している。この4月ひそかにソウルを訪問、中韓接近の地ならし役を果たした劉古徳中国国際商会青島商会長は「韓国の対中経済交流の意気込みは想像以上だった。われわれもこれにこたえなければならない」と熱りぽく語った。東西対立の両極端にそれぞれ立っていた中国と韓国が交流拡大を図る時代がやりてさている。
 技術の日本頼りに
 とはいっても山東省が本当に頼りにしているのは高度な技術を時つ日本ではないだろうか。事実「韓国の工業化の経験を学ぶことも重要だが、われわれは日本からより多くを学びたいと考えている」(賈森青島市対外貿易委員会副主任)といった声をよく聞いた。その証処に、日本からの投資導入を加速させるため、中国は竹下首相訪中時に調印した投資保護協定に内国民待遇を盛り込むまで譲歩を示した。だが、山東半島をみる限り、日木企業は進出にまだ二の足を踏んでいるのが実情だ。(2021年4月アップ)

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WaterBaseのこだわり農業

昨年、高知に移住したIT事業家の安藤さんが僕のためのユーチューブをつくってくれた。

Q:農業を始めたきっかけは?
A:10年前、土佐山アカデミーという学校があった。3カ月山で暮らしながら学ぶ講座だった。住み込みで林業から川の漁業、炭焼きまですべてやった。その中で耕し生産することに興味を持った。
Q:WaterBaseの農業のこだわりは?
A:クレソンって流れる水があれば、実はどこでも生える。どぶ川で育つ。でも僕は鏡川の清流で育ったということをうたい文句に売っている。キクイモもそうだが、共通しているのは手間がかからないということ。農薬や肥料もいらない。やりやすい。愛情をこめてこだわりの作物を育てている。
Q:これからの目標は?
A:ナスとかキュウリ、シシトウとか誰もが作るものではなく、あまり人がやらない農業をもっとやるべきだと思う。できればクレソンが鏡地区の主力な産品になるとか、自分が努力すれば、周りの人が見て私もやろうと。自分だけでなく地域に広がる農業を目指したい。

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まん延防止策と緊急事態の違いは? 夜学会 195

政府は4月5日から仙台市や大阪市、神戸市など6市に対してまん延防止等重点措置を適用、次いで東京都、京都府、沖縄県なども対象とする考え。突然出てきた「まん延防止策」って緊急事態とどう違うのか戸惑いが小さくない。飲食店の営業時間の短縮要請や都府県をまた移動の自粛要請など内容はほとんど変わらない。「まん延防止」という柔らかな表現で国民への刺激を和らげるのが目的としか思えない。

「まん延防止」は新型インフルエンザ等対策特別措置法等の一部を改正した際に盛り込まれた条項にすぎない。法律改正要綱には次のように書かれてある。

「現下の新型コロナウイルス感染症に係る対策の推進を図るため、「まん延防止等重点措置」を創設し、営業時間の変更の要請、要請に応じない場合の命令等を規定し、併せて事業者及び地方公共団体等に対する支援を規定するとともに、新型コロナウイルス感染症を感染症法において新型インフルエンザ等感染症と位置付け、所要の措置を講ずることができることとし、併せて宿泊療養及び自宅療養の要請について法律上の根拠を設ける。」

改めて、霞が関官僚の言葉遊びにあきれてものが言えない。一方で、ワクチン接種の動きは緩慢なまま。日本は新型コロナウイルスの発症以降、1年以上がたつのにPCR検査は不徹底のまま、多くの民間病院への感染者受け入れも進んでいない。これでは国民に危機感が伝わるはずもない。

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台湾人として初めて五輪出場した張星賢

 国立歴史民族博物館で開催していた「東アジアを駆け抜けた身体(からだ)-スポーツの近代」という特別展。東アジアの近現代をスポーツという切り口から人間の生きざまを連想させるユニークな展示だった。特筆すべきは、国立台湾歴史博物館との共同研究の中から張星賢という戦前のオリンピック陸上選手の存在が発掘されたことだった。日本統治下とはいえ、台湾人として初めてのオリンピック選手となり、ロサンゼルス、ベルリン大会に出場した。ベルリン大会のマラソンで優勝した朝鮮の孫基禎(ソン・ギジョン)のように歴史に名前が残らなかったのは、張がメダルに届かなかったからなのかもしれないが、国民党下の台湾では日本統治時代が否定されたため、日の丸を背負ってオリンピックに出場した選手の名前など忘却の彼方の置かれていたはずだった。

 最強の早稲田陸上部で頭角
 張星賢は1910年、台中市に生まれ、台中公学校に在学中から陸上に目覚めた。父親の仕事で一時、大陸の広東省汕頭に移ったが、台中州立職業学校で頭角を現し、18歳の1928年の神功神社奉納陸上競技大会(台湾での国体のようなもの)で初優勝。その後の明治神宮体育大会にも出場した。1930年、台湾総督府交通局鉄道部にいったん就職したが、陸上への夢を捨てきれず、翌年、早稲田大学商学部に進学し、卒業までの3年間、当時、最強と言われた早稲田陸上部に所属した。数々の大会で日本記録を樹立したことで、1932年のロサンゼルス・オリンピック出場を果たした。
 日本がオリンピックに参加したのは、1912年のストックホルム大会からだが、ロサンゼルス大会では、競泳男子1500メートル自由形で北村久寿雄が優勝したほか、400メートル自由形を除く5種目を制覇し水泳王国日本を象徴する大会だった。また陸上では南部忠平が三段跳で優勝、馬術障害では西竹一が金メダルを獲得した。そんな中、張星賢は400メートルと400メートルハードルに出場したものの、ともに予選落ちした。無念の初オリンピックだったが、当時の400メートルハードルの様子は次のように日本に伝えられた。
「日本軍の先陣をうけたまはる張君は頑張れ! 頑張れ! の声援でスタートについた。此の組にはパリ大会の覇者米国のテーラーが居る。張君は頑張ったが、9台目ハードルでよろめいた時、ギリシヤのマンジカに惜しくも抜かれ4着になる」

 3大会連続出場ならず
 ロスアンゼルス大会の後、張星賢は満州国の満鉄に就職、満州国陸上チームの一員として活躍、1936年のベルリン大会でも代表として選ばれた。出場種目は1600メートルリレーだったが、ここでもリレーチームは予選落ちとなり、フラッシュライトを浴びることはなかった。同じ植民地の朝鮮から出場を果たした孫基禎と南昇竜(ナム・スンニョン)がマラソンで金、銅メダルを手にし喝采を浴びたのとは対照的だった。
 張星賢はその後もくじけず練習に励み、1940年に予定されていた東京大会の十種競技の候補として選出されたが、大会そのものが返上され、3大会連続の出場を果たすことができなかった。
 名桜大学の菅野敦志氏の研究論文「1940年と1964年の東京オリンピックと台湾選手」などによると、張星賢は1943年、北京の華北交通に職場を変え、北京で終戦を迎える。1946年、台湾に戻った張星賢は台湾省立台中師範学校に就職。すでに36歳だったが、同年10月の第1回台湾省運動大会では三段跳び、十種競技、1600メートルリレーで優勝。47年、48年の同大会でも活躍し同年、現役を引退した。台湾省体育会の創設、台湾省体育会田径協会(他径=陸上)などの設立にもかかわり、1947年から退職まで台湾省合作金庫に勤務し、1989年他界した。

 誰も知らないことが興味深く
 国立歴史民俗博物館の樋浦郷子氏は2月1日の日本経済新聞文化欄に「『日本代表』台湾選手の哀歓」と題して張星賢についての論考を書いている。「大学のころから日本の植民地支配の歴史に関心を持ち、台湾や朝鮮について学んできた。まったく知識がないわけではなく、その名を聞いたことはなく、一緒にいた日本側のメンバーも皆同様だった。誰も知らないことが興味深く、研究がスタートした」
 樋浦氏によると、台湾歴史博物館には、多くのオリンピック選手に関する資料が所蔵されており、近年、張星賢の家族から手記や多くの大会で獲得したメダル類が寄贈されているという。今回の研究の意義について「張星賢の資料を読み解くことは近代日本と世界の関係を読み直すことだと思うようになった。張星賢が生きた時代は歴史的知識としては広く共有されている。にもかかわらず、現代日本では『日本代表』として活躍した張星賢を知る人はほぼ皆無だ。…(中略)…戦後の国境線の引き直しに伴い、旧植民地への積極的忘却があったことも理由の一つだ。張星賢の人生を通し、私たちが何を『見てこなかったのか』という歴史的叙述ができると思う」と述べている。
 なお張星賢に関しては次のような研究書がある。雷寅雄『第一位参加奥運疋克運動大会的台湾人-張星賢』、曽瑞成編集『台湾百年体育人物誌』、林玫君『太陽旗下的鉄人-張星賢的田径世界』、『台湾教育史研究通迅2007年3月』「身体的競逐与身分的游移-台湾首位奥運選手張星賢的身分認同之刑塑与糾葛」、蘇嘉祥『運動巨人張星賢-第一位参加奥運的台湾人』。

 海の向こうの甲子園
 2014年、台湾で「KANO海の向こうの甲子園」という映画が製作され大ヒットとなった。植民地下の台湾の嘉義農林という中学に永瀬正敏扮する日本人教師、近藤兵太郎が赴任し、一度も勝ったことのない野球部を指導し、嘉農(KANO)はあれよあれよという間に台湾大会で優勝し、あこがれの甲子園でも決勝戦まで勝ち上がった物語だ。「日本人は守備がうまい、漢人は打撃がうまい、そして高砂族は足が速い」。監督にとってそんな三民族混成チームが誇りだった。
 『セデック・バレ』をヒットさせた映画プロデューサー・魏徳聖が、関係者がまとめた嘉農野球部に関する甲子園出場の記録を映画化した。日本でも2015年に公開され大きな話題となった。植民地時代を描く映画のため、「全篇、日本語ばかり」という批判もあったが、李登輝前総統以来、日本統治時代を“再評価”する風潮がある中で記録的な興業成績を上げたことは確かだった。
 その後、近藤兵太郎監督のもとで何度も甲子園出場を果たした嘉農の呉昌征は戦前戦後と日本のプロ野球で活躍した。巨人、阪神、大毎を渡り歩き、何度も首位打者を獲得、1946年には阪神時代投手としても活躍、14勝を挙げ、打率もリーグ14位の0.291を記録、プロ野球初の二刀流選手として名を馳せた。嘉農野球部は現在、嘉義大学となったキャンパスに「KANO」コーナーを設け、栄光の時代を顕彰している。
 いつか「張星賢物語」が台湾でクランクインする日もあるのではないかと期待している。
 
 国立歴史民俗博物館は2014年、台湾の台南市にある国立台湾歴史博物館と相互交流に関する協定を結び、日本と台湾の近代史に関する貴重な共同研究を開始。2016年には「台湾と日本―震災史とともにたどる近現代-」を共催した。特別展「東アジアを駆け抜けた身体(からだ)-スポーツの近代」は3月で終了したが、今後は、国立台湾歴史博物館でも巡回を予定している。(Think Asia掲載、萬晩報主宰・伴武澄)

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クレソン生産が最盛期

3月11日、春クレソンの収穫を始めた。約1カ月、一日おきに鏡地区に収穫の行く。朝早い時は午前6時に家を出る。朝日に輝くクレソンが愛おしい。40から50束のクレソンを袋詰めにしてWaterBase店頭で販売している。お得意様は100人は下らないと思う。お客さんとのクレソン談義も楽しい。一番売れたのは2日で4300円の収入になっている。このほか、週に2回、NPO「土といのち」に納品している。多い日は20束以上の注文がある。3月末に東京へ行った時、お土産に持参して喜んでもらった。郵送による販売もしたいが、傷みやすいのでなかなか難しそうだ。

1束=100円だ。みんな「安い」と言ってくれる。僕も安いと思う。何年も前に決めた価格だから、今も100円のままだ。そもそもクレソンを扱っている店はほとんどない。百貨店などでは驚くほど高い値段がついている。僕にとって、クレソンは種もいらない、肥料もいらない、生産費はほぼゼロの商品であるのに、なぜそんな値段がつくのか不思議である。

一日おきに行く立ち飲みバーにはいつもクレソンを持参する。お客さんに食べさせてファンを増やしたいからだ。ほとんどの人がクレソンはステーキのつまみ程度にしか考えていない。バクバクたべてもらえば、味もわかる。ママさんはクレソンは苦手だと言っていたが、今では束のまま折り畳んで口に放り込むほど好きになってくれた。実はクレソンはお酒のつまみとしても悪くない。そのバーではマヨネーズに醤油をたらして食べている。

お客さんに聞かれるのはクレソンの食べ方だ。ドレッシングをかければそのままサラダになる。焼いたベーコンを乗せればぜいたくサラダとなる。おひたしにしたり、おしらえにいれる人もいる。僕が好きなのは豚しゃぶにホウレンソウの代わりに入れて食べることだ。脂っこい料理には必ず合うはずだ。

クレソンは基本的に夏の暑さに弱い。5月に花が咲くとそのまま勢いを失って枯れてしまう。でも9月になるとまた生え始めて、そのまま冬でも収穫できる。霜が降りると紫色に変色するので美しくなくなるので、ビニールをかけて栽培する。そうすると夏を除いてほぼ通年収穫ができるのがすごいところだ。

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高知から見た国際物流 夜学会194

4月3日のはりまや橋夜学会
テーマ:高知から見た国際物流
講師:鍵山武男(元日通参与)
時間:午後7時から場所:WaterBase
日本通運で米国、香港などで活躍、国際的ロジスティックスの専門家。定年後、高知に帰り、一般社団法人高知サマサマCCRCセンター代表理事)、高知日本香港協会業務執行理事・副会長、国際物流研究所代表取締役など多面的な役職を兼ねる。モノをつくり、売るだけでなく、「運ぶ」という仕事は一見地味にみえるが、ロジスティックスこそが経済の心臓を動かす血液の役割を果たす。国際的ロジスティックスの在り方を解き明かす。

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坂田明とミジンコ道楽 夜学会193

 だいぶ昔のこと、本屋で坂田明『ミジンコ道楽』という本を手にして購入した。ジャズメンとしての坂田明について詳しくは知らないが、すこぶる面白かった。最近、そのミジンコを取り出して読んだ。仮死状態にあった僕の中のミジンコが生き返った。山に通うようになって6年、自然の生態をみつめながら、「ミジンコの先に宇宙が見える」という坂田の言葉がさらに重みをもって僕の中でくすぶり始めた。調べてみると坂田明は10年以上前、日本薬科大学で客員も務めるほどのミジンコ研究者だった。ジャズとミジンコとの間につながりなどはないと思われがちだが、ミジンコの映像をバックに演奏する姿を見ると、そこに一体感がある。坂田明はかつてタモリらとハナモゲラ語なる言語を生み出し、一世を風靡した。僕にとって坂田明のジャズソロはほとんど理解不能のステージだが、演奏家としてはモントリオール・ジャズ・フェスティバルに参加するなど欧米でも一定の評価を得ているらしい。

ミジンコは水に棲む生物のえさになる1ミリほどの小さな生き物。水の中のボウフラともいわれる。もちろん人間どもよりずっと前から存在している。アンデスの高地やモンゴルの草原、ヒマラヤの氷河の中でも生きている。ふだんはクローンをつくって増えるが、時々、オスが現れてオスとメスと交尾するというから驚きだ。どこでも生きられる。水がなくとも死ぬことはなく、水たまりですぐに繁殖する。その生命力に坂田明は感動する。そして坂田明はミジンコに愛を感じている。その愛に応えてくれないミジンコに不満を持つが、そこに奥深さを覚えて、ミジンコ道楽から離れることができない。そんなどうでもいい話こそが実におもしろいと思う。

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事変と戦争のはざま

第二次大戦で敗戦後、連合国は戦争指導者を戦争裁判に付した。その際、満州事変に遡って罪を訴求したことに違和感があった。長年のそんな思いが最近、氷解した。石川好氏が李徳全の本を上梓した際の講演をユーチューブで聞いて「なるほど」と思った。概略は下記の通りである。

昭和の歴史で、日本はずっと「事変」でやってきた。満州事変、上海事変、日支事変。対米戦争が始まる前の10年間、日本は中国と戦争状態にあった。第二次大戦開戦時、世界には主権国家が60カ国あった。その3分の2に戦争を仕掛けた。吉田茂でさえ知らない国があった。重要なことは中国には宣戦布告をしなかったことである。これはアメリカの中立法に関わる。もう一つ、戦争法、捕虜の問題もあった。上海事変で中国は20万人、日本は9000人が犠牲となった。

開戦から4日後の12月12日、大日本帝国政府は閣議で「今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時間ニ付テ」次のように決定した。

一、今次ノ対英米戦争及ビ今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルベキ戦争ハ、支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス
二、給与、刑法ノ適用等に関スル平時戦時ノ分界時期ハ、昭和十六年十二月八日午前一時三十分トス[以下省略]

つまり、遡って「大東亜戦争」を定義したのである。第二次大戦に参戦したのは1941年12月8日であったのに関わらず、戦争犯罪が1937年に遡って訴追されたとしても矛盾はないのである。

石川好氏はもう一つ重要はことを話した。蒋介石政権は1942年2月、日本に宣戦布告したというのだ。近衛内閣は「国民党は相手にせず」と政府と認めなかったのだが、蒋介石の宣戦布告により1942年12月、中華民国は連合国の一員となった。最も重要なことは、連合国の一員となった結果として、100年に及ぶ屈辱だった治外法権が解除されたことだった。

中国にとって、蔡二次大戦の戦勝国となった最大の成果は、日本に勝ったことではなく、孫文以来の悲願だった「独立」を勝ち得たことだった。

戦後の日本の問題は、宣戦布告していない国と15年間、戦争した空白に時間があり、その国とどうやって国交を結ぶのかということだった。中華民国とは1952年、国交を締結するのだが、その時、中華民国はすでに中国大陸を追われ、台湾に逃げ込んでいたのである。

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EV強国中国、自動車の新しい風景

 ここ二〇年、中国大陸でエネルギー革命が起きている。夜間に自動車に電源コードをつなぎ、充電して翌朝から自動車を走らせる。そんな風景が普通になりつつある。自動車は二〇世紀がもたらした最大の移動手段である。アメリカで生まれ世界に普及した。牽引したのはエンジンとガソリンだった。エンジンを発明したのはメルセデスとベンツというドイツ人だったが、大量生産によって労働者にも購入できる乗り物にしたのはアメリカのフォード。その自動車のエンジンがモーターとなり、ガソリンが電池に移行しつつある二一世紀になって中国の存在感が強まりつつあるのだ。

中国が輸出始動

 一一月二一日の日経新聞は一面トップニュースとして「中国産EV,輸出始動」の見出しを掲げた。中国は世界最大の自動車生産国であるが、日欧米メーカーの存在を抜きに中国の自動車生産は語れない。その欧米メーカーのEV車が相次いで輸出を始めたことは世界の自動車業界にとって驚きとして受け止められている。当然、国産メーカーの輸出にも弾みがついている。バッテリーなど関連の部品産業も集積し、いつの間にか中国はEV生産の最先端を走っていることに気付かされた。

イギリスの自動車誌「LMCオートモーティブ」が報じたところでは、二〇二〇年一月から六月の世界のEV生産台数は六六万台。約四割の二五万台を中国が占め、輸出ではEVを中心とするNEV(新エネルギー車)は前年同期の二・四倍の三万六九〇〇台に拡大した。

同報道によると、テスラは一〇月から「モデル3」を欧州へ送り出した。BMWは来年以降、新型車「iX3」の欧米輸出を始める。浙江吉利控股集団傘下のEVメーカー「ポールスター」は欧州や北米に「ポールスター2」の輸出を始めた。ポールスターの生産台数の多くは輸出向けだ。ノルウェーで九月新車販売全体の三位に入るほどの人気車。愛馳汽車は多目的スポーツ車(SUV)「U5」を仏レンタカー会社に500台販売したほか、小鵬汽車も輸出を開始した。日欧米でほとんどその姿を見ることがなかった中国メーカーの車がEVブランドで走り出しているのだ。

BYDの出現

 中国でのEV生産のリード役を果たしたのはBYD(比亜迪自動車)。リチウム電池では大手だったが、二〇〇七年、自動車生産に乗り出した。しかも電気自動車だ。アメリカでペイパルの共同経営者だったイーロン・マスクがテスラの製造に乗り出すほぼ同じ時期に、中国でも電気自動車メーカーが産声を上げたのだった。二〇〇八年末に発売した量産型プラグインハイブリッドカー「BYD F3DM」は世界の注目を集めた。世界的投資会社を経営するウォーレン・バフェットが投資したことも大きなニュースとなった。

 世界でEV車が注目を集めたのは一九九〇年代だった。米カリフォルニア州で、ゼロ・エミッション車を5%以上販売できないメーカーの販売を禁止するという先進的取り組みが生まれた。GMとトヨタ、ホンダは本気で開発に乗り出し、EV車を売り出した。自動車に新しい時代が到来することを予感させたが、二一世紀となり、ブッシュ政権が誕生するといつの間にかその法律はなくなり、町から電気自動車が消えてしまった。

 当時「GMのEV1は加速力がすごい」とマニアの中で評判を得たものの、リース契約は打ち切られてしまった。アメリカでは「Who Killed the Electric Car」という名のドキュメンタリー映画が作製され、だれが市場から電気自動車をなくしたのか追及する動きもあったが真相は闇の中に消えたままである。

 アメリカで立ち切れとなったそのEV車が地球の反対側の中国大陸で息を吹き返した。二〇〇〇年代に入ってようやくマイカーブームを迎えた中国では、フォルクスワーゲンやGMなど外国メーカーが生産販売のランキングの上位を占める。国産メーカーは外国勢の後塵を拝したままであるが、そんな中でBYDなどユニークな会社が急成長していた。

雨後のタケノコ、新しい概念

中国の発表では、二〇一九年のEV車売り上げは一二〇万台に達している。もちろん世界トップである。国産唯一のEV車、日産リーフが世界で七万台弱しか売れていないのに比較すると雲泥の差だ。NEVシフトを追い風に多くの企業が続々とEV開発に乗り出しており、この五年間に誕生した新興EVメーカーは五〇社を超えている。すでにアメリカで上場している上海蔚来汽車(NIO)、小鵬汽車、理想汽車など有力メーカーが台頭している。三社ともIT企業からの参入である点が特徴的だ。

二〇二〇年には、EV最大手のテスラが上海で年産五〇万台規模の工場を立ち上げ、販売価格の引き下げで中国市場に参入、EV車の本格展開を開始した。中国のEV市場の特徴は国内資本が切り拓いてきたということである。ここに外資が参入し、「EV市場の拡大を加速させる」というのが市場の見方だ。エンジン車と比べて構造が比較的簡単で部品点数も圧倒的に少ないため、他業種からの参入が容易だったことは確かだ。しかし、早くから電動自転車や電動バイクが普及するなど自動車=ガソリン、という固定観念が希薄なことも寄与しているはずだ。車社会の到来が世界より半世紀遅れたものの、周回遅れが中国のEV化を促す一番の要因であるかもしれない。

タクシー、バスをEV化した深圳

寒村から四〇年で人口が一三〇〇万人に達した深圳市。ハイテクを中心に世界の最先端都市として注目度ナンバーワンだ。その新興都市で進んだのが乗り物の電動化だった。一万六〇〇〇台のバスは一〇〇%、二万台を超えるタクシーもほぼ一〇〇%がすでにEVとなっている。充電基地は広東省内に五万五〇〇〇カ所もあり、アメリカ全体の数に匹敵する。ちなみに日本全国のガソリンスタンド数は約三万カ所にすぎない。EV化の牽引役はもちろん地元のBYDだった。

 バスやタクシーなど公共交通機関のEVシフトは二〇〇九年に始まった。政府は国家を上げて、「十城千輌」政策を三年間で推進した。毎年一〇の都市の公共交通に対して一〇〇〇台分の補助金を出した。エンジンと比較してモーターのエネルギー効率は四倍以上。マイカーの普及で燃料供給に問題が出ると考えた政府がエネルギー政策を大転換させた。その後は、北京、上海、杭州など各都市が独自でEVシフト施策を打ち出し、公共交通のEVシフトが進んでいる。現在では全国の充電スタンドは六〇万カ所を超えている。

 深圳市のバス、タクシーはすべてBYD製だ。深圳市のタクシーはフォルクスワーゲンの赤いサンタナが有名だったが、一〇年で青色のBYD車が赤いタクシーを駆逐した。

周回遅れが勢い促す

中国政府は二〇一八年から、「新エネルギー車(NEV)規制」を導入、自動車メーカー各社が中国で生産・輸入する台数のうち新エネルギー車が占める割合を定めた。一定台数以上のEVやプラグインハイブリッド車の生産販売を義務付けた格好。背景には中国のエネルギー事情と地球温暖化への配慮がある。特に大都市部の排気ガス問題は深刻で、急速にEVに舵を切る必要性に迫られた。

 中国にEV革命をもたらしているのはもちろん政府の規制であることは確かなのだが、背景にはまだまだ新たに新車を購入する層が厚い中国では「電池車」に対するアレルギーが薄いということも影響している。つまり九〇年代から進んでいた電動自転車と電動低速車の普及がある。中国ではすでに二億五〇〇〇万台もの電動自転車が走っている。先進国では「充電」という手間がハードルの一つになっているが、電動自転車に乗ってきた人々にとっては大した手間ではないのかもしれない。

 中国でマイカーが走り出したのは二〇〇〇年ごろからで、貧しかった時代のもっともポピュラーな移動手段は自転車だった。それが、九〇年代から簡単なモーターと鉛電池を取り付けた電動化が始まった。本田宗一郎らが戦後、「原動機付自転車」という新ジャンルを生み出したように、小さな資本の電動自転車メーカーが乱立した。日本ではアシスト機能の電動自動車が走り出していたが、道交法が災いして「自走」する自転車は普及しなかった。中国では多くの省で免許もプレートも不必要だったため、電動自転車の普及が一気に広がった。「電動機付自転車」という新しい概念が定着したのだった。

 元々、モーターと電池という組み合わせに違和感がなかったのだろう。中国の人々にとって、エンジンとガソリンが当たり前だった時代が短かったから、電動自動車に対して大きな抵抗感はないといっていい。

 地球の温暖化を防ぐため先進国でもEVの普及を進めている。だが、充電時間の長さと電池の価格が高いことがまだ大きなハードルとして立ちはだかっている。対照的に中国では国産メーカーによる比較的安いEVも相次いで投入されており、EV導入のハードルは格段に低いといわなければならない。加えて、車載電池など部品産業への投資も活発。自動車はすそ野の広い産業とされてきたが、今後、世界のEV産業の勢力図は、販売だけでなく生産面でも中国が軸となっていくことは間違いなさそうだ。

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3.11から10年目、台湾の支援に感謝 夜学会192

台北市地下鉄中山駅で震災10年イベント

3月12日(金)午後7時から
場所:WaterBaseで
講師:伴

 今年1月23日、台北市の「Taipei 101ビル」の上層階の窓に「日台友情」というメッセージが映し出された。日本台湾交流協会が主催した東日本大震災10年目を「日台友情年」として感謝するイベントのスタートだった。式典には台湾の李永得文化部長(文化大臣に相当)も列席した。
 今年2月13日深夜に東北地方で地震が起きた際にも、蔡英文総統は翌日に「福島県と宮城県を中心とした震度6強の大きな地震が発生しましたが、日本の皆さんが無事でいることを信じています。今まで何度もお伝えしてきましたが、これからも日本を応援する気持ちが変わることはありません。日本の皆さんにとって支援が必要であれば、いつでも台湾はかけつけます。(旧正月)あけましておめでとうございます」と発信している。日本のメディアは震災10年を回顧する記事で満載だが、海外でこれほど日本のことを心配してくれる国はない。感謝しなければならない。

 200億円を超える義援金、85億円の現金配布
 震災から5日後の3月16日。白いズボンと白い帽子、紺色のジャンパーの背中に蓮のマークをつけた一群が茨城県の大洗町に到着した。台湾の慈済基金会(じさいききんかい)日本支部の人々が、トラックと自家用車を連ねて、被災地の人々に温かい料理を振る舞うためだ。この団体は、台湾の財団法人「佛教慈済慈善事業基金会」の日本の分会で、本部は台湾の花蓮市にあり、台湾の尼僧の証厳和尚によって1966年に設立された仏教系慈善団体だ。「慈済」とは、「慈悲為懐、済世救人」(慈悲を懐にいだき、世を救済し人々を助ける)という意味で、実践を重視して世界で慈善活動を行っている。尼僧が中心の団体だが、多くの老若男女が賛同し、各地のボランティア活動に参加している。
 彼らは、夜が明ける前に東京を出発し、茨城県大洗町、岩手県大船渡・陸前高田市、宮城県石巻・気仙沼市など被害の甚大な場所に赴いて、気温が10度を下回る中、カレーライス、焼きビーフン、豚汁、みそ汁などの炊き出しを行った。彼らが届けた救援物資は数十トンともいわれている。この炊き出しは、現地で知らない人はいないが、メディアで報道されることはほとんどなかった。この団体の被災地での救済支援はこれだけではない。彼らは独自に、被災住民に直接現金を配布していたのだ。役所、公民館や集会場に地元住人に来てもらい、一世帯あたり5万~7万円、一人暮らしの方にも2万円を渡した。配り漏れがないように現地の役所と協力し、お年寄りなど配布場所に来られない人には、直接訪問し、一人ひとりに現金を手渡して回っていたと聞く。
 実際に現金をもらった家族に、取材で話を聞いたことがある。
「台湾の仏教団体が現金を配るので各世帯の代表者は公民館に集まるように、とのチラシが配られました。我が家は父が行ったのですが、世帯名簿のチェックをするだけで5万円をもらって帰ってきました。先が見えない不安の中、本当に心が温まる出来事でした。あのお金は私たちに安心を与えてくれました」と当時を思い出し、涙を浮かべていた。
震災後の復興建設においても、台湾からの支援は継続された。

 病院や保育園の建設
 下記については、中華民国紅十字会(台湾赤十字)の義援金を活用し建設され、その支援は2018年まで続いていたといわれている。これらの建物の前には、台湾の“国旗”と「絆」という文字が刻まれ「台湾の皆さんありがとう」と書かれた石碑が置かれていて、東北と台湾の強いつながりを示している。
【宮城県三陸町】公立志津川病院、南三陸町病院
【福島県相馬市】狐穴団地、南戸崎団地、細田東団地井戸端長屋
【福島県新地町】被災高齢者共同住宅
【岩手県山田町】私立大沢保育園(改築整備)、わかき保育園(新名称:日台きずな保育園)、山田北小学校放課後児童クラブ、豊間根地区放課後児童クラブ
【岩手県大槌町】吉里吉里保育園(移転新築支援)、災害公営住宅

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飲み屋での原発談義 夜学会191

日時:3月5日(金)午後7時から

場所:WaterBase

講師:伴武澄

 3月3日、はりまや橋商店街の飲み屋で『原発亡国論』出版を祝って著者の木村俊雄さんと編集者の西田さんが祝賀の宴を開いていた。そこへ僕も参加した。お祝いだということで次から次へとシャンパンが抜かれた。「シャンパンで酔っぱらうなんて贅沢な日だ」というと西田さんは「どんどん飲んで」と上機嫌だった。木村さんは元福島原発の技術者。原発の在り方に疑問を持ち、2000年に退社し今、土佐清水で自然生活をしている。90年代に福島で電力喪失事故が起きた。上司に「こんなことで「津波がきたらやばい」と話したら、それは禁句だとたしなめられた。不幸なことに10年以上たって木村さんの懸念が現実に起こってしまったのだ。

 その数日前、飲み屋のマスターから元原発従事者による原発問題に関する講演録をもらっていた。その中で興味深かったのが次のような話だった。「どんなに優れた設計図があってもそれを組み立てる人間がぼんくらだったらどうしようもない」。一昔前までは建設現場に必ず匠たちがいたというのだ。匠たちは設計者の意図を理解して最善の作業を行ったが、最近の業者はマニュアル通りに組み立てるだけで、それぞれの部品やそれらをつなぐ意味をまったく理解していない。想定外の不祥事や事故が起きる原因がそこにある。なるほど、なるほどと考えさせられた。

 故高木仁三郎博士は言った。地球は宇宙の星のくずから誕生したもので、もともと放射能の塊だったものが「46億年かけて冷めてきて、ようやく人間や生き物が住め るくらいまで放射能が減ったもの」なのだそうだ。だから「宇宙に生命はいないと思う。それくらい地球というのは特殊な条件なのだ」。その特殊性について、「水の存在」もさることながら、「放射能に対して守られていることが大きい」と指摘する。そんな特殊性があるにも関わらず、「せっ かく地球上の自然の条件ができたところに、人間が天の炎、核というものを盗んできてわざわざもう一度放射能を作ったのが原子力なのだ」という。高木さんは、原子力こそが「プロメテウスの火」なのだと強調している。

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日本人にとっての鬼 夜学会190

日時:2月26日(金)午後7時から
場所:WaterBase
講師:伴武澄

 2月26日、NHKの番組「日本人のおなまえ」で熊野地方に「鬼」の地名が多いことを報じていた。市木、木本、二木、三木、七鬼の滝、八鬼山、九鬼、鬼が城。「木」は元々「鬼」と表記されていた。一から九までないのは四、五、六のみっつだけ。なぜ熊野に「鬼」が多いのか解明するのがテーマだった。古代の日本では疫病などがはやると鬼の仕業だと考えた。鬼たちが出没するのは「結界」と呼ばれる「穴」。そこを抑え込むことで鬼の出没を抑えられると考えたようだ。奈良時代、役小角が修験者として吉野にいた前鬼と後鬼の夫婦をてなづけた。後に人間となった夫婦は五人の子供をもうけ、一鬼から五鬼と番号で名付けた。その子孫が今も下北山村に住む。五鬼助という苗字を名乗っている。
 万城目学が書いた「鴨川ホルモー」は平安時代に都を苦しめた鬼たちを現代によみがえらせる手法でファンタジー作家としての地位を確立した。その時以来、僕は日本の鬼たちに興味を抱いた。鬼って何なのだろうか。多くの本を読んだ。結論めいたものはないが、朝廷が「まつろわぬ者」を「鬼」と呼んだ形跡がある。神武天皇の東征物語はまさに「鬼たち」を成敗した話が続き、大和朝廷を橿原に地に開いた後も多くの鬼たちが朝廷に歯向かった歴史がある。陰陽道を開いた安倍晴明は鬼語を理解し、鬼たちをてなづける術を行うことで朝廷内に一定の地位を築いた。
 なぜ熊野の地に鬼たちが多いのか、NHKは「結界」があったと結論づけた。放映にはなかったが、僕は熊野信仰とのからみを考える必要があろうと思う。平安末期、上皇たちが熊野詣を繰り返した。そして蟻の熊野詣という言葉が生まれた。天照大神をまつる伊勢神宮は庶民のものではなかったため、多くの参拝者が熊野に向った。平家の公達たちの多くが熊野で生まれ、宮中にも熊野の人々が少なからず存在した。古くから熊野には水軍があった。海賊でもある。まつろわぬ人々をてなづけたのが平家であった。その子孫が鬼と呼ばれてもおかしくない。その平家はやがて源氏に敗れるのだが、屋島の戦いで熊野水軍が源氏に寝返る。そのことが敗因だった。寝返りをさせたのが義経の家来、弁慶だった。弁慶は当時の熊野ナンバーツー熊野別当の子とされる。朝廷からみれば、平家も源氏も熊野も鬼的存在だったはずだ。
 ちなみに熊野神社の神官は「くかみ」さんという。「九鬼」の鬼の上の点がない字だ。ワープロにはない。喜界島もかつては鬼界島と書いたそうだ。鬼の読み「おに」は隠(おむ)からきたとされる。「みえないもの」つまり「おそろしいもの」「つよいもの」に対して使われた形跡がある。また、鬼と神は表裏一体のものでもある。鏡の中の存在でもあろうかと思う。土佐は古来、流刑の地だった。鬼の住む地とされてもおかしくない。いつまでも「まつろわぬ」人々でありたいものだ。

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兼山が育んだ山崎闇斎 夜学会189

日時:2月19日(金)午後7時から
場所:WaterBase
講師:伴武澄

 19歳の若き僧、山崎闇斎(1619-1682)が京都から土佐に放逐され、南学を学び、京都に帰って大儒家となったことはよく知られた話である。その闇斎を導いたのが野中兼山(1615-1664)であり、京都に戻った後も支援し続けた話は「土佐を語る」で知り、少々驚いた。兼山は父親の死によって21歳で土佐藩奉行職を継承した。奉行職に就きながら、谷時中から南学を学んだ。闇斎が送り込まれたのは吸江寺だった。土佐南学は、吉良宣経に仕えた南村梅軒(?-1579)が起こしたとされ、谷時中(1598-1650)によって再興された。どこで兼山が闇斎と出会ったか不明であるが、共に谷時中に学んだ。闇斎の才能を見出した兼山は土佐藩への仕官を画策したが、果たせず、1655年、闇斎は京都に闇斎塾を開き、垂加神道を説いた。多くの門下生を育て、後の水戸学など尊王思想のバックボーンとなる。
 その闇斎の思想が兼山の経済的支えによって広がったことは我が高知県にとって重要なことではないか、近頃そう考えるようになった。
 土佐は幕末、明治維新を断行した多くの人材を輩出した。かつて僕はそれを第一弾ロケットと称し、第二弾は自由民権運動だったと書いたことがある。実はその前にもロケットが発射されていたことを知った。先週話した義堂、絶海もそうだったし、山崎闇斎もまたそうだったのだ。

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義堂、絶海を生んだ津野荘 夜学会188

日時:2月11日(金)午後7時から
場所:WaterBase
講師:伴武澄

 室町時代、土佐の山間、東津野から義堂、絶海という名僧が生まれた。朝廷から見れば、当時の土佐国は最果ての国、流刑地でもあった。そんなへき地から京都五山文学の頂点を極めた高僧が生まれたから不思議である。五摂家の一つ、一条家が土佐の幡多郡に下向したのは応仁の乱の時だから、時代はもっと後のことになる。そんな土佐の山間で学問の府があったとは考えられない。そんな思いでいたところ、昭和10年代に書かれた「土佐を語る」という本を手にした。
「津野氏は、藤原基経の子、琵琶左大臣の末裔で、延喜のころ藤原仲平の蔵人経高が罪あって伊予に流され、3年後に土佐に入って津野荘を領有し、子孫が羽山城(姫野々白)に據って二十余代、高岡郡に覇を称した家柄であった。この間に盟主出でて文教に心を用い、土佐では夙に文化の進んで領域であった」そうなのだ。
 基経は大納言まで上り詰め、平安時代に藤原家支配を築いた人物で政争を繰り返し、天皇は後継者として菅原道真が登用された。その道真が大宰府に流され、長子の高見は土佐に流刑となった。高見は土佐に多くのものを残さなかったが、藤原基経の子孫といわれる津野氏は土佐に京の文化を伝えたはずだ。
 津野荘はもともと、賀茂御祖神社の荘園だった。潮江にあった荘園が津波で水没したため、津野の地に移ったとされる。そのため津野新荘と命名され、その名はいまも新庄川として残り、駅名にも名をとどめる。実に面白いではないか。

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脱炭素社会2 夜学会187

昨年から新聞などメディアに登場するキーワードの一つが「脱炭素」である。新型ウイルスがなければ、一番目立ったキーワードだったかと思う。EU諸国を中心に社会全体のうねりが脱炭素に向かっている。つまり脱石油とも換言できる。

日本でも菅内閣がようやく重い腰を挙げて2050年にむけて「脱炭素」をぶちあげた。EUで自然エネルギーと電気自動車への転換スピードが昨年から加速し始めている。ここでも日本はまた後塵を拝すころになりそうだ。

風力発電は別として、太陽光発電は一時期まで日本の独断場だったのに、国策が原子力に大きく傾いていたため、太陽光パネルの世界では、日本勢の影が薄くなっている。シャープは台湾企業に支配下に入り、三洋電機の電池部門を引き継いだパナソニックは最近、太陽光パネル製造から撤退することを決めた。残るのは京セラのみである。

携帯電機は日本電電公社が自動車電話として開発したことから普及したが、独自の規格にこだわって世界市場で乗り遅れた。半導体でも同じことが起き、光ファイバーもまた同じ轍を踏んだ。エネルギー分野でも日本は競争力を失った。

自動車ではどうだろうか。トヨタとホンダが世界に先駆けてハイブリッドシステムで世界をリードしたが、EUも中国もハイブリッドではなくEVに向けて走り始めている。ハイブリッドにこだわっているかぎり世界市場をリードできない状況になりつつある。

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感染者1億人の意味 夜学会186

日時:1月29日(金)午後7時から
場所:WaterBase
講師:伴武澄

 中国・武漢でコロナが発生してからほぼ1年。世界の感染者は1億人を突破した。そして死亡者は200万人を超えた。100年前のスペイン風邪の死者の数千万人と比較すると少ないように思われる。しかし、当時の医療環境を考えると、重症化したスペイン風邪の感染者が生き延びられる可能性が少なかったはず。

コロナの重症者5%、500万人を「死亡者」とすれば、決して小さい数字ではない。しかもコロナはまだ1年しかたっていない。スペイン風邪は3年にわたり世界中で猛威を振るった。そう考えると、コロナは今、大変な感染症なのだと再認識されてもおかしくない。

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自動車の脱炭素化は可能か 夜学会185

 

ここ10年のEV車販売台数の推移
欧州の2020年9月のEV車販売

日々の新聞で、コロナに次いで見られるようになった言葉は「脱炭素」だ。残根なのは、日本のニュースはほとんどなく、欧州や中国が中心であることだ。かつてディーゼルが主流だった欧州の自動車市場がここ数年で一変した。2020年9月の統計では、EVが25%を占めてディーゼルを上回った。これは大きなニュースだ。EVの導入は北欧で先行していたが、ドイツを中心に大手がEVの新車を相次いで販売した影響も大きい。
 ハイブリッド車ではトヨタなど日本勢が高いシェアを示しているが、純粋EVではテスラ、ルノー、フォルクスワーゲンが御三家で販売台数を伸ばし、韓国のヒュンダイ、キアも上位を占めている。
 この30年、日本の工業技術は多くの分野で世界の最先端からガラパゴス化が著しい。ハイブリッド車で培った先端技術にも陰りがみえている。政府はもっとEV普及に向けた施策を打ち出さないと、トヨタの地位も危うくなってきた。

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