香港1国2制度の勘違い 夜学会

7月3日(金)午後7時から

場所:WaterBase

講師:伴武澄

香港返還から23年。中国政府は返還記念日前日の6月30日、「香港国家安全法」を施行した。集会や発言の自由が認められていた香港で「独立」という表現は国家犯罪になる。すでに初日から多くの逮捕者が出た。

中国は1984年、イギリスと香港返還共同宣言を締結するにあたり「1国2制度」を約束した。香港島は阿片戦争の見返りとして1842年、イギリスに割譲された、1860年の天津条約で対岸の九龍地区が割譲地として加えられ、1898年、新界地区が99年の租借地となった。本来、返還が義務付けられていたのは新界地区だけだったが、鄧小平は対英交渉で香港全域の返還を要求、イギリス側もそれに合意した。

80年代の香港はアジアの金融拠点として、目覚ましい発展をしていた。誤解してはいけないのは、香港の主権者はイギリス国王であって、香港市民に一切の政治的権利はなかったことである。サイトの香港総督だったパッテン氏は返還の2年前に民選市議会を設けて、中国側の反発を買った。行政長官は今も昔も市民による選挙で選ばれるわけではない。つまり、香港に集会や発言の自由はあっても「民主主義」が保証されているわけではないということである。

そもそも香港返還は香港人に二つの矛盾した心理的影響を与えた。一つはイギリス統治からの脱却である。植民地支配が終わる喜びは多くの香港人が共有した。片や主権を回復するのは共産党が支配する中国であるという不安も当然ながらあった。イギリス時代に享受していた「自由」と植民地から解放される喜びは二律背反するものであったはずだ。そもそも香港の発展は共産党の支配を恐れ、本土から逃れてきた人々が築いてきたものだったから当然である。

共産党の支配から逃れるため、人々が香港を脱出しては香港の繁栄はありえない。1国2制度はそうしたことから生まれた対応であった。香港の人々に引き続き安心して香港で経済活動を続けてもらうための約束でもあった。決して「国際公約」ではなかった。当時、いわれたことは香港人は政治には関心はなく、お金を稼ぐことのみに興味があるということだったが、20年の年月は人々の考え方を一変させた。彼らが自ら香港人と言うように、新たに政治的自由を求めるようになったのだ。

1997年の香港返還はまずは植民地支配からの脱却であった。今回若者を中心とした動きは中国支配からの脱却という面で新たな動きであるといっていい。20年前、僕が考えたのは「50年もたてば中国自身が豊かになって、自由という考えが広がり、共産党支配がなくなる。つまり中国が香港化する」ということだった。しかし、経済発展で自信をつけた中国共産党は逆に共産党支配を強化し始めている。香港人が今の動きを拡大すれば、多くの少数民族を抱える国家が崩壊しかねない。貧しい時代ならともかく、豊かさを享受するようになれば当然ながら自由を求める声が高まるはずだ。僕にとって、香港人がこれほど自由のために「戦う」とは考えていなかった。経済的自由さえあれば、政治には関与しない人たちだと考えていた。大きな勘違いだった。

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人間往来31 後藤新平

後藤新平(1857-1929年)日清戦争で割譲を受けた台湾総督府民政長官として台湾開発を積極的に推進した。明治から大正期、防疫から通信、鉄道、都市計画、外交までアジアをグランド・デザインした人物といっていいかもしれない。

 幕末、安政年間に仙台藩水沢城下に生まれた。明治になって胆沢県大参事であった安場保和に見出され、16歳で福島洋学校に入り、須賀川医学校に進み、医学の道を目指した。卒業後、愛知県令を務めていた安場保和に請われて愛知県医学校に医者として就職した。板垣退助が岐阜県で暴漢に襲われた時、診察をした。

愛知県での実績が軍医の石黒忠悳に認められて内務省衛生局に入り、官僚として頭角をあらわすようになった。衛生局長時代に相馬事件に連座して野に下ったが、日清戦争後に復員する将兵の疫病対策を取り仕切り、児玉源太郎に認められた。

当時、広島に大本営が置かれ、戦地で蔓延していたコレラなど疫病対策が重要課題だった。後藤は広島沖の似島などに3カ所の検疫所をたった2カ月で建設し、23万人の及ぶ帰還兵たちを一時隔離して伝染病の国内持ち込みを封印した。北里柴三郎らから伝染病の恐ろしさを知らされていた後藤は3カ月で世界でも例のなかった大規模な水際作戦を敢行し、国際的にも大きな評価を得た。

1898年、児玉が第四代台湾総督に就任すると民政局長に抜擢された。後藤の台湾経営の哲学は「生物学的植民地論」として知られる。生物の生育と同様にそれぞれ固有の生態的条件があり、日本の慣行、組織、制度をそのまま台湾に移すのではなく、台湾の慣行制度に見合うように工夫しなければならないというものだった。「ヒラメの目をタイの目にはできない」が口癖だった。

8年間にわたる植民地経営で、当時、台湾の人々の間に広まっていたアヘン吸引の禁止や、鉄道・港湾など都市インフラの整備、製糖産業の育成など、矢継ぎ早に近代化政策を実行した。精糖事業ではアメリカから帰国したばかりの新渡戸稲造を精糖技師として招聘するなど人材の発掘でも手腕を発揮した。また台湾の水道事業は後藤の提案によって着手され、東京より早く進んだといわれる。またクスノキから生成する樟脳事業は鈴木商店の金子直吉を提携し専売制を敷き台湾産業の糧を見出した。

その後1906年、日露戦争の勝利で経営権を取得した南満州鉄道初代総裁に選ばれ、経営の基礎をつくった。1908年には逓信大臣・初代鉄道院総裁、内務大臣、外務大臣などを歴任し、関東大震災後に帝都復興院総裁として東京復興計画を立案した。

面白い話では、民政局長時代に孫文が台湾を訪れ、後藤に革命への資金協力を申し入れたところ、「無理だ」と断った上で「どうしてもというなら対岸の厦門に台湾銀行の支店がある。そこには2、300万の銀貨がある。革命なら奪い取ったらいいだろう。わしはしらんよ」と語ったという逸話も残っている。(寶田時雄「請孫文再来」)

没後90年の2019年4月、台北の寺院で後藤新平のデスマスクが発見されたというニュースが流れた。かつて李登輝元総裁は「台湾の繁栄は後藤が築いた基礎の上にある」と述べた。後藤新平の生涯は台湾でよみがえり、今新型コロナの世界的感染に関連して再評価が進んでいる。(萬晩報主宰 伴武澄)

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不要不急が握る命綱(佐伯啓思)

京都大学名誉教授の佐伯啓思さんが「不要不急が握る命綱」と題したコラムを6月8日高知新聞に書いている。現代社会とは不要不急のものによって繁栄して来たというのだ。確かにそうだろう。生物として生きるために不可欠の行動は食う寝るぐらいのことだという視点で考えれば、我々の日々の行動のほとんどが不要不急だといっていい。

「わたしは「不要不急」が悪いなどという気は毛頭ない。人間には、無駄なもの、不要不急のものがなければならない。人が多数集まって騒ぎ、ほとんど無駄な時間を共に過ごすことは大切なことである。祭りも宗教も文化もそこから起ったことといってよい。」

「だが、それを経済的利益に還元し、成長の手段にするのは適切でない。しかも、今回、実は「不要不急」どころか「必要火急」なものが全く不足していたことにわれわれはきづいたのではないだろうか。」

「それは、医療や日頃の養生であり、介護であり、教育であり、困窮事態に助け合える人間のつながりであり、必要品の自給である。」

「これはもともと市場経済にはなじまない。観光やエンタメ、レジャーなどの消費生活とは対極にある公共的なものといってよい。しかもそれは、本来、都市型生活というよりも、地方的生活にこそ適合するものである。」

佐伯さんのように考えると、政府が打ち出している持続化給付金などは「無駄」の最たるものかもしれない。基本的に飲食店を支援するためのものであるからである。7年前、土佐山アカデミーに参加して山暮らしをした3カ月の生活を思い出している。

まず地域に飲み屋はない。バルという地元の産品を売っている小さな店でうどんと卵かけご飯を食べさせてもらえるがそれ以外に食堂もない。新聞だって中心部以外は「宅配」されない。そんな日々の生活に僕は新鮮さを感じたものだった。アカデミーは学び舎であったが、学びそのものが不要不急であるかについては議論があろうが、人々のつながりがものすごく濃いものであることだけは確かだった。そして都会の生活に足りないものを教えてくれた3カ月だった。(伴武澄)

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ヒトとの接触禁止という不条理

新型コロナウイルスの地球規模の感染拡大によって、我々は、ヒトとの接触を避けることを余儀なくされている。各国政府はまず外出禁止令を出した。民主国家においてはたしてどのような法的根拠があったのか分からない。しかし、奇妙なことに人々は理不尽な政策に従がった。どこでも暴動が起きたという報道はない。

たぶん、人々が自らを守るために政府の方針に従うのが賢明だと判断したからだ。というよりも感染への恐怖が先立って、まっとうな判断能力を失ったからなのだと思っている。ウイルスはすでに多くのヒトの心をも感染させてしまっているのだ。

外出禁止とはヒトとヒトとの接触を断つことを目的としている。さすがに家族との接触までは物理的に禁止できない。

この数百年、人々は自由と平等、そして個人の尊厳を求めて行動してきた。為政者に個人の権利を求めてきた。営々として勝ち取って来た大切な価値を我々は新型コロナウイルスの蔓延によって一瞬にして失ったかのように感ぜられる。

ヒトとの接触禁止の先にある究極は「ヒトがみな一人で生きろ」というに等しい。所詮ヒトは一人では生きていけない。そんなことができるはずもない。にも拘わらず我々は感染を恐れて政府の理不尽な命令に従っている。それが今の我々の姿だ。

人間を否定したらどうなるのか。そもそも生命は接触から始まった。オスとメスが接触しなければ「誕生」はなかった。生命は始まっていないのだ。ヒトの成長は接触から始まった。母親そして家族、一緒に暮らすから家族なのだ。そして周りの人々との接触によって、何が正しいか正しくないかを知ることになる。たった一人で生きるなら何をしてもかまわない。身体の成長は食べ物があれば問題ない。だが、心の成長にはヒトとの接触が不可欠なはずだ。

新型コロナウイルス騒動がこれから数カ月で終れば、めでたいが、事態はそうではない。

人類の歴史は感染症との闘いだったといわれるが、我々はウイルスから生まれたのだ考えなければならない。ウイルスを完全否定するなら、我々が自らの存在を否定するに等しいことになる。我々は冷静さを取り戻さなければならない。

生命体は昔から、常に危険にさらされてきたことを思い起こすべきだろう。ヒト以外の社会では常に競争という淘汰が繰り返される一方で共生という原理も続いてきた。そんな初歩的な原理をもう一度考え直す必要があろうと思う。新型コロナウイルスの蔓延も不条理ならば、接触禁止もまた不条理なのだ。

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仏像発祥の地タキシラ

 17歳の時、両親が住んでいたパキスタンを訪れた。イスラマバードは新首都として建設途上だった。ある日、近郊のタキシラに連れていかれた。かつてガンダーラ国があり、その首都だった。アレキサンダー大王の後裔たちが建国し仏教に帰依した。仏陀は自らの像を刻むことを禁じていたから、仏が像になることはなかったが、ギリシャ人たちは「彫刻」をこの国にすでに持ち込んでいた。

タキシラの仏教寺院は仏舎利を奉納したスツーパを中心に伽藍配置されていた。スツーパは卒塔婆や漢訳され、中国や日本で塔となった。そのスツーパの周囲には多くの彫刻が施され、仏陀の物語が語られていた。その中で仏陀は仏像として存在感を増し、寺院の崇拝の対象となっていた。

だから、最初の仏像はギリシャ人の形相をなしていた。掘り深い顔そしてウエーブのかかった頭髪。高校生の僕はまだ日本でも仏像に対する興味はなかった。しかし、タキシラで見たギリシャ風仏像は少年の心をとらえた。キリストが生まれた前後、インドでギリシャ人たちが仏教を信奉し、仏陀の像を刻んでいた事実が、その後、僕を仏教美術の世界に誘い込んでいた。

仏像を求める旅はその時始まった。奈良には年に何度も足を運んだ。奈良が仏像の宝庫であることを知った。高校の日本史にあった仏像はすべて訪ねた。

仏教はタキシラの地から、中央アジア、中国を経て日本に渡った。仏像もまたその形を変遷しながら日本で独自の発展をした。

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もはや誰の責任でもあるまい

9年前、東日本大震災から4カ月後、構想日本に乞われてメルマガにコラムを投稿した。今、世界に蔓延している新型コロナウイルス。まさに計測不可能という事態では大きな地震とまったく同じなのだ。違うのは地震や津波は起きた時に終わっているのに対して、ウイルス感染は始まりだということである。もう一つ忘れてならないのが、福島第一原発事故であろう。9年の年月を経てもまだ終りが見えないのだ。

J.I.Mail News No.511 2011.07.14 萬晩報主宰 伴武澄

長い地球の地殻変動の歴史の中で日本列島が誕生したのだと考えれば、どんな自然災害だって起きうると考えさせられている。

恐いのは計測不能という事態である。今回の東日本大地震でマグニチュードが当初の8・8から後に9・0に変更されたのだが、そもそも地震計は震度が7までしかなく、それ以上は計測不能なのだという。つまりそれ以上の大きな揺れに人間社会は一切対応できないという現実を突きつけられているのである。

6年ほど前、三重県の津市に住んでいた時に大変な大雨に遭遇した。幸い死者、行方不明者はあまり多くなかった。問題は雨量が1時間に150ミリを超えたため雨量計が計測不能になったことだった。気象台は「150ミリ以上」としか発表しなかった。

国交省の三重県事務所で聞いた話である。三重県最大の河川である宮川上流のダム事務所との連絡が一時途絶えた。電話の普通回線はすぐに切れ、携帯電話も基地局の停電で不通となり、頼りの衛星電話も分厚い雨雲によって電波が遮られた。雨量が分からない上に情報も途絶する事態に同事務所はほとんど思考停止になりかけた。被害の予測ができなければ、手の打ちようもないのだ。

今回の大震災では加えて制御不能という事態が重なった。もちろん福島第一原発のことである。政府も電力会社も不測の事態が起きたときに原発を制御できると本音で考えていたとは思えない。ただ不測の事態が起きないと考えていただけだろうと思っている。

災害や事故は普通、時間がたてばいずれ終息する。しかし原発から拡散した放射能の問題だけは気の遠くなるような時間がかかるのだと思っている。震災後3カ月を経ても不安はいまだに拡散中である。

そんな未曾有の国難の最中に政治家が政争に明け暮れている。自民党が政権を担当していたとしても原発事故の不手際は五十歩百歩だったはずだ。巨大災害で一番恐いのは人間の思考が停止することである。沈みかけている日本丸の船頭を代えたところで浸水が止まるものでもあるまい。

天災も人災も忘れたころにやってくるのだ。もはや誰の責任でもない。国民の大多数は大震災から再建には相当な困難が立ちはだかっていると考え、そのための負担も覚悟しているはずだ。政治家たちも政治家を選んだ我々も官僚も同じ覚悟を持って国難に立ち向かいたい。

ご連絡先

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関東大震災で始まった災害ボランティア

1923年9月、関東大震災の報に接した賀川豊彦は東京中がスラム化することを恐れ、被害が一番ひどかった本所に活動の拠点を移し、まずテント村を建設した。炊き出しから始め、人々が生活を再開するためのノウハウを総動員した。神戸からは数人の弟子たちが参加したが、幸いなことに東京で多くの協働者を見出した。神田のYMCA、霊南坂教会などの協力も得た。

 イエスの友会の機関誌『雲の柱』によると、賀川は①宗教部②教育部③調査部④社会事業部➄救済部を設け、無料診療所を開設した。宗教部はキリスト教伝道に併せて天幕児童保育を行った。働く親のために子どもたちを預かった。教育部では編み物、裁縫、刺繍などのほか英語も教えた。社会事業部では、職業紹介、法律相談、バラック経営を行った。救済部では、衣類や毛布・布団を提供した。東京市から委託を受けて牛乳配給も行った。

 こうした一連の事業を行う施設をキリスト教国ではセツルメントと呼んだ。行政も地震被害に手をこまねいていた時に、賀川は一早くセツルメントを本所に設営していたのだった。震災からの復興は時間のかかるものばかりだった。

 資金は募金が中心だった。賀川は神戸で多くの講演をこなし募金を募った。賀川の印税も活動を支えた。『死線を越えて』の出版ですでに作家として有名だったが賀川は自らのペンが資金を生み出すことを知っていた。本所セツルメントのすごみは、ボランティアの献身的働きと賀川の声と指先が生み出したことだった。

 賀川は震災被害者の生活支援のため消費協同組合を結成し、低金利で日銭を貸す質屋は中之郷信用組合として法人化された。無料診療所は後に中野総合病院として協同組合経営となった。保育事業は光の国幼稚園となり、教育部は家政専修学校に発展するなど恒久的教育機関として生き残った。自然発生的に始めまったボランティア活動の中から時代を先取りする改革策が相次いで生まれたことも特筆すべきことだと思う。

 新型コロナウイルスの世界的感染危機に際して僕たちができることのヒントは100年前の関東大震災に際して賀川が始めたセツルメント活動の中に多くあるのではないだろうか。

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日中の扉を開いた李徳全

 李徳全(?‐1970)モンゴル族の貧しい家に育ち、クリスチャン・ゼネラルとして名を馳せた軍閥馮玉祥に嫁ぎ、社会保障などなかった時代に貧困層の生活や教育に尽くした。新中国成立後、共産党員ではなかったが女性として初の衛生部長、中国紅十字総会会長を兼任。戦後初の中国代表団を率いて戦犯1000人の日本人を無事帰国させたことで日中史に名を遺した。

 ビートルズ並みの歓迎

 1954年、羽田空港は中国要人を迎える日本人で埋め尽くされていた。60年代のビートルズ来日に匹敵する3000人が集まったという。一団は中国紅十字総会訪日団。団長は李徳全という女性だった。副団長はその後の日中関係を率いた廖承志だった。もちろん新聞各紙は一面トップに掲載し連日その動向を追った。

 日本と中華民国(台湾)はサンフランシスコ条約の翌年、国交を回復していたが、中国共産党率いる中華人民共和国との交流は途絶したままだった。国内では1950年に日中友好協会が設立され、大陸との交流再開を目指していたが、周恩来首相からの熱い思いがこの訪日団に込められていた。特筆すべきは李徳全が携行した中国に残る1000人のBC級戦犯の名簿だった。行方知らずだった戦犯の名簿が新聞紙面に公表されるとその関係者たちから大きな安堵の声が上がった。

 日中の新たな架け橋のリーダーとなる李徳全の名はそれまで日本ではほとんど知られていなかった。共産党員でもなくクリスチャンだった女性が閣僚となった経緯など人物紹介に目を見張った。

 1950年代前半の中国はまだ共産党独裁が確立されておらず思想的にも多面性があったのだが、日本としてはアメリカとの関係から中国と新たな関係構築は望めない状況だった。そんな不自然な日中関係への国民の不満が李徳全らを歓迎する世論に示されたともいえる。

 島津忠承と接触せよ

 1950年10月、モナコで世界赤十字総会が開催され、占領下にあった日本からは皇族につながる島津忠承日本赤十字社長が送り込まれた。同じ総会には中国から李徳全が派遣された。李徳全は周恩来首相からは「島津忠承と接触せよ」との指示が伝えられた。民間団体同士の交流から日本との関係改善を目指そうとする周首相の強い意思が込められていた。アメリカの占領下にあるとはいえ、成立まもない中国人民共和国の存在を示すには日本との友好関係が不可欠だという認識だったに違いない。

 李徳全は島津忠承との会見の場で、中国に残る日本人3万人とBC級戦犯の帰国を約束した。そのニュースは国内に伝えられ、大きな反響を生んだ。

 終戦時の蒋介石主席の国民に向けた「徳を以って恨みに報いる」という声明は今もなお日本人の心に伝えられる。戦争を行ったのは一部の軍国主義者であり、そのことをもって一般の日本人に危害を加えてはならないという強い気持ちは国民党にも共産党にもあった。戦犯を含めて中国に残留していた日本人は国民党が台湾に移った後は共産党の保護下にあった。

 その中国残留日本人が帰国できるというニュースは好感をもって全国に伝えられ、日本人居留民の帰国について双方の赤十字が協議することが決まった。1953年1月、日本側の代表団が北京を訪問、3月5日、居留民引き上げに関する日中の共同コミュニケに署名した。その3月下旬、日本が派遣した興安丸などによって3万2000人に及ぶ居留民帰国が始まったのである。

 その恩に報いるために実現したのが、李徳全一行の訪日だった。

 この訪日を契機に相互交流は経済面でも一気に拡大した。日中間は1951年から日中民間貿易協定の下でほそぼそと続いていたが、1955年3月、中華総労働組合代表団が訪日、4月には中国国際貿易促進会貿易代表団が訪日、10月、東京と大阪で中国商品展覧会が開催された。さらに12月には郭沫若率いる中国文化学術代表団、翌5月、梅蘭芳率いる京劇団訪日など交流は文化面にまで拡大した。

 後の廖承志と高碕達之助の名前のアルファベットをとったLT貿易の人的接触も李徳全訪日が引き金となったことを考えると、戦後、日中交流の扉を開いた大きなエポックであったといっても過言ではない。

 貧困子弟の教育

 李徳全は貧しいモンゴル族の家に生まれたとされる。生年月日は不明。両親は内蒙古の飢饉から逃れるため北京に移り、生活を始めたとされる。一家を救ったのはキリスト教宣教師たちだった。本来、高等教育とは無縁だったはずの彼女は北京の教会付属学校で小学校を終え、ブリッジマン女子校に進み、頭角を現した。そして中国で初めて女性のために設立された華北協和女子大学(燕京大学の前身)に進み、社会に出た。宣教師たちのミッションは貧困家庭の救済だった。特に教育を受けられない子どもたちの救済に力が注がれていた。李徳全もまた、ブリッジマン女子校に戻り教壇に立つとともにそうした社会運動の一角を担って活動を始めた。

 やがてその名前は当時、北京を支配していた馮玉祥に入った。先妻をなくした馮将軍との交流が始まり、29歳で結婚することになった。

 李徳全は馮将軍の支配地でただちに児童保育や衛生、教育など社会福祉事業をスタートさせた。1928年、求地中学とその付属小学校を設立し、無料で貧しい家庭の子女に教育を受けさせた。1932年には山東省泰山でも小学校15校を設立、1937年には宋慶齢とともに南京で中国戦時児童保育会を創設するなど各地で慈善事業を行った。

馮将軍は中華人民共和国の成立を見ることなく滞在先のソ連・オデッサで船舶火事に遭遇し客死したが、新政府はその未亡人を衛生部長に任命した。

 新国家成立後、大臣になった李徳全に関する逸話が残っている。国家の基底で大臣として公用車があてがわれたが、彼女はこれに乗ることはほとんどなく、子どもたちにも使わせなかった。公用車は車庫でほこりをかぶっていたのである。彼女はいつも職場の食堂で食事をし、出張の際も一般幹部と同じ普通席を利用し、普通の宿泊所に泊まった。通勤も徒歩で冬でもコートを着ることはなかったとされる。知り合いに出会うと親しげに話をして、いつも普通の人の生活を気にかけていた。「平民部長」と言われるいわれである。

 クリスチャン・ゼネラル

 馮玉祥は安徽省巣湖市が故郷。李鴻章率いる淮軍の下級将校の子として生まれ、15歳で軍に入り、清朝軍内で頭角を現し、辛亥革命では灤州で挙兵して北方軍政府を樹立するなど革命側に軸足を置いた。清朝滅亡後に直隷省で募兵し群雄割拠に自ら名乗りを挙げた。

 軍閥の合従連衡が繰り返される中、蒋介石の北伐時には西北軍を指揮し、中国最大の軍閥として30万人の軍事力を保持していた時期もあった。

 アメリカ。タイムズ誌は「クリスチャン・ゼネラル」と題してトップ記事に掲載したこともある。タイム誌は「聖書を手にあるいポケットに持つ敬虔なキリスト教徒であり、射撃の名手であり、世界最大の私設軍隊の持ち主である。このような人物こそ中国一の強者、それが馮玉祥将軍である」と書いた。

 北伐の成功後、当時の首都、南京で中華民国行政院副院長、軍政部長に就任したが、普通の兵士と同じ制服を着て麦藁帽をかぶって勤務した。そしてキリスト教精神をもって賭博場や遊郭を厳しく制限した。兵士たちに聖書を配り、キリストの教えを支配地に伝えたこともある。蒋介石なかりせば、中国全土を支配したかもしれない実力者だった。

 そんな馮将軍にとって李徳全は最良の伴侶だったに違いない。馮将軍は蒋介石と協力、反発を繰り返しながら、最終的には延安にあった共産党側に傾斜していった。キリスト教と共産党とは相いれないと思われがちだが、貧しい側につくという点においては一致している。目指していたものが貧困からの脱却だったからである。

 馮将軍がある時、李徳全になぜ私と結婚したのか、聞いたことがある。李徳全は「あなたが悪いことをしないように、神が私を遣わせたのです」と答えたという。

 新日中時代の幕開け

 神近市子は著書な中で、中国の要職についている鄧頴超や宋慶齢など著名な女性の中で李徳全だけは素性が分からないことに疑問を呈し「本当は牧師の子女」ではなかったかと書いている。

 ノンフィクション作家の石川好氏が李徳全のことを知ったのは最近のことである。日中交流に尽くしたこの人物について「日中交流の扉を開く」と題した読売新聞のコラムに書いたところ大きな反響があり、李徳全に関する再検証が始まった。北京大学日本センターの程麻と林振江の二人の研究者が中心になって、その検証作業が始まり、『日本難忘李徳全』というドキュメンタリーが中国語で上梓された。この本は同時に日本語訳され『李徳全-「黄金のくさび」を打ち込んだ中国人女性』として出版された。

 この本を監修した石川好氏は「この本を一番読んでほしい人は安倍晋三首相と習近平主席だ」と話す。新しい日中時代を切り拓くために、架け橋となった李徳全の功績を今一度思い起こさせてくれたことに感謝したい。(萬晩報主宰 伴武澄)

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”門戸開放”から20年 不況で日系ブラジル人は、今

http://www.kosonippon.org/mail_magazine_page/397/

JIメールニュースNo.397  2009.04.23発行
『”門戸開放”から20年 不況で日系ブラジル人は、今』
財団法人国際平和協会会長 伴 武澄
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11年前の2009年、日本経済はリーマンショックで大きく揺らいでいた。構想日本でこんな話をしていた。

  昨年末、群馬県大泉町のある日系ブラジル人学校の卒業式に招かれた。財団法人国際平和協会が毎年秋に「東京遠足」をプレゼントしているご縁だ。
晴れやかな式典だったが、子どもたちの4分の1が新学期には日本にいられなくなるという話を聞いて悲しくなった。
20年前、日本経済がピークにあった時、外国人労働を導入するかどうかで激論があった。ここまま行くと日本経済は労働力不足で破綻するという悲観論があった。政府は労働市場の開国は決断できず、日系ブラジル人に対してだけ門戸を開放した。
 90年代以降の成長を支えたのは、日系ブラジル人だったとっても過言でない。円高が進む中で多くの企業がアジアに生産拠点を移していた時代である。安い賃金で働いてくれる日系ブラジル人たちがいなければ、企業の空洞化はもっと進んでいたはずだ。
 生活面では文化の違いによる軋轢もあったが、雇用主からは「残業も厭わずよく働いてくれる」「日本人が失った勤勉さを持っている」などという声をよく聞いた。景気が反転すると、企業は真っ先にその日系ブラジル人をリストラしている。これが今の日本の姿である。労働力が不足していた際には“日系だから”と積極的(優先的)に門戸を開放したのに、経済状況が悪化したとたんにその考慮がなくなってしまうのは、あまりにも卑怯ではないだろうか。
 日系ブラジル人の雇用切りは、多くの問題を生みだしている。帰国しようにも旅費を賄えない人も多く出現した。政府は帰国の航空運賃支給の検討をしているが、支給されると二度と日本で働けなくなる。「早く出て行け」といわんばかりで、なんともなさけない。もっと深刻なのはブラジル人学校の経営だ。
 それでなくとも政府や自治体からの補助はない。親がリストラに遭って授業料が払えなくなるだけではない。児童・生徒数そのものが激減すれば学校経営ができなくなる。否すでに危うくなっているのだ。
 景気が回復した時、日本は再び労働力が足りなくなるはずだ。誰がその労働を支えてくれるのか考えておく必要があるのではないだろうか。

<伴 武澄 氏 プロフィール>
1951年、高知市生まれ。77年、共同通信社に入社、経済中心に取材。
メルマガ「萬晩報」主宰、2005年から国際平和協会会長。
著書『日本がアジアで敗れる日』(文藝春秋社)など。
「萬晩報」http://www.yorozubp.com/

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苦難に対する態度

2週間前、政府が7都市に緊急事態を宣言した。外出を自粛し、接触を8割減らさなければパンデミックが起きるというのだ。工場が閉鎖され、夜の飲食街を含めて街はほぼ壊滅状態が続いている。まともに賃金がもらえるのは公務員と大企業、そして年金生活者ぐらいだろうと思っていた。政府は国民に一律10万円を支給することを決めた。くれないよりましだろうが、毎月くれるはずもない。収入がなくなり生活を切り詰めなければならなくなる。バイト先を失った学生たちはすでにそんな生活になっているだろう。

国家が非常事態や緊急事態に陥ると、まず食糧の確保と生活インフラの確保が一番大切だ。価格の統制も不可欠になる。マスクが売り場からなくなりネットで高値で売買された。これが食糧に伝播することはないだろうか心配になる。

まずは食糧の確保だ。スーパーや食料品店は幸いにも営業を続けている。都市機能がマヒしているヨーロッパやアメリカで飢え死にしたという話は聞かない。運送業者に新型ウイルスが蔓延していないからだろう。運送業者に感染者が出て休業を余儀なくされたら危ないと考えるのが普通だ。

待てよ、携帯の支払いが滞ると携帯端末は直ちに利用できなくなる。電気は請求日を過ぎて50日から70日経つと送電を止められる。ガスも同じようなもの。水道だけは支払いがなくとも6カ月まで供給され続ける。収入減によって生活インフラまで脅かされる事態を想定しなければならなくなる。そんなことも考えた。

そこで今のところ健康な我々にできることは何か考える。賀川豊彦が1923年9月の関東大震災で始めたことを思い起こそう。賀川は本所深川にテント村を設営した。家を失った人たちがテント村に集まった。そして炊き出しを始めた。親が働くために子どもを預かった。お金のない人に割安の質屋を開設した。職業紹介も行った。社会福祉などという概念さえない時代のことである。今なら行政の仕事を一つひとつ始めた。

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リンカーンの国と賀川豊彦

講師:伴武澄
日時:4月10日(金)午後7時から
場所:はりまや橋商店街Water Base

 ひょんなことから、Kagawa in Lincoln’s Landという本の存在をみつけた。1936年、賀川豊彦は恐慌後のアメリカ経済立て直しに貢献するために、アメリカに渡った。各地で約半年の間に100回以上の講演をこなした。イエスを説き、協同組合経済の構築の必要性を説いた。一連の活動を書籍化したのが、この本だ。

 この本を編集したのは、アメリカのキリスト教団体と協同組合の全国組織だ。この本は賀川を単なる東洋の伝道者として描いているのではない。人種を超えた世界的伝道者として絶賛していることに驚きを覚えずにはいられなかった。賀川の名前はすでにアメリカで知られていた。多くの書籍が翻訳されており、自伝の類もいくつか書かれていた。
 ある町の教会で賀川の講演が開催された。教会はすぐ満員となり、急きょ、第二、第三の会場まで設営された。賀川の話を聞くために100キロ以上も車を走らせた青年に賀川の演説はどうだったか聞くと、「すばらしかった」と答えた。何がすばらしかったのかを聞くと、実は「よく聞こえなかった」と答えた。青年は賀川の生の声を聞くだけで満足していたのだった。
 この一週間、世界中を恐怖に陥れたスペイン風邪に賀川はどう対応したのだろうか考えた。賀川の幾つかの著作をひもといたが、不思議なことに賀川の著作には1918年のスペイン風邪のことはほとんど出てこない。日本で39万人もの人が死んでいるのにどうして?と思ったが、神戸のスラムでは感染症の猛威を上回る劣悪な生活環境があったからだと、すぐ納得した。

 アメリカでの留学を終えて帰国したのは第一次大戦の最中だった。戦争が終わり、日本には不況が訪れた。貧しさを克服するため、賀川は救済だけでは足りないと考え、労働組合を結成し、生活協同組合を組織した。当時、世界で蔓延したのは感染症だけではなかった。ロシアで成立した共産革命の猛威もまた若者を中心に広がっていた。

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スペイン風邪と高知県

テーマ:スペイン風邪と高知県
講師:伴武澄
時間:午後7時から
場所:WaterBase

土佐史談会251号、平成24年に公文豪さんが「スペイン・インフルエンザと高知県」という玉稿を掲載していることが分かった。1918年ごろの新聞記事を中心に高知県で起きた惨状を詳しく解説しています。実はスペイン風邪は第一次大戦中にヨーロッパで蔓延し、世界に広がった。今回の新型ウイルスと似た展開になっている。参戦していた国々では報道管制が敷かれていて、その実態はほとんど報道されなかった。戦争で亡くなる兵士よりスペイン風邪で死んだ兵士の方が多かった国も少なくなかった。当時、中立国であったスペインでは蔓延する感冒が日々報道され、さもスペインから感染が広がったように受け取られ、スペイン風邪の汚名をかぶせられた。各国で相次いだ惨状に対して社会がどう反応したか歴史はほとんど記録を残していない。当時の新聞を分析することで高知県で何が起きていたかを知ることができるのは公文さんの大きな貢献である。史談会雑誌のコピーから学びたい。ちなみに高知県では1918年末から感染が広がった。土曜新聞は「中学校の感冒数100名」という見出しから感染状況の報道が始まった。しかし、数日後には紙面が作れなくなり、8ページあった新聞はたった2ページになってしまった。印刷工にまで感染が広がったからだ。学校は相次いで休校、郵便局は電報業務がストップするなどマヒした。商店も臨時休業、裁判所、検察局、警察まで「感冒」が広がり、高知市の交番は下知と上町以外は機能不全となった。交通も市電運転手がいなくなり運転中止に追い込まれた。数カ月で最初のピークは納まったが、物不足から物価は二倍に跳ね上がったというからすさまじ

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サーバー変更とhttps

3月20日、萬晩報のサーバーをXserverに変更した。アドレスもhttp://yorozubp.comからhttps://yorozubp.comに変わった。

Hypertext transport protocolに「s」が付くか付かないかの違いだが、「s」は「secure」、つまり、暗号化することによってサイトがより安全になるということ。このサービスは10年ぐらい前に始まっていたが、いつの間にか、 グーグルなど多くの検索サイトで「s」のつかないサイトは検索の対象とならなくなっていた。

しかし、この「s」をつけるサービスは普通、年間1万円を超えるコストがかかる。安全性を理由にまたユーザーからお金を巻き上げる策謀だと考えてこれまで変更しなかったが、昨年末、このサービスが無料である Xserver というサーバーを紹介され、引っ越しをすることにした。

問題が一つあった。10年来、Movable TypeというサービスをWord Pressに変更しなければならないことである。いまのところうまくいっていない。

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種子法廃止と種苗法改定で何が変わる?

3月27日(金)の夜学会
テーマ:種子法廃止と種苗法改定で何が変わる?
     -食と農への影響
講師:丸井美恵子(こうち食と農をまもる連絡会事務局)
時間:午後7時から
場所:WaterBase

2018年4月「種子法」が廃止されました。これまで日本の主食の米など主要農産物はこの法律の下で、地域に合った多様な品種が開発され、国内で種子を自給してきました。国は、この法律が廃止されてもただちに変わることはないと言い、高知県でも要綱でカバーしていると言っていますが、本当に将来にわたって影響がないのでしょうか。種子法廃止とセットで制定された「農業競争力強化支援法」の「種子・種苗についての民間事業者の参入促進」とどう関係するのでしょうか。また、今国会に上程され5月に審議される予定の「種苗法改定案」では、自家増殖(採取)原則OKとしてきたものを全面禁止へと改定しようとしています。これも、国や県は、登録品種だけで、一般の種や在来種は今まで通りと言っていますが、本当に問題はないのでしょうか。十分な審議を経ず、出された「種子法廃止」と「種苗法改定」の背景には何があるのでしょうか。遺伝子組み換え・ゲノム編集などの開発をし、種子の寡占化を図るアグリビジネスの参入の動きとは、どのように関連しているのでしょうか。皆さんとこれからの私たちの食について一緒に考えていきたいと思います。

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背景に21世紀の黄禍論

3月20日(金)の夜学会
テーマ:背景に21世紀の黄禍論
講師:伴武澄
時間:午後7時から
場所:WaterBase

 Aeraに、姜尚中が「新型コロナウイルスによる『黄禍論』のトラップに惑わされるな」と題してコラムを書いていた。新型コロナウイルス問題で、普通のインフルエンザよりずっと感染力が劣るのになぜ新型に対して多くの人たちがおびえるのか考えてきた。いまのところたどり着いたのは、「黄禍論」という発想だ。
 20年以上前にアメリカのハンティントンが書いた「文明の衝突」という本が話題を呼んだ。内容は冷戦後に西洋とイスラムが対立するという論調だったと思う。
黄禍論は100年も以上前にドイツのウイルヘルム二世が提唱した考え。中国人社会が地球規模で移住を開始し、安価な労働力で西洋社会に挑戦し始めたことに危機感を提唱したものだが、その後、明治日本が急速に力をつけて西洋社会が進出していたアジアやカリフォルニアに影響力を拡大したことによっても欧米で黄禍論が広がった。
 日本はついにアメリカと衝突し、完膚なきまで叩き潰されたが、戦後の経済成長によって再び「世界」の混乱要因とされた。
 1990年代の金融危機によって、世界的に突出していた日本経済はようやく「世界」にとって脅威でなくなったが、次に現れたのは共産中国だった。
そもそも共産主義は理念的に「世界」にとって違和感そのものでしかないのに、30年以上にわたる高度成長によってアメリカやEUと伍す存在となってきた。文明の衝突では衝突の相手文明を見間違ったのである。「世界」にとって最も危惧すべき状態とは何か。日中韓を中心とした経済ブロックが政治経済の主導権を握ることにほかならない。
新型コロナウイルスが怖いのは「理解できない異質なもの」だからだということもできる。昔はやったエイズウイルスやエボラ出血熱がそうだった。感染力が怖いのだったら、世界はこんなに騒ぐ必要はないはずである。「世界」が一番恐れているのは「新しい秩序」の確立なのだと思う。西暦前後、西のローマ帝国に対して東に漢帝国があり、真ん中にペルシャがそれぞれ独自の文明圏を形成していた。これからのグローバル社会を牽引する文明はアジアに移るのか、そんな戦いがこれから始まると確信している。

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14世紀のパンデミック

3月13日(金)の夜学会は開催します。
テーマ:
時間:午後7時から
場所:WaterBase
講師:伴武澄

1300年代、ヨーロッパでパンデミックが起き、人口の半分が減少する事態が発生した。ペストの大発生である。実はそのペスト菌は中国雲南省が発生源であった。モンゴルが台頭し、当時、雲南省を支配していた大理国に侵寇しペスト菌がモンゴル民族の征西に伴って、東ローマ帝国を介してイタリアにもたらされた。不思議なことに今回のパンデミックの発生源も中国でヨーロッパでの感染起点もイタリアとなったことである。ミラノ周辺には近年、中国人の移住が多く、中国との往来が最も頻繁な地域であったのだ。それにしてもかつてのシルクロードの終点、イタリアが習近平の一路一帯の終点だったということが歴史の不思議な一致をみるのである。

10年ぐらい前にNHKで北イタリアに中国人が殺到しているという番組を放映していた。ファッションの街、ミラノの中小ブランド業者に職を得て、メイドイン・イタリア・バイ・チャイニーズの製品が作り出されているという内容だった。イタリアで新型コロナウイルス感染が急拡大しているというニュースを聞いて、かつてのこのニュースを思い出していた。
ネットで検索するとプラートという繊維の街では温州商人が同様に移り住み、巨大なチャイナタウンを形成しているということも分かった。イタリアでまだ警戒心が薄かった旧正月前後にイタリアと中国の往来ラッシュが続き感染が拡大した可能性が高いのだ。ちなみに温州は中国で武漢に次ぐ感染者を記録している都市なのだ。

米英独での予測を総合すると、ワクチンなど予防策が出てこない限り、人類の40-80%が新型ウイルスに感染する。感染しても80%は無発症か、ごく軽症のまま終わる。感染者のうち残りの20%(人類の12%前後)が中程度から重篤に発症する。中程度以上の発症者の25%、つまり人類の3%前後、感染者の5%前後は入院が必要になり、入院者の10%(人類の0.3%)が死亡すると、米国病院協会 (AHA)の非公式予測の報告書に書いている。致死率は人類の0.3%、感染者全体の0.5%ほどになる。

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カリフォルニア国に殺到した日本人

3月6日(金)の第174回夜学会。

テーマ:国とは何か2ーカリフォルニア国の場合

講師:伴武澄 時間:午後7時から

場所:WaterBase

石川好の「カリフォルニア・ストーリー」を読んでいたら非常に面白かった。

東部13州がイギリスを相手に戦っていたころ、大陸の西部ではスペイン勢がメキシコから北上して新たな新天地を築き始めていた。大陸の東西で同時に新しい国づくりが起きていたのである。サンディエゴ、ロサンジェルス、そしてサンフランシスコに入植地が形成されていたのである。イギリスも大陸西部を狙っていたが、13州との戦争に忙しかった。そんな時、ロシアもまたアラスカから南下してサンフランシスコに拠点を作っていたというから仰天だ。アメリカ大陸の東西で二つの歴史が進行していたと考えると面白い。

そもそもカリフォルニアとは、インドの西方にあるとされた伝説上の黄金郷の名前。そこはアマゾネソスのように女が支配する国ですべてのものが金でできていたという。ヌエバエスパニア(メキシコ)を支配していたスペイン人たちはメキシコから船に乗って探し求め、現在のカリフォルニア半島にたどりつき、その地こそがカリフォルニアだと命名したのが始まりだった。

それから100年、アメリカは奴隷州と自由州の対立が深まり、南北戦争へと発展する。メキシコは1820年に独立していて、カリフォルニア、オレゴン、テキサス、フロリダなどを領有していた。南北戦争の直前、アメリカはメキシコと戦争し、敗北したメキシコはカリフォルニアを金銭で売却し、1850年、カリフォルニアは31番目の州としてアメリカ合衆国に併合された。独立と同時にゴールド・ラッシュが起こり、世界中から一攫千金を狙って人々がカリフォルニアに殺到した。

カリフォルニアが「独立」するに当たり住民投票を行ったが、住民の関心は「独立」どころでなかった。憲法は東部の州の借り物で、たった10%の投票率で独立が「可決」されたというのだからひどいものだった。

中国人の移民が始まったのもこのころである。「独立」時、10万人足らずだったカリフォルニア人口に対して、82年までに37万人の中国人がやってきたというから凄まじい。金と大陸横断鉄道の労働力としてだ。 そんな時期(1860)に日本は開国し、咸臨丸をアメリカに送ったのである。同地へに日本人移民も始まり、10年後、日本にとって初めての在外公館として総領事館が創設されたのだから、日本もまたカリフォルニアに大きな関心を抱いていたに違いない。

住友銀行100年史を読むと、同行が最初に海外拠点を作ったのが、ハワイで次はサンフランシスコだった。日本人によるハワイ移民は1868年から始まっていたが、1900年代初頭にはハワイの人口の6割を日本人が占めていた。そしてハワイの移民たちは次々とカリフォルニアに渡り、大成功した。1920年のサンフランシスコの人口は45万人でそのうち7万人が日本人だった。ワシントン州のシアトルでも日本人の人口は10%を占めていたというからすさまじい勢いで日本人はカリフォルニアに殺到していたことになる。

「カリフォルニア・ストーリー」によると1920年にニューヨークからロサンジェルス駅に降り立った徳富蘆花は駅前に林立する漢字の看板に驚いたという。日本人と中国人の宿屋や店舗が並んでいてとてもアメリカの町には見えなかったそうだ。1924年にカリフォルニアで日本人排斥の法律が生まれた背景には、このまま放置すればカリフォルニアがアジア人に支配されてしまうという危機感があったはずだ。1900年の米西戦争で名を馳せた海軍のマハン提督は「日本人移民の流入を傍観するならば、10年もたたないうちにロッキー山脈以西の人口の大半が日本人によって占められ、同地域は日本化されてしまう・・・その権利を日本に認めるくらいなら明日にでも戦争をする方法を私は選ぶ」と語っている。

石川好氏は「歴史的に言っても、カリフォルニアは、スペイン、メキシコ、そしてロシアの国旗がひるがえった土地である。そればかりか、カリフォルニア自身が独立を画策し、カリフォルニア共和国の宣言をした土地でもある。カリフォルニアに限って言えば、まさしく異民族によって、一独立国誕生の危機が存在すると感じられたのだ」と書いている。

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山崎圭次のブルーバードを再現したい

昭和20年代から30年代にかけて、高知市鴨部に山崎内燃機関研究所というバイクメーカーがあった。 当時、高知工業高等学校の講師をしていた山崎圭次氏(故人)が教え子たちとともに創設した小さな町工場だった。90㏄、4気筒エンジン。名前はブルーバード(発売時はブリューバードと発音していた)。

実家は能佐山の豪農。金沢工業学校を卒業後、戦争へ行き、復員後、高知工業高校で講師を務めるかたわら、エンジンの開発に着手した。戦後、国内で雨後の筍のようにバイク会社が乱立した。その数300を超えたというから町々にその技術が多く存在していたはずだ。工業高校で学んだ技術がエンジン製造に役立ったという点に着目したい。実業の技術を学んでいたといえよう。今の工業学校は何を教えているのか?

山崎氏は内燃機関に関する30数件の特許を所有しており、この片田舎にある小さな工場から生み出されるバイクの性能は、当時の国内バイクの標準レベルを越えていた。本田宗一郎は当初、旧日本軍のエンジンを使って自転車につける原動機を作っていたのに対して、山崎は昭和20年代の初めにエンジンを全て自社製としたその技術自体も評価されるものであろう。

特許庁へ行き、山崎氏の特許の数々を閲覧すれば、それに前後するように『本田宗一郎』(本田技研創始者)や『井深大』(ソニー創始者)らの特許を見つけることができる。現存するブルーバードはアクトランドに 展示中、極めて現存数の少ない貴重な実車である。

何でも自分でやってみたいという衝動に駆られる自分としては、今、電動バイクをつくってみたい。10万円内外で実用的な電動バイクなど誰にでもできそうな気がする。手作りバイクが町中を疾走する町を想像してほしい。工業学校に日本の将来を賭けてみたい。

specification

製造 1953年 山崎内燃機関研究所 (高知市鴨部)

エンジン 4サイクル サイドバルブ

単気筒 90cc

圧縮比 6:1

クラッチ型式 乾式多板

駆動方式 Vベルト

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何かがはじまるWaterBase

 35年新聞記者をして9年前、高知に帰ってきた。たまたま開催していた土佐山アカデミーに参加した。たった3カ月の住み込み学習で僕はて生きるということに目覚めた。

 アカデミー仲間と作った土佐山七厘社で焼いた木炭を販売するため、真冬にある日、はりまや橋商店街の金曜市で「露天商」を始めた。

 暖かくなると木炭が売れなくなった。知り合った旧鏡村村の仙人のようなおじいさんから「山菜を売りや」と言われた。山菜は売るものだという認識はなかった。山菜は取るものだと思っていたが、この仙人は「ここからあこまではおらんくの山、かってに取っていきや」と言われて山菜売りを始めた。

 それこそ、驚きの販売を記録した。売った商品はタケノコ、イタドリ、フキ、クレソン……。1日の売り上げが4万円に達した。商品はすべて「100円」に設定した。だから400売れたということになる。

 露天商というのは商売の始まりであることは多くの人から聞いていた。初めは道路に物を置いて売る。ちょっと金が貯まれば、ようやくリヤカーで売ることになる。僕はリヤカーに近い形で商売を始めた。

 柴又の寅さんではないが、いつまでも露天商というのは恥ずかしい。いつかは店舗を持ちたい。6年経ってそんな思いが実現したのがWaterBaseだ。

 コンセプトは街角サロン。誰もが集える場所を作りたかった。喫茶店でもいい。木工所でもいい。あるいは展覧会場やミニコンサート会場でもいい。そんな思いで昨年9月、WaterBaseを開設した。お金がないので壁から内装、調度品はすべて自作した。ありがたいことに資材はほとんど友だちからもらった。

 恰好いえばマルチパーパスのサロンなのだが、これまでいろいろなイベントをこなしてきた。まずは絵金誕生祭。次いで落語を鑑賞する会。土佐山田高校の学生たちを巻き込んだクルザー船おもてなし広場もやった。忘年会会場は月並みだが、年を超えて懐かし映画のポスター展。

 そもそもなぜWaterBaseなのか。たまたま政府の水道の民営化路線に反発して昨年4月の市議選に立候補したことから水道のことを考えて行きたいを考えて命名した。

 問題はいつまで続くかということである。大家さんとの契約では8月末までということになっている。「開店」してから半年が経つが、人の交流は日々拡大している。商店街に不可欠な存在として認められることになるのなら、9月以降も何とか場所を変えても継続したい。

 有難いことに僕の趣旨に賛同して寄附をしてくれる市民が何人か現れ始めていることである。不思議なことに11月からは家賃を支払って黒字経営をしている。WaterBaseを始めて分かったことは、人生一人ではないということである。志をもって何かを始めれば何かが始まるということである。7年前、土佐山で炭焼きを始めなければ絶対に今の僕はない。

 ぜひ高知市のはりまや橋商店街のWaterBeseのお越しください。あなたの明日が始まるかもしれません。

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1960年代の南アフリカ

1月24日(金)のはりまや橋夜学会は開催します。

テーマ:1960年代の南アフリカ

講師:伴武澄(萬晩報主宰)

時間:1月24日午後7時から

場所:WaterBase(旧小谷陶器店)

国際政治や社会について目覚めさせてくれたのは1960年代の2年余にわたる南アフリカでの暮らしだった。英連邦から脱し、南アフリカ連邦から共和国へと国体を変更させ、アパルトヘイトを強化した時代だった。黒人やインド人たちだけでなく中国人をも隔離していった。その中で日本人だけが名誉白人の名のもとに「平和」な暮らしをしていた。

公園のベンチには「White Only」と書かれてあった。バスも電車もすべてが白人と非白人に分けられ、非白人の人権はほとんど認められていなかった。外交官の息子といえども公立学校への入学は拒否され、町へ出ると白人たちから厳しい眼で見つめられ、黒人たちには「ヘイ、チャイナ」と嘲られた。

日本人であることやアジア人であることを強烈に意識せざるを得ない生活空間は息苦しかった。一方でアパルトヘイトに無頓着で名誉白人的生活を楽しんでいる在留邦人の生きざまにある種憤りも感じた。

帰国後、地球の裏側にこんな理不尽な世界があることを日本の人たちに伝えなければならないと考えたが、日本社会もおかしいと思った。外国のことを語ると「キザだ」といって友だちから疎んぜられた。日本と言う社会は異なるものを受け入れないのだと感じ、僕は急に寡黙な人間になっていった。この気質はまだ日本の多くの人々に残っている。

それから60年、世界の変遷を議論したいと思う。

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