「関東大震災100年事業 賀川豊彦とボランティア」というプロジェクトが東京で始まりました。今日の表題はまた違った角度から賀川豊彦を再検証するものです。
 僕が所属している国際平和協会の説明から始めたいと思います。23年前、つぶれかけている財団の理事に選任されました。金森久雄氏が提唱していた環日本海経済のシンクタンクに衣替えしようという試みがあったのです。お金もつぎ込むということでその分野の専門家が集まりましたが、振り込まれたのは最初の一カ月だけで、多くの専門家たちはフラストレーションがたまり、一年もたたずに去っていきました。僕は事務局で世界国家という古い機関誌を読み始めていて、賀川豊彦という人物に出会いました。
 この財団は、戦争直後の8月、東久邇内閣に請われて、戦後の日本を再構築するプロジェクトに参与として参画します。首相官邸で財団法人国際平和協会が誕生します。その中から実働部隊として世界連邦運動建設協会が立ち上がります。大戦の反省から、世界国家をつくろうという機運は欧米でも高まります。シカゴ大学では世界連邦憲法試案までつくられます。日本各地に世界連邦運動を支持する動きが広がり、多くの自治体が世界連邦への参画が支持する宣言が相次ぎます。宗教界も動き出し、国会内でも委員会がつくられます。今から考えると不思議なほどの熱量がありました。ヨーロッパでは、フランスとドイツの国境にある石炭と鉄の管理を国際機関に委ねる欧州鉄鋼石炭共同体が生まれます。この地域をめぐってフランスとドイツは100年にわたり戦争を繰り返してきましたが、フランスのシューマン外相が突如、フランスが再占領することはないと宣言し、世界を驚かせます。今の欧州連合の起点となる出来事でした。
 賀川豊彦はその意義について気がつきました。賀川はアジアでも同じようなことができないか考え、世界連邦アジア大会を招集します。第一回目は広島で開かれます。まだ、多くの国々が独立を達成していない時期でした。後にマラヤ連邦の首相になるラーマン氏も参加しています。
賀川豊彦は1919年、神戸のスラムに貧しい人々と寄り添いながら、彼らを支える各種の運動を立ち上げています。労働運動、協同組合運動は賀川の呼びかけで始まったといって間違いないでしょう。「死線を越えて」の出版でも賀川は人々に知られる存在となりましたが、欧米から日本に来ていた宣教師たちによって、賀川の存在は世界的に広がっていきます。世界恐慌後の経済再生のため、資本主義でも共産主義でもない協同組合運動による再生を目指していた賀川はアメリカで協同組合運動の拡大を進めるよう依頼されます。国務省からです。半年にわたりアメリカ各地で講演します。最後にニューヨーク州のロチェスター大学での連続講演は「Brotherhood Economy」というタイトルで出版され、各国語に翻訳されます。この書籍は世界で争いごとがなくなるよう貿易システムも変えていかなければならないと主張しています。