自動車の脱炭素化は可能か

 

ここ10年のEV車販売台数の推移
欧州の2020年9月のEV車販売

日々の新聞で、コロナに次いで見られるようになった言葉は「脱炭素」だ。残根なのは、日本のニュースはほとんどなく、欧州や中国が中心であることだ。かつてディーゼルが主流だった欧州の自動車市場がここ数年で一変した。2020年9月の統計では、EVが25%を占めてディーゼルを上回った。これは大きなニュースだ。EVの導入は北欧で先行していたが、ドイツを中心に大手がEVの新車を相次いで販売した影響も大きい。
 ハイブリッド車ではトヨタなど日本勢が高いシェアを示しているが、純粋EVではテスラ、ルノー、フォルクスワーゲンが御三家で販売台数を伸ばし、韓国のヒュンダイ、キアも上位を占めている。
 この30年、日本の工業技術は多くの分野で世界の最先端からガラパゴス化が著しい。ハイブリッド車で培った先端技術にも陰りがみえている。政府はもっとEV普及に向けた施策を打ち出さないと、トヨタの地位も危うくなってきた。

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EV強国中国、自動車の新しい風景

 ここ20年、中国大陸でエネルギー革命が起きている。夜間に自動車に電源コードをつなぎ、充電して翌朝から自動車を走らせる。そんな風景が普通になりつつある。自動車は20世紀がもたらした最大の移動手段である。アメリカで生まれ世界に普及した。牽引したのはエンジンとガソリンだった。エンジンを発明したのはメルセデスとベンツというドイツ人だったが、大量生産によって労働者にも購入できる乗り物にしたのはアメリカのフォード。その自動車のエンジンがモーターとなり、ガソリンが電池に移行しつつある21世紀になって中国の存在感が強まりつつあるのだ。

中国が輸出始動

 2020年11月21日の日経新聞は一面トップニュースとして「中国産EV,輸出始動」の見出しを掲げた。中国は世界最大の自動車生産国であるが、日欧米メーカーの存在を抜きに中国の自動車生産は語れない。その欧米メーカーのEV車が相次いで輸出を始めたことは世界の自動車業界にとって驚きとして受け止められている。当然、国産メーカーの輸出にも弾みがついている。バッテリーなど関連の部品産業も集積し、いつの間にか中国はEV生産の最先端を走っていることに気付かされた。

イギリスの自動車誌「LMCオートモーティブ」が報じたところでは、2020年1月から6月の世界のEV生産台数は66万台。約4割の25万台を中国が占め、輸出ではEVを中心とするNEV(新エネルギー車)は前年同期の2・4倍の3万6900台に拡大した。

同報道によると、テスラは10月から「モデル3」を欧州へ送り出した。BMWは来年以降、新型車「iX3」の欧米輸出を始める。浙江吉利控股集団傘下のEVメーカー「ポールスター」は欧州や北米に「ポールスター2」の輸出を始めた。ポールスターの生産台数の多くは輸出向けだ。ノルウェーで九月新車販売全体の三位に入るほどの人気車。愛馳汽車は多目的スポーツ車(SUV)「U5」を仏レンタカー会社に500台販売したほか、小鵬汽車も輸出を開始した。日欧米でほとんどその姿を見ることがなかった中国メーカーの車がEVブランドで走り出しているのだ。

BYDの出現

 中国でのEV生産のリード役を果たしたのはBYD(比亜迪自動車)。リチウム電池では大手だったが、2007年、自動車生産に乗り出した。しかも電気自動車だ。アメリカでペイパルの共同経営者だったイーロン・マスクがテスラの製造に乗り出すほぼ同じ時期に、中国でも電気自動車メーカーが産声を上げたのだった。2008年末に発売した量産型プラグインハイブリッドカー「BYD F3DM」は世界の注目を集めた。世界的投資会社を経営するウォーレン・バフェットが投資したことも大きなニュースとなった。

 世界でEV車が注目を集めたのは1990年代だった。米カリフォルニア州で、ゼロ・エミッション車を5%以上販売できないメーカーの販売を禁止するという先進的取り組みが生まれた。GMとトヨタ、ホンダは本気で開発に乗り出し、EV車を売り出した。自動車に新しい時代が到来することを予感させたが、二一世紀となり、ブッシュ政権が誕生するといつの間にかその法律はなくなり、町から電気自動車が消えてしまった。

 当時「GMのEV1は加速力がすごい」とマニアの中で評判を得たものの、リース契約は打ち切られてしまった。アメリカでは「Who Killed the Electric Car」という名のドキュメンタリー映画が作製され、だれが市場から電気自動車をなくしたのか追及する動きもあったが真相は闇の中に消えたままである。

 アメリカで立ち切れとなったそのEV車が地球の反対側の中国大陸で息を吹き返した。2000年代に入ってようやくマイカーブームを迎えた中国では、フォルクスワーゲンやGMなど外国メーカーが生産販売のランキングの上位を占める。国産メーカーは外国勢の後塵を拝したままであるが、そんな中でBYDなどユニークな会社が急成長していた。

雨後のタケノコ、新しい概念

中国の発表では、2019年のEV車売り上げは120万台に達している。もちろん世界トップである。国産唯一のEV車、日産リーフが世界で7万台弱しか売れていないのに比較すると雲泥の差だ。NEVシフトを追い風に多くの企業が続々とEV開発に乗り出しており、この5年間に誕生した新興EVメーカーは50社を超えている。すでにアメリカで上場している上海蔚来汽車(NIO)、小鵬汽車、理想汽車など有力メーカーが台頭している。三社ともIT企業からの参入である点が特徴的だ。

2020年には、EV最大手のテスラが上海で年産50万台規模の工場を立ち上げ、販売価格の引き下げで中国市場に参入、EV車の本格展開を開始した。中国のEV市場の特徴は国内資本が切り拓いてきたということである。ここに外資が参入し、「EV市場の拡大を加速させる」というのが市場の見方だ。エンジン車と比べて構造が比較的簡単で部品点数も圧倒的に少ないため、他業種からの参入が容易だったことは確かだ。しかし、早くから電動自転車や電動バイクが普及するなど自動車=ガソリン、という固定観念が希薄なことも寄与しているはずだ。車社会の到来が世界より半世紀遅れたものの、周回遅れが中国のEV化を促す一番の要因であるかもしれない。

タクシー、バスをEV化した深圳

寒村から40年で人口が1300万人に達した深圳市。ハイテクを中心に世界の最先端都市として注目度ナンバーワンだ。その新興都市で進んだのが乗り物の電動化だった。1万6000台のバスは100%、2万台を超えるタクシーもほぼ100%がすでにEVとなっている。充電基地は広東省内に5万5000カ所もあり、アメリカ全体の数に匹敵する。ちなみに日本全国のガソリンスタンド数は約3万カ所にすぎない。EV化の牽引役はもちろん地元のBYDだった。

 バスやタクシーなど公共交通機関のEVシフトは2009年に始まった。政府は国家を上げて、「十城千輌」政策を三年間で推進した。毎年10の都市の公共交通に対して1000台分の補助金を出した。エンジンと比較してモーターのエネルギー効率は4倍以上。マイカーの普及で燃料供給に問題が出ると考えた政府がエネルギー政策を大転換させた。その後は、北京、上海、杭州など各都市が独自でEVシフト施策を打ち出し、公共交通のEVシフトが進んでいる。現在では全国の充電スタンドは60万カ所を超えている。

 深圳市のバス、タクシーはすべてBYD製だ。深圳市のタクシーはフォルクスワーゲンの赤いサンタナが有名だったが、10年で青色のBYD車が赤いタクシーを駆逐した。

周回遅れが勢い促す

中国政府は2018年から、「新エネルギー車(NEV)規制」を導入、自動車メーカー各社が中国で生産・輸入する台数のうち新エネルギー車が占める割合を定めた。一定台数以上のEVやプラグインハイブリッド車の生産販売を義務付けた格好。背景には中国のエネルギー事情と地球温暖化への配慮がある。特に大都市部の排気ガス問題は深刻で、急速にEVに舵を切る必要性に迫られた。

 中国にEV革命をもたらしているのはもちろん政府の規制であることは確かなのだが、背景にはまだまだ新たに新車を購入する層が厚い中国では「電池車」に対するアレルギーが薄いということも影響している。つまり90年代から進んでいた電動自転車と電動低速車の普及がある。中国ではすでに2億5000万台もの電動自転車が走っている。先進国では「充電」という手間がハードルの一つになっているが、電動自転車に乗ってきた人々にとっては大した手間ではないのかもしれない。

 中国でマイカーが走り出したのは2000年ごろからで、貧しかった時代のもっともポピュラーな移動手段は自転車だった。それが、90年代から簡単なモーターと鉛電池を取り付けた電動化が始まった。本田宗一郎らが戦後、「原動機付自転車」という新ジャンルを生み出したように、小さな資本の電動自転車メーカーが乱立した。日本ではアシスト機能の電動自動車が走り出していたが、道交法が災いして「自走」する自転車は普及しなかった。中国では多くの省で免許もプレートも不必要だったため、電動自転車の普及が一気に広がった。「電動機付自転車」という新しい概念が定着したのだった。

 元々、モーターと電池という組み合わせに違和感がなかったのだろう。中国の人々にとって、エンジンとガソリンが当たり前だった時代が短かったから、電動自動車に対して大きな抵抗感はないといっていい。

 地球の温暖化を防ぐため先進国でもEVの普及を進めている。だが、充電時間の長さと電池の価格が高いことがまだ大きなハードルとして立ちはだかっている。対照的に中国では国産メーカーによる比較的安いEVも相次いで投入されており、EV導入のハードルは格段に低いといわなければならない。加えて、車載電池など部品産業への投資も活発。自動車はすそ野の広い産業とされてきたが、今後、世界のEV産業の勢力図は、販売だけでなく生産面でも中国が軸となっていくことは間違いなさそうだ。

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トランプ派がキャピタル・ヒルに突入

Trump supporters rally Wednesday, Jan. 6, 2021, at the Capitol in Washington. As Congress prepares to affirm President-elect Joe Biden’s victory, thousands of people have gathered to show their support for President Donald Trump and his claims of election fraud. (AP Photo/Julio Cortez)

アメリカの連邦議会は6日午後、米大統領選の投票結果を認定するため上下両院合同会議を開いた。州ごとに選挙人団の投票を開票し、ジョー・バイデン次期大統領とカマラ・ハリス次期副大統領の勝利を最終認定する手続きが始まった。しかし審議が始まって間もなく、ドナルド・トランプ大統領の支持者たちが議事堂に大挙して押し寄せ、「トランプを支持する」などと唱えながら武器を手に議事堂内に侵入した。

上院の議長はもちろんペンス副大統領。そのペンスが議事を進行したことにトランプはツイッターで「落胆」を表明。その後、ツイッター社はトランプ大統領のツイートを削除した。クオモニューヨーク州知事は1000人の州兵をワシントンに派遣した。トランプ大統領は当初、過激派の突入に対して州兵の投入に消極的だったからだ。

ペンス次期大統領はこの未曾有の事態に対して「これは異議申し立てではない。混沌で、ほとんど反乱だ。直ちに終わらせなくてはならない」、「議事堂への攻撃は抗議ではない、反逆だ」と非難した。

1月20日正午までアメリカの大統領はトランプ氏である。そして軍はその指揮下にあることが不安である。この騒乱の引き金となったのは、ジョージア州での上院選挙で、民主党候補が2議席確保したという報道にあることは明らかだ。

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Constable と Sherriff

The Beach BoysのSloop John Bをギターで練習していて、Constableの意味が分からなかった。その後にSherriffという表現も出てくる。歌の中では「お巡りさん」といった意味なのだ。

アメリカの警察制度は日本と違うことは気づいていた。1990年3月にワシントン郊外のワレントンという町を取材中、財務省の施設に入ったとたん、「俺はこの町のシェリフだ。お前は許可なく財務省の施設にいる。不法侵入だ」といって、短銃を突きつけられた。銃も怖かったが、アメリカに「シェリフ」がまだ存在していたことに驚かされた。カウボーイの世界がまだあったのだ。

調べてみると、都市部ではニューヨーク市警とかロサンゼルス市警という大規模な警察組織があるが、郡部つまりカウンティーでは市民がシェリフを選んで治安維持を委託しているのだ、行政としての警察ではなく、いわば自警団がそのまま引き継がれているということなのだ。その長をシェリフと呼んだり、マーシャルと呼んだりしている。コンスタブルは普通、巡査などと訳しているが、チーフがつくと署長になってしまう。ポリスマンと言わずに、コンスタブルとかシェリフと言うところがカントリー音楽らしいところなのだと一人合点した。

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土佐人とは何か

山内容堂

土佐藩主だった山内家は土佐国への進駐軍だった。そんなことをずっと考えてきた。殿様の正室は大名や京都の貴族から迎えられ、殿中で土佐弁などしゃべっているはずがないとの思いがあり、NHKなどで見る山内容堂は土佐なまりの言葉をしゃべっているのに違和感を感じてきた。

ところが、そうではないことを最近知った。故山内豊秋氏が高知新聞の連載「土佐人」(昭和56年)で語っている。

「歴代の正室は、岡山藩・池田家、長州藩・毛利家、薩摩藩。島津家といった大名の息女。従って、土佐の血が混じる機会がなかった。結婚の形も、孤独な藩主をつくったようだ。側室の子の例外はあるが…」「豊秋さんの目には、一豊タイプの、」おおむえ冷静、沈着な政治家ぞろい、と映るそんな中の異色、型破りが十五代に容堂であろう」「歴代、まじめ人間ぞろいだが、一人、容堂のときに、土佐の血が入る。母は側室で城下に住む大工の棟梁の娘です」

なんだ、そうだったのか。容堂が土佐弁をしゃべってもおかしくないことに合点した。

「容堂は、一流の知識人や幕府の要人らと接触し、江戸、長崎で情報を集めさせた。激動、波乱の時代に向いた藩主だった」

ここからの豊秋氏の「土佐人観」がおもしろい。

「維新以来、難しいときには、土佐の血が活躍します。国全体を見、時代の流れをよく知り目眼を開く。そして筋を通す。時代の節目に必ず、土佐人がいるのも、血でしょうかねえ」

そして「ここからは言いにくいところだが」と断って、

「あいつがえらくなりやがって…。と変な反発を必ず見せる。後輩がそんな調子だから、東京、大阪に出て、盛んにやっておる先輩が、郷里のことをかまわんですね。どっちもどっちですが、ちょっと寂しい。その昔、岩崎弥太郎が出て財閥を築いた。郷里の人がどれだけもえいたてたか、岩崎さんもどれだけ郷里の面倒をみたか」

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タゴールと日本 夜学会183

バングラデシュの友人、シャーカーさんが「日本がアジアを目覚めさせた」(ハート出版)という本を上梓した。日本とインドの出会いは岡倉天心とタゴールの出会いから始まったというのがシャーカーさんのかねてからの持論で、タゴール、ベハリ・ボース、チャンドラ・ボース、パール判事と日本と強いかかわりを持ったインド人のほとんどがベンガル人であることからこの本が生まれた。

シャーカーさんはもちろんベンガル人の一人として日本に留学し、日本人と結婚。日本ベンガル協会を設立して日本とバングラデシュとの懸け橋となり日々努力している。

タゴールの時代、インドはひとつだった。日本が明治維新に成功して東洋の強国として台頭したが、インドはムガール王朝が崩壊し、全土は英国国王の統治下にはいって呻吟した。中国もやがて列強の支配下に入った。

タゴールは日本では詩人として有名であるが、音楽や舞踊、演劇など幅広い分野でインド国民を精神面から鼓舞した。そのタゴールを目覚めさせたのが岡倉天心だった。岡倉天心はインド滞在中、多くの思想家たちと交流を重ね、その思いを「東洋の理想」に書き綴った。岡倉天心もまた「東洋」に目覚めたのであった。

僕たちは経済面からばかり国の力を計り勝ちであるが、仏教を生み、儒教を育み、2000年以上にわたって東洋として独自の精神文化が維持されていることに再び注目する必要があるのではないかと思う。シャーカーさんの新書を読みながらそんなことを考えさせられた。

今年最後の夜学会はクリスマスの日ですが、みなさんと東洋という概念について今一度、議論したいと思います。

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マーケットとは何か 夜学会182

12月18日(金)夜学会

テーマ:マーケットとは何か

時間:午後7時から(Facebookでライブ)

場所:WaterBase

講師:伴武澄

コロナ感染拡大にもかかわらず、株式市場が上伸している。経済アナリストたちが「マーケットが評価している」などと語っている。というかメディアが語らせている。本来、アナリストはマーケットから離れた立場の人たちであるべきなのに、マーケットそのものの関連した人たちであるのがいかがわしい。

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日本・ベンガル地方文化交流100年記念を迎えて

                      プロビール・ビカシュ・シャーカー

 一秒間に大事件が起こりうる時の流れのなかで、一世紀という年月は歴史的にも決して短い時間ではない。この100年もの長い間、日本とベンガル地方の間では様々な文化交流が続けられてきた。この文化交流によって双方に大いなる功績が残されたことは疑う余地がないが、残念ながら日本ではこの事実が置き去りにされている。今年、日本ではインドとの国交樹立50周年、バングラデシュとの国交樹立30周年を祝い、各々記念式典が開催され、記念切手も発行された。国交樹立記念はどの国家にとっても重要な国家的記念であるが、日本とベンガル地方の文化交流100年記念はそれ以上に重要な歴史的意義をもつ記念なのである。しかしながら、切手の発行はもとより、この100年記念を祝うささやかな式典すら催されることはなく、ましてや人々の話題にもならないのはなぜであろう。日本とベンガル地方の文化交流記念が軽視される原因の一つとして、日本における欧米の強い影響力が指摘されているが、日本を代表する知識人、文化人、教育者、メディア関係者、政府関係者から社会一般の人々にいたるまで、この文化交流の歴史に対して無関心に徹しているような気がしてならない。こうした日本の現状に対し、一人のベンガル人として心から残念に思うのである。日本とベンガル地方の文化交流の歴史を少しでも思い出していただきたい、または、知っていただきたいという願いを込めて、その代表的存在であるベンガルの詩人タゴールを中心に、100年の歴史を簡潔に振り返ってみたい。
 日本とベンガル地方の文化交流100年の歴史は、岡倉天心が1902年にインドを訪れた時に始まる。この時、岡倉天心はタゴール家に10ヶ月間滞在し、両者の間でアジアの平和、教育、文化など様々なことが議論された。岡倉天心は自身が提唱した「アジアは一つである」という思想に対してタゴールに理解を求め、タゴールもまた岡倉天心の思想に共鳴し、互いに親交を深めた。この10ヶ月間に及ぶインド滞在中、岡倉天心は『東洋の理想』を脱稿し、『東洋の目覚め』の執筆にとりかかったと言われている。帰国後、岡倉天心は弟子の横山大観、下村観山、菱田春草をインドに送り、この地を見学させた。その後、勝田蕉琴はカルカッタの美術学校で教鞭をとり、荒井寛方もタゴールの開設した寄宿学校シャンティニケトン(「平和の家」の意)に滞在してインド美術などを学んだ。イギリスの植民地支配下における当時のベンガル地方では、伝統文化への復帰を求める19世紀ベンガルルネサンス運動が展開され、数多くの芸術家が生まれた。日本の芸術家たちはベンガルルネサンスの芸術家たちとの交流を深め、帰国後、日本美術院におけるベンガル派に多大な影響を及ぼした。
 タゴールが初めて日本を訪れたのは1916年6月のことである。シャンティニケトンの協力者であるアンドルーズ及びピアソン、青年画家ムクル・デーの3名がタゴールに同伴して来日した。1913年にノーベル文学賞を受賞した詩聖タゴール来日のニュースは、当時の主要報道機関を通じて広く日本国内に伝えられ、上野の寛永寺で盛大な歓迎式典が催された。この歓迎式典には時の大隈総理大臣をはじめとして、閣僚、学者、宗教関係者、芸能人など著名人218名が出席し、タゴールの講演を聞いた大隈総理大臣は涙を流したとも言われている。その後、タゴールは台東区池之端の横山大観邸や横浜の原富太郎邸三渓園などに3ヶ月間滞在し、日本の著名人と親交を深め、思索するかたわら執筆を行った。また、東京帝国大学や軽井沢の日本女子大学などで講演も行った。日本滞在中、日本とその伝統文化に接したタゴールは、なかでも柔道、生け花、茶道などに心を打たれ、これらの文化をシャンティニケトンで講義して欲しいとの要望を出し、後に日本から講師が送られた。
 翌1917年、タゴールは画家ノンドラル・ボースを伴って、再び日本の地を訪れた。この2度目の来日で、タゴールは京都、奈良、大阪、神戸を訪れ、数多くの講演を行った。また、1924年、3度目にタゴールが日本を訪れた時には、国家主義者頭山満、平岡浩太郎、学者、軍人などが集い、上野精養軒で歓迎会が開かれた。この3度目の来日時、タゴールは東京帝国大学で講演を行い、西洋の模倣に傾倒する日本の軍国主義を反ナショナリズムの立場から痛烈に批判した。日本とアジアに対する親愛の情からなされたタゴールの批判は、当時の日本の人々にとって受け入れがたいものであった。後に、日中戦争をめぐってタゴールと詩人野口米次郎は激しい論争を展開したが、日本の軍国主義の歴史は、タゴールが予想し、憂慮した通りの結末を迎えたことは言及するまでもない。その後、1929年に2度来日したのを最後に、タゴールは再び日本を訪れることはなかった。
 戦後、インド・パキスタン分離独立によって、ベンガル地方はインドのベンガル州と東パキスタンに分離されたが、1952年、インド及びパキスタンと日本の間でそれぞれ国交が樹立され、戦争によって一時中断されていた日本とベンガル地方の交流は再開された。日本の多くの学者や学生がインドの西ベンガル州や東パキスタンの大学に戻り、また、ベンガル地方の人々も日本の文化や教育・技術を学ぶために来日した。
 太平洋戦争の開戦、そしてその終戦を見届けることなく、世界平和を願って1941年にこの世を去ったタゴールの思想は、戦後の日本で再評価されるようになっていった。こうした流れのなか、1959年に東洋大学学長大倉邦彦、評論家山室静、平凡社創立者下中弥三郎、東京大学教授中村元などによって、タゴール記念会及びタゴール研究所が設立された。ここではタゴール研究やベンガル語の講義が行われた。その後、1961年にはタゴール記念会主催によるタゴール生誕百年祭が開催され、記念としてアポロン社から『ギーターンジャリ』、『タゴール撰集』が出版された。1981年には現麗澤大学我妻和男教授(筑波大学名誉教授/元タゴール国際大学教授)が中心となり、10数年もの歳月をかけてタゴールの全作品を和訳した『タゴール全集』が出版された。
 1988年、初めてのインド祭りが全国で開かれた時には、映画、コンサート、インド料理、工芸品など、様々なインド文化が日本に紹介された。この時、タゴール・ソングの代表的な歌手も来日し、コンサートが行われた。また、日本で初めてのタゴール展も開かれ、タゴールが生前に遺した絵画が展示された。1989年7月、シャンティニケトン内タゴール国際大学の日本人元教授及び元留学生一同とタゴール愛好家によって「タゴール国際大学日本学院設立委員会」が設立され、同構内に日本学院を建築するための基金が募られた。この基金によって、1994年、念願であった日本学院が完成した。現在、ここでは日本に関する講義・研究が行われ、また学生の文化交流の場ともなっている。
 以上、足早に100年の歴史を振り返ってみたが、「日本・インド文化交流」ではなく、「日本・ベンガル地方文化交流」という表現をつかっていることに疑問をもたれる方もおられるであろう。日本ではタゴールといえばインド人という認識である。それは決して間違いではないのだが、バングラデシュ人はタゴールをベンガル人であると認識する。歴史的に異なる国家に分離されたベンガル地方であるが、バングラデシュ人となってもベンガル人であることに変わりはないのである。日本とベンガル地方文化交流の歴史とともに、この表現についても一度考えていただければ幸いである。

 経歴 1959年東パキスタン(現バングラデシュ)シレット県に生まれる。1984年チットゴン大学修士課程歴史学部中退。同年、中曽根内閣の留学生倍増計画により来日。ジャパン・ランゲージ・インスティテュート(日本語学校)に入学。1985年日本人と結婚。以後、印刷会社に勤務し、日本の印刷技術を学ぶ一方、1991年よりベンガル語雑誌『マンチットロ』の編集長として現在に至る。その他、1996年よりベンガル語の法廷通訳士を兼業、2002年日本ベンガル協会理事長就任。

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震災と平和-新たな地殻変動の時代 2012年2月1日世界連邦石川

 

 賀川豊彦教の信者に
 午前中に金沢ふるさと偉人館と鈴木大拙館を訪れた。石川県は層の厚い人材を輩出しており、わが高知県と並び人材のパワースポットではないかと思う。高峰譲吉、桐生悠々も然り。ところで世の中は想定外のことが起きる。私の弟が42歳で交通事故に遭った。朝、「行ってきます」と出かけて帰らない。誰にとっても思いもよらぬことが起きる。私たちは予測不可能な奇跡的なところで生きているのである。科学者の故高木仁三郎先生は、原発批判の中で、地球で生物が生存できるのは偶然にも宇宙の放射能から守ってくれるシステムがあるから、それなのに人類はその中に再び放射能を持ち込んでいる、と話された。
 私は1951年高知県に生まれたが、父のいる東京で少年期を過ごした。中高校時代に南アフリカの人種差別(アパルトヘイト)を経験したためジャーナリストになる決意をした。大学時代、当時の階級闘争的な学生運動にも反発し、戦うべき対象は人種差別をする白人であると指摘した。核は武器で原子力は平和利用というが、それは同一なものだ。また、アメリカはアジア同士が仲良くなることを好まないとも考えている。47歳で記者からデスクになり、インターネットで萬晩報(よろずばんぽう)を発行、環日本海時代のシンクタンク・財団法人国際平和協会の理事となり、その機関誌を通じて賀川豊彦を知る。そして。賀川教の信者ともなった。

 救援活動の組織化図る
 1970年頃、EU議長が日本の国会で「EUは賀川精神で成り立っている」と発言している。賀川は1925年頃の小説で、石炭燃料の排煙で街が曇るので煙突を無くそうなどと書いている。1923年に関東大震災が起き、賀川は新聞で見たその日に船に乗り現地へ向かう。全体で10万人の死亡だが、そのうち本所地区は8万人死亡した。風により火災被害が拡大し、その酷いところを救援した。賀川は講演をしながら1ヵ月で数億円を集め、必要物資を購入、配布するなど一年以上の救援活動を行った。。賀川村と言われた避難所では、当時で常時百人位の人たちが救援活動に参加し、行政ができないことを民間で行うことの始まりと言われた。公営に先駆けて、保育園や医療機関物資供給のための協同組合などの組織化を震災救援から学びとり実践していった。雇用保険や公共投資事業等、社会のグランドデザインも既に考えていた。現在でも、緊急事態や法律の軽重などの優先順位はきちんと把握することが必須である。

 協同組合の思想を重視
 ショックドクトリンという言葉をご存じですか。これは緊急事態のときに人は思考停止状態になるのを利用して洗脳し、自己の政策を浸透していくこと。だからりーマンショックであれ、福島の4基の原発であれ、私たちは思考停止状態になることなく、きちんと見ていないといけない。12兆円の復興債を25年で支払うという。年4000億円は会計検査院が不正使用で挙げた金額と同じ。
 来年(2012年)は国際協同組合の年である。株式会社は出資金額の大小で運営が決められるが、協同組合は一人一口の議決権。金額の多寡ではなく、一人一票の議決で運営される。一人ひとりの意思を大切にする制度である。八田与一を含め、多くの明治の人たちは国境を超えた考えで仕事をしていた。日本だけ。のために仕事をしていた訳ではない。もう一度そのこと、その思いを見直すことが私たちの明日の道のために大切なことだと思っている。(世界連邦石川)

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清末の大陸風物を探知した東亜同文書院生


 東亜同文会が南京に学校をつくったのは1900年5月。翌月、義和団の乱が起こり、1901年に上海に拠点を移して東亜同文書院と改称した。列強の中国進出に対抗して「支那の保全」を掲げた東亜同文会であったが、旗揚げ直後から、清朝の政治的混乱や連合軍による北京占領など列強の軍事力を目の当たりにすることになる。1900年、教員として南京にあった山田良政はまもなく、孫文の革命に合流し、10月、広東省恵州で戦死した。
 東亜同文書院は、中国事情に精通した人材を育成する目的で設立され、終戦まで上海にあったが、その活動でユニークだったのは卒業大旅行だった。「大旅行誌」の踏破録に「外人の跋跡稀なる内地数千里外の民物情況を探り及び各要津の紛錯せる機微を開き、其の政治経済商勢の詳悉を探知せん」とその目的を掲げた。この卒業大旅行が始まったのは第5期生から。満州から天津、長沙、広東など七方面、6―8人一組となって貧乏旅行を敢行した。
この卒業大旅行は「調査旅行報告書」と日記風の「大旅行誌」としてまとめられた。当時の中国の実情を伝える貴重な資料だった。今回は「大旅行誌1」から約110年前の中国(清国)の実情の一端を紹介したい。

 南船北馬
 1905年から5年間、清国の鉄道顧問となった原口要氏の「中国鉄道創業史」によると、辛亥革命時、中国の鉄道はロシアが敷設した満州の鉄道を例外として、まだほとんど整備されていなかった。鉄道は大都市間を部分的につなげていただけであり、学生たちにとってそれこそ南船北馬を地で行く旅だった。
 北方の旅には驢馬(ロバ)と騾馬(ラバ)が随所に登場する。また騾馬に荷車を引かせた中国轎(かご)もよく利用したようだ。ただし金持ちや高官が乗るようなものではなく、辻々で客待ちをしている貧相な乗り物だった。田舎の壊れた道を通行するには随分と重宝したようだった。
 旅行で最も困ったのは、宿の設備がどこもでも形ばかりで、非常に不完全なもの、且つ不潔を極めたもので、到るところで蟲(南京虫)や虱(しらみ)に悩まされた。食物は非常に粗悪で、到底堪えられるものではないことがそれぞれの報告に共通している。
 南方の旅では船が中心だった。上海―漢口には立派は客船があり、揚子江の南はほとんど水運でつながっていたことが報告されている。

 ダルニーと山東苦力
 山東半島から満州に渡った学生たちが目の当たりにしたのはロシアが築いた大連の町の偉容だった。まず桟橋の巨大なる様に驚く。「長春紀行」には「長さ二百間幅四十間小なる半島ともみまがう」といっている。町は扇型で、ロシア人によって造成された後、日本によって改修されたものだが、「ああこの苦心の果、心血の凝を見るにつけ之を我国に引渡して遠く北満に退かざる可からざるに到りたる時の露人の心理如何なりけむ」と憐れんでいる。一九〇五年、日露戦争で日本がロシアから割譲された地で、すでに町の呼称は大山通、乃木町、美濃町、伊勢町など陸軍の将軍名や日本の国名がついていた。大連の呼称そのものについても「元来清名を青泥窪と称し、ロシアが経営してダルニーと称し、皇軍の手に帰するや大連と改称せらる」と説明を加えている。
 清国のほとんどの都市は旧来の構造で、近代都市はイギリスがつくった上海など数少なかった時代に学生たちは度肝を抜かされたに違いない。
 次に驚かされたのは山東省から渡ってきた苦力の姿だった。「年々満州に入る数約20万」。満州はそもそも「清祖興起の地にして清朝政を支那全土に施すや特に此地を以て満族の根拠地と為し清朝の藩屏たらしめんと欲して住民は主として之を満州人に限らしめん事を計り令を発して漢人の出入りを禁ぜり」という地だった。しかしロシアは三国干渉によって大連・旅順を手に入れ、義和団の乱のどさくさにまぎれて満州全土を支配した。清国が満州支配の力を失ってから、山東省の人々は禁制を犯して次々と満州に渡り「今日満州の商工界の覇者は山東山西等の人民に帰する」「シベリア鉄道東清鉄道の如き全部これら山東苦力の労役に依りて竣成したるものなり」という様相となったのだ。
 日本を含めた列強の中国侵略は学生たちの眼にどう映ったのだろうか。満州一帯に広がるコウリャン畑を眺めつつ、清朝の故地である奉天の宮殿に入り、かつて版図を誇った帝国の盛衰を心に刻み込んだに違いない。

 江南の日本人
「浙贛湖広旅行記」には7月、上海を出発、杭州を経て銭塘江を遡行し、長沙に到る5000里(1里=約500m)の船の旅が記録されている。銭塘江は富陽から富春江と呼称が代わる。彼等が見たものは「一帯の地黄土にして桑樹を植え、樟樹多き」風景だった。樟樹はクスノキで樟脳の原料として幕末から日本の有数な輸出商品である。船主との会話は標準語が通じなかったため筆談も交えたようで「倭寇侵略の跡、呉の地、発音邦語に近し。二をニ、九をキューと発音す」などと記している。貧乏学生の旅は、厳州では「知府に歓待せられ礼砲を以ての歓迎」されるなど戸惑う場面もあった。
 やがて富春江は蘭江となり、さらに分岐して衢江に入ると衢州に到る。「山河の景致愈勝り行く水は青し」。浙江省の山間部は渓谷で水もきれいだった。風がなくなると帆をたたんで船を岸辺から引くことになる。衢州は福建省、江西省、安徽省、浙江省の貨物の集積地。当時は浙江省の樟脳によって栄えていた。学生達を驚かせたのはそんな山間の地に「三五公司」という樟脳を扱う台湾系日本企業の出張所があったことである。彼らは三五公司の客となり、久々に南京虫の襲来から逃れることになる。三五公司の樟脳取り扱いは「年額十万斤」というからなかなかのものだ。
 当時、大陸での日本企業の進出は福建省が突出していた。別の大陸の海岸伝いに広州までたどる旅行記には「寧波の在留外国人は凡そ200人、最も多きは日本と仏国。日本人は売薬、雑貨商、技師、職工多く、仏国人はほとんどカトリック宣教師」と記している。また福州では「在留外国人七百余のうち日本人は260人。但し日本人と称するものの内には台湾国籍を有する支那人過半数を占めたれば真に日本人と称すべきは120人にすぎない」。厦門では「日本人、1300人内1000人は台湾籍なり」。興味深いのは「福建省通貨は日本旧円銀最も多く行わる」と書かれてあることで、台湾を通じて、福建省を中心に日本の経済圏に属していたということである。
 付け加えるならば、厦門と汕頭が東南アジアへの移民の出身地で、「1906年統計では台湾と南洋行きの移民は5万8626人」「無一文の貧民も出稼年乃至十数年の後はみな相当の資産家として帰郷す、此の地方一代富豪の多きは全く此故に外ならず」と特記している。
数百ページにわたる大旅行記の中から、個人的に印象的な部分を書き出してきたが、二年後には辛亥革命が起きて清朝そのものがなくなり、中国大陸は軍閥の割拠する中、日本を含めた列強による浸食が進むことになる。次回以降、東亜同文書院の学生が見た生身の大陸情勢をお伝えしたい。(萬晩報主宰 伴 武澄)

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3回目の追加策は73兆円! 夜学会181

政府は8日、新型コロナ感染拡大を受けた追加対策を閣議決定した。73兆円だが、国の予算は30兆円。10兆円規模といわれていた金額がいつの間にか3倍を超えていた。1998年3月「昨夜の10兆円が朝方12兆円、夕方に16兆円となった」というコラムを書いたことを思い出した。

https://www.yorozubp.com/9803/980326.htm

通常ならば「補正予算」とするべきところが「対策」になっていることに注目したい。1998年もそうだった。中身がほとんど詰まっていないからなのだ。

今回の対策は3回目である。一次補正予算は25兆円、二次補正は31兆円。そして今回は30兆円。一次の特徴は国民一人ずつ10万円を配ったことと、持続化給付金を盛り込んだこと。二次は家賃支援給付金に加えて「予備費」を10兆円も盛り込んだ。内容も規模が先にありきだった。今回の三次は地方創生臨時交付金1兆5000億円がコロナ対策。その他に国土強靭化と称した公共事業、脱酸素化に向けた環境基金などコロナと関係のない事業に巨額の対策費を盛り込んだ。

今回も規模ありきだった。コロナの影響で減少する国内需要の穴埋めが30兆円ということらしい。問題はたくさんある。まず「基金」が目立つ。年度を超えて使えるため使いやすいというのだが、その後の使途が分からなくなるのが特徴で、何に使われるか分かったものではない。これまでの基金は公務員の天下り先の給与に消えた疑いが免れない。

公共事業は「国土強靭化」をうたっているが、すでに3.11の東日本大震災時には20兆円という災害対策費が投入され、その後の風雨災害に際しても別途、対策費が計上されている。今更という感がある。この国の役人はどうしても公共事業がほしいのである。

環境対策ならば、太陽光パネルを各家の屋根に設置すればいい。1兆円あれば100万戸の屋根にパネルを無料で貼れる。15兆円ならば1500万戸である。日本国民は一気に自前の発電装置を手にすることになる。年間20万円から30万円の電気代は不要になり、他の消費に回る。これほど大きな景気対策はないと思う。その代わり電力会社は経営が破綻する可能性が大きいが大胆に実行するメリットは小さくない。

自動車のEV化に使ってもいい。同じく100万円の補助金を出せば、日本は一気にEV王国となり、生産面で世界のトップに躍り出ることは確実。15兆円あれば、1500万台。5年間の日本の国内販売に匹敵する金額だ。2050年を待たずに二酸化炭素ゼロの世界を達成できるというものだ。

日本に必要な発想は不要不急の公共事業ではないことを改めて強く主張したい。

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通信社の歴史 夜学会180

世界で一番古い通信社は「フランス通信」(AFP)だ。1835年、- シャルル=ルイ・アヴァスが「アヴァス通信」として設立した。次いで古いのはイギリスのロイター通信。アヴァスで働いていたユダヤ系ドイツ人のポール・ジュリアス・ロイターがロンドンに移ってつくった。もう一人アヴァスにいたベルンハルト・ヴォルフはドイツでヴォルフ電報社を設立した。同じころ、アメリカでは1846年ニューヨークの5つの新聞社がAP通信を設立した。AFP、ロイター、APはいまでも世界の三大通信社として生き残っている。

新聞が政治批判を中心に発刊されたのに対して、通信社は金融情報を得るために生まれた点で目的が違っていた。英仏独米の世界支配の先兵的役割を果たしてきたといっても過言でない。

通信社の歴史で語られるのは「ネイザンの逆売り」だ。1815年2月、ワーテルローの戦いでロンドンのネイザン・ロスチャイルドはイギリスがナポレオンに勝利したことを知りながら市場でイギリス国債を売りまくった。イギリスが敗北したに違いないと思った市場関係者が「売り」に走るとネイザンは底値で国債を買いまくり、巨額のとみを築いた。当時、通信社などはなかったため、伝書鳩が使われたと教えられた。情報を先につかんだものが市場を支配できることが通信社の誕生を促したというのだ。19世紀、七つの海を支配したイギリスのもとでロイター通信は情報面で世界を支配することになる。

日本では戦前、同盟通信という巨大な組織があった。新聞聯合と日本電報通信社が合併して誕生したのはまさに大東亜共栄圏と軌を一にしていた。日本にとっても国際的通信社の設立は悲願でもあったのだ。この同盟通信が敗戦とともに財閥解体の対象となったのは不思議ではない。今ある共同通信、時事通信、電通の母体は同盟通信だった。

ロイター通信の強みは世界に張り巡らされたイギリスの通信網である。通信線であるといっていい。ロンドンからアジア、アフリカ各地は海底ケーブルによって繋がれ、明治4年には長崎にまで届いていた。

資本家に富をもたらしたのは情報だった。そのことは今も昔も同じである。ニュースと情報の違いは何なのかよく分からないところがある。

世界的にみて新聞はローカル紙がほとんどである。全国紙があるのは社会主義国と日本だけともいわれているが、日本でも戦前までは朝日や読売も都会の新聞でしかなかった。ところが通信社は国家単位で国を超えて支局網を構築しているのが特徴だ。そうでなければ通信社の名前に値しないからだ。そういった意味で同盟通信こそが日本を代表する通信社だった。戦後の共同通信や時事通信は名前負けしているのかもしれない。

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働き方改革の大きな問題

 政府が進めてきた働き方改革の柱は時短である。日本人の働きすぎを是正する政策は何十年にもわたって議論してきた。僕が労働省を担当していた1990年、つまり30年も前、日本とドイツの労働時間の実態調査を目にしてあぜんとしたことを思い出す。ドイツで超過勤務は限りなくゼロに近かったのだ。当時、日本とドイツは経済の優等生として世界経済を牽引していたのに、なぜ日本はこうも長時間労働が強いられるのだろうと疑問に思った。

 戦後の日本の賃金体系は、本給を抑えて超過勤務とボーナスに多く依存して来た。だから日本の場合、時短を進めると勤労者の手取り賃金が減るというおかしなことがおきる。日本企業の超過勤務依存症は企業側の事情と勤労者側の事情と双方にあることを前提としなければ本当の議論は進まない。

 本来ならば、生活ができる本給があれば誰も超過勤務などはしたくない。では、勤労者の本給を上げるとどうなるか。経営側からすれば、本給を上げると超過勤務の時給単価の上昇につながり負担増となる。一方で本給を上げると勤労者が支払う社会保険料の負担が上がって手取り額の減収要因となる。もちろん経営側の負担も増える。そんな賃金をめぐる問題が働き方改革を難しくしているといってよい。

 財務省の統計によると、日本の労働分配率、つまり生み出した付加価値のうちの勤労者の取り分は60%を超えていたのが、近年、50%を切っているという報道がある。かつて60%を超えていた時でも欧米と比べると日本の水準は低かった。日本企業の内部留保が400兆円に近いという統計もあるが、好業績の配分が株主配当と内部留保に流れていると考えていい。

 勤労者の所得が購買力を増してGDPに貢献するという発想が日本では欠如している。かつて自動車生産のオートメ化を進めたフォードは「労働者が買える価格の自動車を生産する」と公言してフォードを大企業に変身させた。自動車が売れて労働者の賃金が上がるという好循環をもたらしたことは歴史が証明している。

 ところが日本企業の経営者は「突出」することを好まない。賃金を含めて横並び的発想から抜け出すことができない。だから業績が上がっても賃金を上げようとしない。ここに大きな問題がある。

 配当を増やすことにはそれなりの意味がある。しかし、日本企業の場合、株式の持ち合いがあり、配当を増やしても企業の収入と消えてしまう側面もある。内部留保の場合、死に金でしかない。

 本来、通貨は流通のツールでしかない。流通量を増やすことによって景気を刺激する効果がある。だからこそ安倍政権はかつてない規模の資金を市場に供給して来た。その一方で企業が収益を市場に還流させず内部留保している。死に金を増やすということは通貨の流通スピードにブレーキをかけているに等しい。

 話を働き方改革に戻す。政府は裁量労働制の導入に積極的だ。裁量労働とは、労働の価値を時間で計れない職種は研究職ばかりでない。数多くある。成果に対して賃金を支払うという考え方だから、多少の手当をもらって裁量労働制が使用されれば逆に長時間労働につながりかねないのだ。これは経営側の要求であり、勤労者の要求ではない。

 長時間労働の一番の原因は「ホーレンソー」なのだと思っている。報告・連絡・相談。企業でも役所でも上司はみな部下の行動を把握したがり、逐一、報告を求める。その報告が口頭ですむなら簡単であるが、記録に残すために文書による報告を求めることがほとんど。しかもしの報告書の書き直しなどを命じられると時間はいくらあっても足りない。

 かつて現場記者だった時代、よく記事の書き直しを求められた。勤務時間内に記事は出来上がっているのに、デスクはまだ記事をみていてくれない。そうなると超過勤務時間帯に入る。やがてデスクから連絡があって「文章になっていない。書き直し」と命じられる。書き直しで、デスクとのやり取りが終わって記事ができ上がるまで数時間。待ち時間も含めて記者は「過分の超過勤務手当」を頂戴することになる。出来の悪い記者ほど超過勤務手当が増えるというおかしなことが起きるのだ。もちろん「ホーレンソー」がサラリーマンの要諦であることも教えられた。

 有能な上司、つまり部下の掌握術にたけた上司ほど「ホーレンソー」を求めない。ホーレンソーの必要性が減少すれば、日本の勤労者の働き方は格段に改革される。

 勤労者の時短が成功すれば、勤労者の手取り収入減を意味し、購買力の減少につながることは間違いない。日本経済の縮小につながり、日銀が目指す2%の物価上昇どころではなくなるのだ。

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日銀が最大株主に 夜学会179

デザインは福沢諭吉の方がいい。

日銀が11月26日発表した中間決算によると、9月末の総資産は690兆円、そのうち国債は10%増の529兆円、株主投資にあたるETFは24%増の34兆円となった。その結果、日本の株式市場の最大の株主となったのだそうだ。ちなみに日本のGDPは500兆円超。日銀の総資産がGDPを上回るなどということがあっていいのか。

その昔、日本の最大の株主は生保業界といわれた。1980年代後半、日本生命の幹部を取材したところ、「わが社にとって売買は買買」なのだと豪語していたことを思い出す。日銀も「買買」なのだ。一般株主が株式市場から逃避して長い年月が経つ。いつの間にか日本の株式市場を支えてきたのが生保業界から日銀に変わっていたことに驚きを隠せない。少なくとも生保業界は国民の生命保険の掛け金を投資したのである。日銀はそうではない。自らお金を創造する国家機関である。

日銀が一時的に株式市場を支えることがあってもおかしくない。しかし黒田総裁がやってきたことは継続的な市場介入なのだ。株式市場が低迷すればすかさず日銀が買いに回る。そんなことが常時起きるのなら、だれもが安心して株を購入できる。そんなものは市場でも何でもない。上がったり下がったりするのが市場の原理。その市場原理を否定するのなら市場はいらない。まさに日銀は資本主義を否定しているに等しい。

日銀の最大の機能は金融市場の調節である。景気が悪い時には金利を下げて借金をしやすくする。景気が過熱しているときは逆に金利を上げる。ここ8年の日銀に役割はお金の過剰な供給だった。アベノミクスとは日銀の資金供給でしかなかった。市場で使えないほどの資金を金融機関に供給する。でも金融機関はどこもお金を貸すことはない。担保のない企業に貸すことは内からだ。大手企業はすでにお金がじゃぶじゃぶで借りることはない。中小企業には貸さないということになれば、日銀が供給した巨額の資金はどこにいくのか。結果的に国債と株主に向かう。これがアベノミクスの真相なのだ。

生保業界が最大株主だったころ、資金の5%以上は株式に投資できなかった。そんな制限があった。しかし、日銀にはそんな制限もない。日本の株式市場はコロナ禍で経済が停滞しているにも関わらず高値を更新している。少なくとも2016年から始めた年間6兆円の投資は不必要である。いますぐ中止を宣言すべきであろう。

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今年もゆずジェル

 今年もユズの種からジェルをつくりました。これまで高知のほか東京や津軽に愛用者が広がっています。高知の山の人たちは、いつからかユズの種のエキスが肌に効くことを知っていました。今でも多くのひとがユズ酢を絞った後もその種を大切に保存し、ジェルをつくっています。

ゆず種ジェルはWaterBaseで販売中

価格は100ml入りボトル、1000円(郵送費無料)

注文はugg20017@nifty.comへ

 下記は資生堂が「ユズ種エキス」に皮膚の基底幕の損傷を修復する効果があることを研究発表したリリースの一部です。

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かるぽーと改修になぜ115億円 夜学会178

高知市は、開会中の市議会9月定例会に、開館から18年を経た高知市文化プラザ「かるぽーと」(高知市九反田)の改修予算を提案している。その額ざっと40億円。ちなみにこれは最小限度の先行改修で、本当は115億円かかるという。えっ、そんなにするの?

9月19日の高知新聞の記事である。

僕も190億円で建設したかるぽーとの改修費が115億円かかると知って驚いた。八千代エンジニヤリングが実施した「劣 化 度 調 査 報 告 書」を見つけた。修復が必要とされる主な71カ所が写真入りで掲載されている。https://www.city.kochi.kochi.jp/uploaded/attachment/94729.pdf

笑ってしまうのは、「壁紙の汚れ」「開店扉のさび」「かび」など普段の掃除で解決できそうなものが多くあり、ひどいのは「エスカレーターにハトの糞」などもある。「スピーカ、アンプ類は更新時期を過ぎている。 システムとして更新の検討が必要」などはひどい。使用できないのならともかく「更新時期」、つまり「減価償却」時期がすぎていると思われる表現でしかない。そんなものばかりなのだ。

どう考えても誰でもが日常的に対処できるようなことばかりが列挙されている。素人的にみて、1カ所数万円的な「改修」が続く。例えば、耐震対応をするのだというなら分からないでもない。もちろんそんなものではない。どうしたら40億円になるのか分からない。

そこで考えた。かるぽーとは以前から運営を「指定管理」で民間に委託している。株式会社四国舞台テレビ照明という企業が請け負っている。請け負っているのは「運営」だけであり、構築物や機器は高知市のものだから修繕は高知市が行わなければならない。高知市が直営していれば、日常的に壁紙を変えたり、さびを取ったりするだろうが、5年ごとに入札が行われる運営会社はよけいな経費を使いたくない。だから、劣化した設備を修繕するはずもない。そのままにしておく。長年そうしたことが続いた結果、今回の大規模な「改修」となったと考えられる。

指定管理はいまや多くの分野で行われている。業者としてはメリットがなければ参入しない。制度が続くということは民間に「うまみ」があるということでもある。初めは施設運営のコストダウンのために導入された制度だが、今となっては本当に安く運営されているのか分からないのだ。

問題はその「改修」をプロポーザル方式で公募したことである。一つひとつの「改修」は専門業者に発注すればいいことである。なぜ「カビ取り」から「スピーカーの取り換え」まで一括して発注しなければならないのか全く分からない。高知市は単に「めんどくさい」から金に糸目をつけずに「発注」したのではないかと疑われるのだ。

こんな改修予算が高知市の9月議会で通ってしまっているのだ。

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アメリカの防衛思想 民兵の役割

このところ、米大統領選の話題が続いている。大統領選の結果次第で「暴動」が起きる可能性については多くのメディアが報道してきた。本来、暴動は政府に対抗して民衆が起こすものである。これに対して、今のアメリカでは共和党系の自警団と民主党系の自警団が衝突しかねないという事態であり、警察や軍は双方の衝突が起きないよう仲介に入る役割が求められるのだ。思い出したのは日本の暴力団の抗争事件である。民間の武装集団が戦う様相はまさに「ならず者」同士の抗争である。

思い出したのは南北戦争である。奴隷州と自由州の戦いだったとされるが、正規軍同士の戦いではなく、双方の自警団同士が戦った戦争ではなかったかと考えた。ここらがアメリカ合衆国の独自の発想である。そもそもアメリカ市民がイギリスの正規軍に対して立ち上がったのが「独立戦争」だった。革命はいつだって武装した市民が立ち上がったものだったが、アメリカの13州の人々の考えは「独立」を達成してからも「正規軍」に重きを置かなかった。

ニューヨーク市警やロサンゼルス市警は雇われた警察官で構成されるが、郡部ではいまだに人民から選挙で選ばれたシェリフが警察権を行使する。自警団に近い存在なのだ。警察だけではない。郡部の判事も検事も選挙で選ばれる場合が少なくない。

アメリカにはMilitia、民兵制度がある。米国は国民の武装する権利、政府・州に立ち向かう権利が憲法で保障された国で米国内にはいくつもの民兵組織がある。彼らは武装し戦闘訓練を行い、治安維持やメキシコ側の国境警備なんかも勝手にやっていたりするというのだ。民兵は、西部開拓時代を通じてインディアンとの闘いに明け暮れた結果、育まれた制度ではなかろうか。

この民兵を知らないかぎり本当のアメリカは見えてこない。

『アメリカを探る』(建国期アメリカの防衛思想、みすず書房)によると、、1776年のヴァージニア州憲法は次のごとく規定している。「軍事に訓練された人民の団体よりなる規律正しい民兵は、自由国家の適当なる、自然かつ安全なる護りである。平時における常備軍は、自由にとり危険なものとして忌避するべきものである」(権利の章典第一三条)。

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バイデン当確、次期米大統領

11月7日、アメリカ大統領選で民主党のバイデン候補の当確が出た。ABCやCNNなど主要メディアが相次いで報じ、共和党に近いFOXまでも当確を打った。投票日から4日、緊張した日々が続いた。

僕は10月から自らの「はりまや橋夜学会」でアメリカ大統領選挙について議論した。「選挙人が分からない」「州によって制度がまちまち」「再集計は分かるが、集計を止めるなどあり得ない」。多くの意見が出た。

結論的にいえば、アメリカの選挙制度は200年以上も前につくられたもので、時代遅れではないかという意見が多かった。選挙人は「州の“賢者”たちに大統領選を委ねる」という制度。13州で選ばれた選挙人が当時の首都だったフィラデルフィアに集まってアメリカの代表者を選挙するという手法はテレビはおろか新聞ろくろくなかった時代にはなかなか考え抜かれた制度だったに違いない。

制度の中で奇天烈なのは、万が一、一部ので選挙人が確定せず、党派の選挙人数が過半数に到らなかった場合、1月に開催される下院で改めて投票することになっていることである。その際、下院議員全員に投票権があるのではなく、州1票でしかない。例えば、53議席あるカリフォルニア州ではすでに40人の下院議員が確定しているが、それが1票にしかならない。一方、1議席しかないアラスカでは共和党議員が勝利しているから、これも1票。州の人口によって票の重みが何十倍もあり、到底、「多数原理」が働くとは思えない。

今回の下院選でいえば、共和党が勝利した州は26あるから、下院投票でトランプ復活の可能性もあったのだ。

トランプが今回の訴訟作戦は、開票作業をストップさせて、1月まで州ごとの票を確定させない作戦である。これまで多くの州ではトランプの訴えが退けられている。これから連邦最高裁に順次、訴えるのだろうが、共和党系の裁判官が多いからといって、理由もなくトランプの訴えが受け入れられるとは考えられない。

頼みの最高裁でも訴えを退けられた場合、トランプがすんなり「結果」を受け入れるかどうか。判断が分かれるところであろうが、トランプにとってどこかの時点で「名誉ある撤退」が不可欠になるはずである。

最大の問題は、トランプを支持した7000万の人々である。恐ろしい事態が発生するのはこれらの一部でもが選挙結果を受け入れない行動をとった時であろう。世界はそんなアメリカを見たいとは思っていない。

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平和利用の美名に異議 日本学術会議で

広島で自ら被爆した新聞記者山野上純夫氏の被爆回想記「ヒロシマを生きて」が高知で出版された。平成30年から毎日新聞紙上での連載をまとめたもの。昨日から読み始めた。

驚いたのは冒頭から日本学術会議の話が出てきたことである。「原子力研究の是非」について、1952年10月27日の総会の席上、広島大学理論物理学署長の三村剛昂博士が「原子力の研究は、平和利用といっても軍事利用に通じるものがある。米ソ間の冷戦対立が続く限り、日本は研究すべきでない。これは私の被爆体験から申し上げることです」と述べた。

その日の会議では、茅誠司東大理学部長らが「原子力平和利用の研究に積極的に取り組むための調査審議会設置を政府に進言する共同提案が出されていた。

三村博士が、広島の市民がいかに悲惨な状態で命を奪われたかを語りながら、「平和利用という美名にまどわされてはならない」と、声涙とも下る発言を続け、議長の亀山尚人東大名誉教授は「時間制限はしない。十分に語って」と告げた。

原発開発をもくろむ政府に対して、協力しようとする勢力に対抗して「ノー」を突きつける。そしてその議論を「時間制限」なく受け入れようとする学術会議があったのだ。手記によると「日本の学術会議はもともと、科学者の戦争協力を反省する立場から発足したものである」。政府の考えに是々非々で議論することが当たり前とされた組織である。

三村博士は、戦争中、広島大学の前身である広島文理大学で理論物理学研究所長を務めていた。波動幾何学という数学で素粒子の動きを解明し、量子力学と一般相対性理論の統一を目指す研究に没頭していた。政府は原子爆弾開発への寄与を期待していたはずである。そのとき、博士は学生たちに話した。「私たちの研究は科学の進歩には役立つかもしれないが、戦争のお役には立たないかもしれないと念を押して所長就任を受け入れた」。

三村博士の研究は、後の湯川秀樹、朝永振一郎博士のノーベル賞授賞への呼び水となったとされる。そんな原子物理学の最先端にいた人物が自らの被爆後は、原子力の危険性を訴える研究者に“転向”したのだった。政府の方針に真っ向から反対するそんな科学者がいてこそ「日本学術会議」が存在感を示すのだ。

日本学術会議が推薦した6委員の任命拒否をめぐる政府vs野党のやりとりにはうんざりさせられる。政府方針に対して堂々と反対意見を述べることができないような組織なら、廃止した方がいい。そんな思いがしている。

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アメリカは非合衆国となるのか 夜学会177

6日朝、BSNHKで、アメリカ大統領選挙後のニューヨーク市民にインタビューをしていた。その中である女性が「われわれの国はununited statesだ」と答えていたのが印象的だった。3日の投票後の開票作業は4日夜からほとんど止まっている。4日未明に作業員を帰宅させた開票場もあったというから日本の常識とはかけ離れている。日本で見る5日夕刊も6日朝刊もトランプとバイデンの選挙人獲得数は変わっていないから不思議だ。どう考えても「淡々と開票作業」が行われているとは思えない状況が続いている。

4日午後の報道を見ていて、「こりゃトランプの圧勝だ」と感じさせていたが、夜になってバイデン票がどんどん増えていき、接戦の状況になり、開票が膠着状況に陥った。その間にトランプ陣営が一部の州で、投票の再集計や開票作業を止めるよう要求し、ある意味予想通りの展開となってきた。

多くの識者が指摘して来たのはトランプ劣勢の場合の混乱である。場合によっては訴訟どころか暴動が起きる可能性も出てきた。まさにアメリカの分断が起きるかもしれない。

今夜、夜学会が始まるころにはバイデン勝利が確実になるかもしれない。トランプ時代を終わらせ欲しいと考えている人は少なくないはずだが、それによってアメリカの分断が深まるのだったら好ましいはずはない。アメリカが「非合衆国」に陥るのかどうか、世界は固唾をのんで見守っている。

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