僕が所属している国際平和協会の説明から始めたいと思います。二三年前、つぶれかけている財団の理事に選任されました。経済評論家、金森久雄氏が提唱していた環日本海経済のシンクタンクに衣替えしようという試みがあったのです。お金もつぎ込むということでその分野の専門家が集まりましたが、振り込まれたのは最初の一カ月だけで、多くの専門家たちは一年もたたずに去っていきました。僕は事務局で世界国家という古い機関誌を読み始めていて、賀川豊彦という人物に出会い、居残ることにきめました。

 賀川豊彦は、戦争直後八月、東久邇内閣に請われて、戦後の日本を再構築するプロジェクトに参与として参画します。やがて首相官邸で財団法人国際平和協会が誕生します。理事長は賀川豊彦、常務理事は鈴木文治(日本の労働組合の創設者)、理事は有馬頼寧(元農水相)、徳川義親(尾張藩当主)、堀内健介(元外務次官)、川上丈太郎(社会党委員長)など、そうそうたるメンバーを集めました。その中から実働部隊として「世界連邦建設同盟」(現在は「世界連邦運動協会」)が立ち上がります。この支部が瞬く間に全国に広がります。もちろん民間の運動ですが、自治体の参加も増えます。真っ先に手を挙げたのが京都の綾部市でした。今も世界連邦自治体協議会の本部がここにあります。綾部市は、大本教とグンゼの町です。戦前は生糸の産地で、その社長が波多野鶴吉というクリスチャンで、農家の娘たちを女工として雇い、お父さんに出資してもらい配当するというキリスト教信仰に基づく、協同組合的株式会社を作りました。大本教は「世界は一つだ」と言って戦前に弾圧を受けました。そういう土地で第一号の世界連邦都市が生まれたのです。多くの自治体で世界連邦宣言が相次ぎました。世界連邦ができた時は、日本を離脱してそちらへ行く、今では信じられませんが、そんな運動が燎原の火の如く広がえりました。

 賀川豊彦は世界の運動の副会長も務めていました。ジョン・モット、ボイド・オア、シュバイツアーなど一緒に運動をしていた欧米の運動家は相次いでノーベル平和賞を受賞しています。賀川もまた平和賞の候補に何度かノミネートされています。

 世界連邦運動

大戦の反省から、世界国家をつくろうという機運は欧米でも高まります。シカゴ大学ではハッチンソン総長が世界連邦憲法試案をつくります。大戦後に誕生した国際連合では安全保障理事会の五カ国が拒否権を持っていて、一国でも反対すると物事が決まりません。しかし世界連邦の構想では一国一票、大国も小国も一票の権利があります。世界警察という組織も創ろうとしました。警察は国内の組織。国外と戦うのは軍隊。世界が一つになったら、軍隊は要りません。戦う相手がいないのだから。警察がいればいい。今回のガザ・イスラエル戦争であれば、警察が取り調べて、裁判にかけ、どちらが正しかったのかと判決を出す。賀川はそういう世界国家を作りたかったのです。

ヨーロッパでは、フランスとドイツの国境にあるアルザス=ロレーヌの石炭と鉄の管理を国際機関に委ねる欧州鉄鋼石炭共同体が生まれます。この地域をめぐってフランスとドイツは一〇〇年以上にわたり戦争を繰り返してきました。フランスの有名な映画で「最後の授業」があります。主人公のフランス人の先生が「フランス語での授業は今日で最後です。明日からドイツ語となります」という場面が象徴的です。しかし、この映画はフランス人が撮影したもので、歴史的には数十年前には真逆の現象が起きていたことが容易に想像できましょう。

フランスのロベール・シューマン外相が突如、フランスが再占領することはないと宣言し、世界を驚かせます。紛争の種となっていた地域の管理を国際機関に委ねようと提案したのです。今の欧州連合(EU)の起点となる出来事でした。

シューマンといえば、音楽家のロベルト・シューマンを思い起こすでしょう。ドイツ系の苗字です。ロベール・シューマンはルクセンブルグの出身で、ドイツで学び、その後、フランス政界で活動を始めます。日本でいえば、韓国系の日本人が日本の首相になる。そんなこと想像できますでしょうか。

賀川豊彦はその意義について気がつきました。賀川はアジアでも同じようなことができないか考え、世界連邦アジア大会を招集します。第一回目は広島で開かれます。まだ、多くの国々が独立を達成していない時期でした。後にマラヤ連邦の首相になるラーマン氏も参加しています。

みんな兄弟という思想

賀川豊彦は一九〇九年、神戸のスラムに貧しい人々と寄り添いながら、彼らを支える各種の運動を立ち上げています。労働運動、協同組合運動は賀川の呼びかけで始まったといって間違いないでしょう。「死線を越えて」の出版でも賀川は人々に知られる存在となりましたが、欧米から日本に来ていた宣教師たちによって、賀川の存在は世界的に広がっていきます。世界恐慌後の経済再生のため、資本主義でも共産主義でもない協同組合運動による再生を目指していた賀川はアメリカで協同組合運動の拡大を進めるよう依頼されます。国務省からです。半年にわたりアメリカ各地で講演します。最後にニューヨーク州のロチェスター大学での連続講演は「Brotherhood Economy」というタイトルで出版され、各国語に翻訳されます。十数年前、『友愛の政治経済学』のタイトルでようやく日本語で出版されました。この書籍は世界で争いごとがなくなるよう貿易システムも変えていかなければならないと主張しています。欧米の政治家や知識人の知恵の肥やしになった可能性もあるぐらいです。

  彼の『友愛の政治経済学』(『Brotherhood Economics』の邦題)の「ブラザー」はみんな兄弟」というキリスト教の考えであり、これは賀川の平和論でもあります。戦争の要因は、資源の奪い合い、貿易の不均衡、人種間の抗争などいろいろありますが、大きな要因は経済だと賀川は考え、経済を変えれば戦争は減るのだ、戦争が起きない社会(世界)のシステムを作らなければいけないとの強い信念がありました。

 三人のロバートとの出会い

 二〇年ほど前、国際平和協会の理事の一人がスコットランドのグラスゴーで「賀川、賀川」いっている牧師がいるという話を持ち込んできました。戦前の賀川を知っている数少ないイギリス人だと思い、思い切って休暇を取って会いに行きました。ロバート・アームストロングという牧師でした。少年時代に家にあった「Kagawa」という 英語の本を読んで賀川のスラムでの献身に感動し、牧師になろうと決意したそうです。戦争中で適性国の人物を敬うことは難しかったが、賀川は特別だったそうです。

 その牧師は「昨日来ればよかったのに、グラスゴー大学で賀川に関するシンポジウムを開きました」というのです。一番興味深かったのはシンポジウムに参加した元看護婦の話でした。

「病院の庭で草ひきをしていた時に、ドクター・カガワが現れて祝福してくれたのです。そしてやさしく握手してくれました。ありがたくて、私はしばらくその手を洗うことができませんでした」

戦前、戦後、賀川は二度グラスゴーを訪ねています。いくつかの古い新聞記事もみせてもらいました。「Kagawa is back in Glasow」というような見出しもありました。賀川はイギリスやスコットランドでも聖者だったのです。そのころ、「Three Trumpet Sounds」というアメリカのハンターの書いた本があることも知りませんでしたから、驚きの連続です。賀川にますます傾倒することになりました。

 アポイントも取らずに飛行機に乗ったので、一週間の余裕がありましたが、幸いに初日にインタビューがかない、放心状態でグラスゴー大学近くのパブに入りました。元サントリーのウイスキーのブレンダーをしていた日本人がいて、賀川豊彦のことで話し込みました。「ニューラナークへ行くべきです。グラスゴーから電車で一時間です」。

ニューラナークはロバート・オーエンが最初に繊維工場をつくったところです。オーエンは労働者にとっての理想郷を目指します。当時の商人たちは庶民の無知にかこつけてあこぎな商売をしていました。オーエンは工場内に店舗を設けました。共同購買により安く仕入れて安く販売する店でした。お陰で賃金は同じでも生活費を低く抑えることができ、労働者たちは喜びます。次いで学校を作ります。当時、子供は貴重な労働力でした。十二歳以下の子どもの労働を禁止し、学校に通わせました。子どもたちを預かってくれる場所ができたので親たちは安心して労働にいそしむことができるようになりました。

マンチェスター郊外のロッチデールで一八五〇年ごろ始まったとされるコーポラティブ(協同組合運動)の原型はオーエンの手ですでにニューラナークの繊維工場で始まっていたことを知りました。

翌日はエアーシャーへ行きました。スコットランドの著名な吟遊詩人、ロバート・バーンズの生誕地です。蛍の光、故郷の空などの作詞者です。バーンズの面白さは詩「タモシャンター」(Tam o’ Shanter)にあります。主人公のタムが馬にのって家路を急いでいると、なにやら楽しそうな場所に出くわします。カティサーク(シュミーズ)をまとった女性にとりつかれ時間を過ごすうちに、彼女たちは本性を現します。魔女だったのです。タムは馬に乗って逃げ、魔女たちは空を飛んで追いかけます。タムはかろうじて逃げのびたという物語です。

当時、イギリスの東洋貿易は中国のお茶が主力でした。一番茶を競って帆船で運びました。空飛ぶ魔女の速さにちなんで帆船の名称を「カティサーク」と名付けたのです。船先にシュミーズ姿のなまめかしい魔女の彫刻が飾られています。今も「カティサーク」は当時のまま、テームズ川の港に係留され、ロンドンっ子に親しまれています。ウィスキーの名称となるのは二〇世紀になってからのことです。