明治初期、維新に貢献のあった大村益次郎(兵部太輔)、横井小楠(参与、制度局判事)、廣澤真臣(参議)、民部大輔)が相次いで暗殺された。征韓論の後、岩倉具視(右大臣)もまた刺客に狙われ、暗殺未遂。そして、参議の前原一誠(萩の乱)、江藤新平(佐賀の乱)の首謀者として処刑された。西南の役では西郷隆盛が自害した。その後、権力の頂点にあった大久保利通(参議、初代内務卿)も暗殺された。自由民権の板垣退助は遊説中、岐阜で切り付けられ、大隈重信もまた暗殺未遂に見舞われた。最後に伊藤博文もハルピンで暗殺された。幕末維新はまさに血塗られた時代であった。新しい時代とはいえ、明治政府に治安維持の準備もなかった。明治2年、兵部省が設立され、4年に陸海軍が設立された。警視庁がようやく設立されたのは明治7年だった。明治4年に廃藩置県が行われ、知藩事だった藩主に代わって官選知事が相次いで任命されたが、赴任に当たって心もとない思いだっただろうと推測する。つまり、東京に大日本国政府があってもまだ国家の体をなしていなかったはずだ。

民権派が「有志専制」を揶揄した内閣(参議制)は征韓論で西郷隆盛、江藤新平、副島種臣、板垣退助、後藤象二郎が下野し、まもなく木戸も参議を辞任する。内閣で残ったのは三条実美(太政大臣)、岩倉具視(右大臣)、大久保利通、大木喬任。事実上、大久保利通と大隈重信の「専制」となっていた。

西南の役は明治10年2月、薩摩軍1万3000人による上京が引き金となった。政府は反乱と位置づけ、熊本を通過しようとした薩摩軍と戦闘状態になった。西郷隆盛は征韓論に敗れて薩摩に蟄居、士族を中心に私学校をつくり、薩摩は事実上、独立国家の体を成していた。明治9年の秩禄処分後も薩摩だけはまだコメで禄を受け取っていた。秩禄処分では神風連の乱、萩の乱など士族反乱が相次き、西南の役では肥後勢も立ち上がった。その中心に宮崎四兄弟の民権論者の八郎がいた。

明治維新で政府は旧天領および旗本領などを没収したものの、全国3000万石のうち800万石を確保したのみで、残りの2200万石は各藩が確保したままであった。僕たちが歴史で習った多くの制度改革はすぐさま実施されたわけではなかったのだ。明治維新はその後「内乱」状態にあったといっていいかもしれない。そして最後の内乱は西南の役となり、西郷隆盛亡き後、大久保利通も暗殺された。維新の功臣のうち残ったのが、自由民権の旗を振った板垣退助一人となった。板垣の自由民権運動に国内の牛耳が集まったとしても不思議はない。