明治時代の自由民権運動にとって、新聞の役割は欠かせなかった。多くの新聞が発行され、発禁になる。そんな繰り返し続いた。初期の新聞は当然ながら政治新聞だった。権力に対して異論をとなえるのが新聞の役割だった。横暴な権力に対して新聞が辛辣な批評を加えるたびに、市民は溜飲を下げたのだった。民主主義が台頭して、新聞の役割はますます大きなものになった。
 だからメディアが反権力なのは当然なのである。反権力でない新聞は誰も見向きもしなくなる。明治時代に政治新聞が発展して、権力側のスキャンダルが掲載されるようになり、ますます市民の新聞に対する期待は大きくなった。その象徴が黒岩涙香の萬朝報だった。
 黒岩涙香は現在の安芸市出身。16歳で大阪に出て中之島専門学校(後の大阪英語学校)に学び、翌年、上京して成立学舎や慶應義塾に進学。大阪時代から新聞への投書を始め、自由民権運動に携わり、『同盟改進新聞』や『日本たいむす』で記者を経験、1882年に創刊された『絵入自由新聞』に入社。2年後に主筆となり、後に翻案小説に取り組むようになる。『今日新聞』(後の『都新聞』)に連載した翻案小説『法廷の美人』がヒットして、たちまち翻案小説スターとなった。1889年、『都新聞』の主筆。1892年に朝報社を設立し、『萬朝報(よろずちょうほう)』を創刊した。政治家や経済人のゴシップ記事が評判を呼び、社会面が「三面記事」と呼ばれるようになった。一時期、東京で発行部数トップになる。日露戦争に対して、内村鑑三や幸徳秋水らは反戦論を展開したが、開戦が迫り、好戦的な記事を掲載する新聞が発行部数を増やし始め、萬朝報は急激に発行部数を落としていった。

 僕はメディアは市民のエンターテインメントのひとつではないかと考えるようになった。もちろん権力の横暴に対抗しなければならないという使命感もあったが、観察していると、実はメディアは読者に迎合する傾向が多分にあるのではないかと考え始めた。その典型がスポーツ紙に現れている。読者が新聞を読むのはある意味「憂さ晴らし」のひとつではだろうかということである。
 読者は新聞を読んで「そうだ、そうだ」と同感したいのである。だから平和時には権力をたたく新聞に溜飲を下げ、戦争時には好戦的な新聞記事にある種の快感を抱くのである。
長い記者生活を通じて、役人や企業家など取材先から「新聞がもっと正論を書いて下さいよ」など、どれほどメディアに対する期待感を求められたか、知らない。実はこの人たちもまた記事を読んで溜飲を下げたいのである。
 ただ役人や企業家は恵まれた地位にある人たちである。「溜飲を下げる」という表現は恵まれた人たちより、どちらかといえば、普段虐げられている人たちのためにあるのだと思っている。この人たちが溜飲を下げる記事は決して、多くの新聞読者の快感を抱く記事とならないのである。
 その昔、企業に広報という部門がなかった時代があった。ひどいところは広告部の中に広報があったりした。広告と広報の違いも分からずに記者に対応していたのである。かつての共産党の赤旗や創価学会の聖教新聞は正しくは新聞ではない。広告紙である。広告紙と新聞の違いはどっちに向いているかの違いである。
 安倍政権になって、権力のメディアに対する露骨な圧力が強まっているといわれている。新聞が政府の広告紙になるのだったら、新聞はいらない。不必要ということになる。読者がわざわざお金を払って購読する価値はなくなる。だからと言って、新聞がいつも正義だとは限らない。すでに述べたように読者におもねるエン ターテインメントを割り切れば、わかりやすいとおもうのだが。