江戸時代の国といえば、藩のことだった。近代的意味合いの国家という概念はなかった。四方を海に囲まれていたため、国境という観念もなかった。ヨーロッパでもフランス革命まではルイ王朝はあったが、フランスという国家はなかし、フランス国民もいなかった。それが市民革命によって市民たちの中に国民的意識が芽生えた。革命軍がルイ王朝の支配する領土を継承することになった。革命は混乱を極めたが、ナポレオンによってフランスは統合された。ナポレオンはその余勢をかってヨーロッパ各地を侵略したが、最終的にロシアに敗れ、敗走した。ナポレオン後のヨーロッパは1825年のウイーン会議で「国境が画定」した。近代国家の始まりである。お互いに条約をもって互いの存在を認め合ったということである。
 アメリカは特別な国である。東部13州を支配していたイギリス国王に対して、13州の市民が立ち上がり、戦争に勝利して連邦国家をつくった。1784年のパリ条約でイギリスは正式にアメリカの独立を認め、ミシッシピー川以東がアメリカ領となった。つまり、宗主国が承認したことによって「国家」となった。
 幕末の日本が危機感を持ったのは、ヨーロッパ勢の東進だった。開国を迫ったのはアメリカだったが、アヘン戦争以降のイギリスによる中国侵略や北方からのロシアからの進出には幕府も異常な警戒心を持っていた。列強との交渉で難航したのは国境の画定である。アメリカ系住民が居住していた小笠原諸島を日本領として認めさせたのは幸運だった。ロシアとの交渉では千島列島と樺太が焦点だった。特命全権公使として榎本武揚をモスクワにおくり、明治8年(1875)「樺太・千島交換条約」を結んだ。日本は樺太の権利一切を放棄するかわりに、それまでロシア領であった千島列島、すなわちウルップ島以北の18島を領有するという内容だった。アイヌ系が多く住んでいた樺太を失ったことは大きな損失だったはずだ。
 つまり国とは国境のことなのである。今も日本は北方四島を固有の領土と主張しており、尖閣諸島をめぐっては中国・台湾と領有権問題が続いている。ヨーロッパではウイーン会議以降も国境をめぐる戦争が相次ぎ、旧ユーゴスラビア解体後も紛争が続いている。ロシアによるウクライナ侵攻もまた国境紛争の一つといっていい。
 ヨーロッパではフランス革命の前夜、啓蒙思想家たちが数多く輩出し、社会の在り方や物事の道理などについて考えあぐね、あまたの書籍を残した。革命が必要である根拠が生まれた。支配される側が初めて自己主張を始めたといっていい。幕末の日本では水戸学などが幕藩体制を批判する側に立ったが、あくまで支配する側の論理に終わり、町民たちが政治に関与するような発想には到らなかった。新しい国家づくりには西洋の最新の政治思想が不可欠だった。ミルの「自由之理」などは格好の教科書だったといっていい。堰を切ったように西洋の政治思想を導入され、薩長閥による独断政治からの脱却を求める人々はむさぼるように西洋の文物を吸収した。
 司馬遼太郎に言わせれば「国のかたち」の模索である。民選議院開設の建白書にはその粋が凝縮されている。やがて植木枝盛によって「大日本国国憲按」という憲法草案にまとめられ、「国のかたち」の理想にたどり着く。