ジョン・スチュワート・ミルが書いた「自由之理」(On Liberty)は自由民権活動家のバイブル的存在だった。幕府の昌平黌出身の中村敬宇が明治5年に翻訳出版したもの。「統治者たちの権力が自分たちの利益に対立し自分たちとは無関係に成立しているのは、本質的に避けられないことだ、と人々が考えなくなる時代が到来した」「選挙でえらばれる期間限定の支配者という、この新しい要求は、徐々に、民主政志向の政党が存在しているところではどこでも、そうした政党の主要な活動目標となり、支配者の権力の制限というそれまでの努力に取って変わるようになった」。こんな表現が目からうろこのように映ったのだろうと想像できる。明治6年、これを読んだ河野広中にとって、これまでの漢学や国学によって培われた思想が「木っ端みじんの如く打壊かるると同時に、人の自由、人の権利の重んず可きを知った」のだった。民権論者たちは「自由之理」とともに「西国立志編」「西洋品行論」の三冊を官吏と教育社で読むことができなければ「その資格に欠くる処有るものの如き観あり」といわれたほどであった。

 果たして板垣退助がこの本を読んだか分からないが、内容は知っていたはずだ。明治の自由民権運動の発端は明示的だった。征韓論政争に敗れ下野した板垣や江藤新平らは2カ月後の明治7年1月には政治結社「愛国公党」を設立、「民撰議院設立建白書」を政府に提出した。署名者8人のうち高知県出身が4人もいた。征韓論という武断政治から自由民権へと政治姿勢が鮮やかに180度転換する。自由への渇望という思想的転換が沸騰するのだ。建白書に署名した江藤新平は翌2月、佐賀の乱に巻き込まれ処刑される。

それにしても、幕末から明治期にかけての日本の知識人たちによる新知識に対する学びには言葉に尽くせない渇望感がある。ビクトリア朝中期のイギリスから日本に打ち寄せた思想の流れの中心は、19世紀初めからの自由主義・急進主義だった。日本での翻訳書は、 時にはイギリスよりも広く、民衆に受け入れられ、自由民権運動につながった。それを可能にしたのは、当時の日本での印刷出版技術、理解能力など社会的条件が熟していたことを示しているのではないだろうか。