中江兆民の「三酔人経綸問答」を読み返した。大酒飲みの南海先生のところに、西洋紳士君と豪傑君がやってきて、三人で日本の将来を語り合う異色の作品だ。国会開設の前夜、明治20年に出版された。難しい哲学書や政治書と違って、読みやすいし、今こんな議論があってもおかしくないほどの内容となっている。中江兆民はそれまで東洋自由新聞を創設するなど基本的に思索家だった。この本の出版をきっかけに明治23年の総選挙に出馬し、当選するなど行動の人と変質する。

 文明の進歩に遅れた一小国が、昂然としてアジアの端っこから立ち上がり、一挙に自由、博愛の境地にとびこみ、要塞を破壊し、大砲を鋳つぶし、軍艦を商船にし、兵卒を人民にし、一心に道徳の学問をきわめ、工業の技術を研究し、純粋に哲学の子となったあかつきには、文明だとうぬぼれているヨーロッパ諸国の人々は、はたして心に恥じいらないでいられるでしょうか。もし彼らが頑迷凶悪で、心に恥じいらないだけでなく、こちらが身に寸鉄を帯びず、一発の弾丸をも持たずに、礼儀ただしく迎えたならば、彼らはいったいどうするでしょうか。剣をふるって風を斬れば、剣がいかに鋭くても、ふうわりとした風はどうにもならない。私たちは風になろうではありませんか。

 弱小国が兄弟国と交わるさいに、相手の万分の一にも足りない有形の腕力をふるうのは、まるで卵を岩にぶっつけるようなものです。相手は文明にうのぼれています。してみれば彼らに、文明の本質である同義の心がないはずはないのです。それなら小国のわれわれは、彼らが心にあこがれながらも実践できないでいる無形の道義というものを、なぜこちらの軍備としないのでですか。自由を軍隊とし、艦隊とし、平等を要塞にし、博愛を剣とし、大砲とするならば、敵するものが天下にありましょうか。もし、そうはしないで、こちらがもっぱら要塞をたのみ、剣と大砲をたのみ、軍勢をたのむならば、相手もまたその要塞をたのみ、その剣と大砲をたのみ、軍勢をたのむから、要塞の堅固な方、剣や大砲の鋭利な方、軍勢の多い方が必ず勝つだけのこと。・・・かりに万一、相手が軍隊をひきいてやってきて、わが国を占領したとしましょう。土地は共有物です。彼らもおり、われわれもおる、彼らもとどまり、われわれもとどまる。それでどんな矛盾がありましょう。彼らが万一、われわれの田を奪って耕し、われわれの家を奪って入り、または銃声によってわれわれを苦しめるとしてみましょう。忍耐力に富むものは、忍耐すればよろしい、忍耐力に乏しいものは、それぞれ自分で対策を考え出すまでのことです。きょう甲の国かにいるから、甲国人なのですが、あした乙の国に住めば、こんどは乙国人ということになるまでのはなし、最後の大破壊の日がまだ来ず、わが人類の故郷たる地球がまだ生きているかぎりは、世界万国、みなわれわれの宅地ではないでしょうか。