先週、高知城歴史博物館で、「自由民権運動のなかの土佐派」という講演があった。慶応大学准教授の松沢裕作氏の話が面白かった。そのまま著書「自由民権運動」を読んだ。自由民権を「明治政府を揺るがした未曽有の国民運動」ととらえ、その発信地が土佐だった理由に言及していた。

 明治11年6月、立志社の板垣退助や植木枝盛らは土佐州会を設立した。大区ごとに1500人に一人の議員を選出した。「高知県会」でないのは明治9年に徳島県(当時名東県)が高知県に編入されていて、徳島側で選挙が行われなかったためである。土佐州会がどんな議会だったかは詳細には分からないが、いわば、民間人が勝手連的に設立した議会である。中央政府によって任命された知事が県民の意思とは関係なく、独断で政治を行っていたことへの怒りが土佐州会の設立に結び付いたはずだ。この議会は高知県が管理する「授産金」の引き渡しを求めた。授産金はもともと貧民対策の予算であったが、産業資金に転用されていた。立志社は明治7年の設立間もなくから、この資金を県からもらって士族の生計維持のために活用していた経緯がある。土佐国州会の設立直後に政府は地方三法を発布し、地方に議会をつくる方針を示した。議会の権限が予算案の審議だけで、議会が拒否しても知事権限で執行できるという自治とはほど遠い存在だった。しかも被選挙権は地租の納入者に限られていた。これでは士族には立候補する資格がない。当然、州会と知事部局は対立した。立志社は政府に対して「府県会規則」の改正を求めた。結局、その年の11月、州会は解散を求められた。名称を変更して存続を図ったが、これも解散させられた。面白いのは、地方自治をめぐって、政府と立志社はまっこうから対立していたことである。そもそも立志社は、明治政府に対しては「有司専制」であると批判し、国会の設立を要求していた。立志社を中心に設立した国会期成同盟は国会開設が認められないのであれば、私設国会を設立することを決める。明治政府が国権をふるう権限がないのだから、自ら議会を作ってしまおうという革命的考えである。そんな考えを全国的に拡大させていた時期であるから、対立するのは当然だった。板垣退助らの思想がいまでもなお通用するのは、暴力でなく、言論に立脚した革命だったからである。