マックス・ウェーバーの「職業としての政治」を読んだ。難しい本だったので、姜尚中(カン・サンジュン)氏に解説してもらおうと思う。共同通信の連載「政治の器量」で4年前、山本太郎と対談している。この本は、第一次大戦に負けたドイツが疲弊して、苦境を打破してくれる英雄待望論が国民の間に持ち上がっている時に、若い人たちに「政治はそんな簡単なものではない」と教えたものだった。ウェーバーは「不可能事を目指して強くアタックする」のが指導者だと言っている。また政治家の鍛錬の場は委員会だと説いている。そして官僚を重視している。ウェーバーは政治家は結果に責任を持つ「責任倫理」が重要だと教えている。「自分の行為の責任を自分一人で負うこと」が、政治指導者の「名誉」だとさえ言っている。ウェーバーの主張の中で誤解されやすい部分が、民主主義とデマゴーグは切り離せないというとこころだ。デマゴーグは「煽動家」になってしまうが、民主主義である以上、何らかの形でデマゴーグ的なものを持たざるを得ない。演説を通じて影響を与えて行くという意味で、ポピュリズムも、本来はいい意味でも悪い意味でもなかった。ポピュリズムの中に、大衆のために、しかし大衆に抗してという側面もある。

 ウェーバーは近代以前の国家は、暴力を背景とした「人間の人間に対する支配関係」だったとし、近代になって、民主主義が導入されても、「近代国家は、その域内において、正当な物理的暴力行使の独占に成功した集権的な支配団体である」と規定し、政治における「暴力」を完全否定していない。過去の歴史を見ても「自由」を得るために権力奪取のための暴力革命が繰り返された。平和のために戦争をするのと同じ理屈であろう。そのうえで「物的にも心的にも一義的に政治で生きている『職業政治家』がいる。職業として政治を行うとは、『政治によって生きる』方法と『政治のために生きる』方法の二つがある。両者の違いは、前者が政治を恒常的な収入源にしている者であるのに対して、後者はそうでない者という点にある。今の自民党議員はほとんどが前者の範疇の政治家であろう。

 ウェーバーは「どういう政治をなるべきか」については一切、言及していない。政治家の資質を問うているのだ。責任倫理と信条倫理への貢献を併せ持つ人間こそが、政治家を天職とする資格があると喝破する。それは倫理的非合理性に挫けない堅い意思に基づくものである。つまり政治が持つ非合理性を縷々繰り返しながら「それにも関わらず」と講話を締めくくっている。分かったようで分からないというのが今日の感想である。