「自由は土佐の山間より出ず」と書いたのは植木枝盛。もう一つ「東洋大日本国国憲按」を24歳にして書き上げ、憲政史上にその名を残した。11歳から致道館に通い、17歳で東京の海南私学で学んだ。板垣退助らが愛国公党を結成、民選議院設立建言を政府に提出したのが、明治7年。板垣はただちに帰高して立志社を設立。植木はその演説会に参加してから、政治家としての道を歩むようになる。明治8年、再び東京に遊学、福沢諭吉らが開く演説会に度々参加して民権意識を高めた。明治9年2月には、郵便報知新聞に「猿人君主」を投稿、初めての記事が新聞紙条例に違反したとして禁獄2カ月の刑に処せられた。出獄後の6月、湖海新報に「自由は鮮血を以て買わざる可からざる論」を書いた。翌10年、西南の役が起き、板垣退助に誘われ帰高、書生となる。『無天雑録』を執筆し始める。立志社に参加し、立志社建白書を起草。立志社が発刊した「海南新報」と「土陽雑誌」の編集・執筆にあたる。その創刊号に掲載されたのが「自由は土佐・・・」だった。この2冊は、自由民権運動が土佐から全国に伝播する媒体となった点で再評価されるべきであろう。明治11年、この雑誌は合併して土陽新聞と命名された。これらに掲載された論文は後に「あたかも革命の檄文の如く志士の精神を鼓舞し、自由主義を全国に伝播するにあたって大いに力ありき」と評された。植木の過激な文章が立憲運動推進の力になったという点で革命のデマゴーグだったと言っても過言でない。植木らが企画した演説会も広がりを見せ、その内容は「土佐の名物」として東京・大阪の新聞を賑わしたとされる。

 西南の役の最中、片岡健吉が京都滞在中の天皇に対して提出した「立志社建白書」は天皇に8項目の政府失政と国会開設を直訴する内容だった。片岡の名で提出したが、草稿は植木によるものだった。曲折の後、受理されなかったが、立志社はこれを印刷し、全国に配布した。自由民権運動の出発点ともなる文章で、「土佐は民権のエルサレム」ともいわれ、全国の志士たちが続々土佐にやってきた。