共同通信社ニュースセンター整理部長 伴武澄 2011.3.3

 全農が手がけた農村時計
 雪印が酪農協同組合からスタートした企業であることは意外と知られていない。古い牛乳を混入した事件をきっかけに同社は創業の原点に立ち戻るべく「三愛主義」を再生のスタートのスローガンに掲げた。「人を愛し、土を愛し、神を愛する」というデンマークのグルントヴィの教えである。創業者の黒澤酉蔵は茨城県の出身だが、曲折を経て北海道の大地に生きる決意をしてかの地に渡り乳業王国を打ち立てた。ほぼ同世代で黒澤の理解者だった賀川豊彦もまた農村に産業を育成することが夢だった。
 戦後まもなく賀川は埼玉県桜井村(当時)にあった陸軍工廠を借り受けて「農村時計製作所」を設立した。スイスの時計産業が賀川の目標だった。東洋のスイスを夢みて、「農村に精密工業を! 時計工業を!」が合言葉となった。賀川の夢に手を差し伸べたのが全国農業会(現在の農協中央会、全購連、全販連、共済連)だった。
 時計工場と技術者養成機関「農村時計技術講習所」を設立した。資本金は350万円。全農が8割、社長が1割、大倉系の中央工業も1割を出資した。会長には、全農会長、柳川宗左衛門、賀川は相談役になった。講習所長は服部の技術者、古川源一郎が就任した。
 19万坪の工場敷地には2万坪の工場建屋と2000台の工作機械がすでにあった。同年3月28日、従業員1500人で月産3万個の目覚まし時計製造を目標にスタートした。約半年後の8月に第1号の3・5インチの目覚まし10個が完成した。みんな抱き合って喜んだが、売れなかった。バリカン、電気開閉器にも手を出したが満足できるものはできなかった。1年足らずで3000万円の損失が出た。
 そこへ大口出資者の全農に対する解散命令が出て、農村時計は満身創痍。経営は全農の農村工業部長に就任したばかりの谷碧(たに・きよし=後のリズム時計社長)に任され、なんとか生き残った。
 農村時計は主に目覚まし時計を生産しブランドは「Rhythm」だった。一時期、インド、パキスタン、シンガポール、メキシコ、バンコックなどにも輸出していたというから驚きである。
 苦難の連続だった農村時計は設立4年半で遂に行き詰まり、昭和25年11月3日に発足した新会社「リズム時計工業株式会社」に継承され、シチズンが大株主となった。

 上伊那の龍水時計
 賀川は農村改革のため、立体農業を推進したが、一方で農家の次男、三男が現金収入を得る場として「農村工業」が不可欠だと考えていた。そのころの工場はすべて都市部に集中し、農村から都市に労働力が流れる結果、スラムが増殖していた。
 賀川は長年スラムに住み付き、貧しい人々の生活ぶりを見ていたから、その実態をつぶさに知っていた。農村に工場ができれば、彼らは都市に流れ出てスラムに住む必要はない。賀川にとって、農村工業という概念はスラム街の防貧対策のひとつでもあった。
 時計技術講習所の第一期の入学生は昭和21年4月から桜井村に集まった。講習所には長野県の青年が多く、卒業生によって千曲川時計、龍水時計という二つの時計メーカーが生まれた。千曲川は長くは続かなかったが、龍水時計は上伊那で雄々しく立ち上がった。
 時計技術講習所の第一期生だった北伊那の辰野町の野沢和敏さんに取材したことがある。北伊那の農協は龍水社といって、製糸工場も経営していた。賀川豊彦の影響を受けていた当時の北原金平社長は本気で時計製造に乗り出す覚悟でいたらしい。野沢さんらが研修を終えて帰郷すると養蚕の建物の一角が「時計工場」としてあてがわれ、昭和23年11月、時計づくりが始まった。
 素人軍団が2年、時計づくりを学び、さっそく生産に取り掛かるのだから、夢多きスタートといっていい。野沢さんによれば「工業高校を出たのは僕だけだったから、僕がリーダーになった。工場長のようなものだった」。生産の準備を段取りする一方で、掛け時計の「設計」が続けられた。部品づくりのため近隣に10の工場が立ち上がった。
 時計の部品をつくるため、伸銅が必要だった。銅がないので高射砲の薬莢を「くず屋」から買ってきた。これを近くの伸銅工場に持っていって「銅板」にしてもらった。機械類は桜井の工場からの払い下げが主で足りない分は東京で調達した。すべてが手作りだった。
「講習所の先生たちは東大の先生だったり、精工舎の元技術者たちだったから、講義のレベルは相当高かった」
 「時計はできた。動くには動いたが、日常的使用には耐えられなかった。北原さんには『故障する時計は売るな』と厳命された。だから商品になるのに結局2年もかかった」
 昭和30年には龍水時計の生産した掛け時計が通産大臣賞に輝いた。賀川はこれをクアラルンプールで開かれた「東南アジア協同組合会議」にまで持って行き、「これは日本の農民がつくりあげた時計だ!」と演説して廻った。
 そんな龍水時計の試行錯誤が20年以上続いた後、龍水時計はリズム時計の傘下に入った。経営が悪化したからではない。海外進出を図ろうとしたが、北伊那には人材が不足していたからだった。

 立体農業と高崎ハム
 賀川豊彦が関連した農村工業でもう一つ忘れられないのが高崎ハム。つい最近まで協同組合経営だった。高崎ハムのホームページには誇らしげに1938年の設立の背景を書いている。
「昭和初期の大不況で荒れていた農村の更生に、農業の多角化も奨励されていました。そのような背景の中、農民たちが相諮ってつくり上げたのが『高崎ハム』でした。高崎ハムは、わが国唯一の農民資本による食肉加工メーカーとして、創業以来、終始一貫して農民の意志により運営され、業界内の全国有数の企業にも劣らない組織として成長してきました」
 当時、群馬郡農会長だった竹腰徳蔵は生産者による畜産加工を考え、御殿場で農民福音学校を経営していた賀川豊彦に頼った。この学校は高根学園といい、デンマークの農民福音学校(ホイスコーレ)に学んで経営していた。賀川は社会運動家であるだけでなく農村復興のために「立体農業」を推奨していた。アメリカの農学者ラッセル・スミス教授が提唱したもので、1933年にはその著作を『立体農業の研究』(恒生社)として翻訳していた。
 賀川の立体農業は独特だった。地球上の1割5分しかない平地にしがみついていたらやがて食料が不足する。米麦穀物は中心にするが、残り8割5分を立体的、つまり山に依存すべきだと主張した。つまり、シイタケを育て、クリやクルミを植え、ヤギやヒツジを飼って乳をとる。農閑期の田んぼではコイなど淡水魚を飼えば農村経済は相当に充実するという。いまでも通用するかもしれない“理論”だった。
 賀川を支えたのは藤崎盛一。東京農大出身で賀川の信奉者のひとりだった。岐阜県からシイタケ栽培の専門家を招き、シイタケ栽培で成果を上げ、ハクサイの栽培にも成功した。生徒だった勝俣敏雄と滝口良策を長野に派遣して各地でクルミとアンズ、クリなどの栽培を学ばせる一方、土づくりにも励み、倉敷の板谷博士が発見したバクテリア「ザザ」による新堆肥の製法を指導、学園内に試験場もつくっていた。
 その実験農場で、養豚・ハム製造を始めていた。高崎ハムの創業が幸運だったのは当時のハム・ソーセージの第一人者だった大木市蔵に学んだ勝俣喜六が派遣されたことであった。製造技術と製品販売についての問題を解決した。高崎ハムは賀川にとっても理想的な農村工業の一つだったに違いない。

 実践に基づく賀川の協同組合
 賀川豊彦の協同組合論は実践に基づくものであった。1919年、関西で労働組合運動を指導しながら、大阪に購買組合共益社を設立。翌年、神戸購買組合、翌々年に灘購買組合(ともに現コープこうべ)が立ち上がった。関東大震災の後は活動を東京に移し、震災後の人々の生活を支えるために本所に江東消費組合、中之郷質庫信用組合をつくり、大学生協も東京で相次いで設立させた。医療にまで協同組合の発想を持ち込み、1932年には医師会の大反対を押し切って東京医療利用購買組合を誕生させた。
 当時、国民的は健康保険制度はなく、公務員と一部鉱山労働者や大規模事業所に働く人々に限られていたが、賀川は来るべき国民健康保険も組合で経営するべきだと運動していた。この運動によって戦後のJA厚生連につながる協同組合医療が農村部で相次いで立ち上がったことは忘れてはならない。
 驚くべきことに、賀川は実に多くの協同組合の設立と運営に携わったのである。それだけでない。協同組合の理論構築においても大きな役割を果たした。
 賀川は保険、生産、販売、信用、共済、利用、消費の7つの協同組合を考え、お互いに連携することで協同組合経済が成り立つと考え、「もう一度ギルドの世界に立ち戻る」ことを提唱した。
 賀川の協同組合論は「ともに生きる」という発想である。一部の資本家によって社会が支配されるのではなく、国家による経営に頼ることも排除したところが興味深い。著書の中で随所に国営になった場合の非効率性を指摘していたことは現在でも示唆に富むところではないかと思っている。
 賀川の真骨頂は1935年、アメリカ政府に招かれ、全米で協同組合論について講演したことである。もちろん基督教原理主義者たちは大いに反カガワキャンペーンを張った。6カ月にわたり、148都市で500回以上の講演を行った。賀川の話を聞いた人は70万人とも80万人ともいわれる。翌年、ニューヨーク州ロチェスター市で行ったラウシェンブッシュ講座での講演は直ちにニューヨークのハーパー社から『ブラザーフッド・エコノミクス』として出版された。大恐慌後の世界経済を立ち直らせる処方箋として話題を呼んだ。この本は世界25カ国で翻訳出版され、国際的にも協同組合の理論家として知名度を上げることとなった。どういうわけか日本語版は出版されず、2009年、賀川豊彦献身100年記念事業の一環としてようやくコープ出版から翻訳された。

 兄弟愛で危機に歯止めを
 振り返ると賀川豊彦の一生は貧困との対決だった。21歳にして神戸市の葺合新川のスラムに飛び込み、日本で一番貧しい人々と生活をともにしながら、貧困の原因を考え、社会改造に何が必要かを模索し続けた。
 スラムで始めたのは一膳飯屋「天国屋」であり、貧しい人々が働く場としての「歯ブラシ工場」だった。また働く人々が怪我をしたり病気になった時に安心して通える「無料診療所」も開設した。いずれも後の多くの協同組合の設立につながる重要な経験だった。
 資本主義に内在する貪欲な体質に批判を向けながら、一方で革命社会主義の暴力性に対しても強い拒否感を持っていた。労働運動で労働者の権利を主張し生活向上を求めたり、農民運動を指導して小作農の救済のために闘いながらも、自ら革命の浸透の防波堤になろうとした。ここらが当時のサンジカリズムと一線を画するところだったが、右翼からはアカとなじられ、左翼からは日和見主義と批判された。だが賀川は人間性に潜む兄弟愛を信じ続けた。
 世界は社会主義の崩壊後、経済が一体化しグローバル・エコノミーの時代に入ったが、2008年のリーマン・ショックを契機に資本主義への反省が始まった。80年前の大恐慌後の世界と似た様相を示している。賀川が協同組合的経営を訴えたのはまさにその時期だったことを思い出す必要があるだろう。
 現在の協同組合は農協は農協、生協は生協として横の連絡が希薄に思われて仕方ない。賀川の理想は生産と販売は一体でなければならなかったし、共済や信用事業が集めた資金は農村時計製作所や高崎ハムのように地域に還元されて人々の営みを支える資本とならなければならなかった。また協同組合があげた収益は出資者である組合員に還元されるだけではなく、地域の教育や病院など社会福祉に役立てるものとされた。
 80年前の「ブラザーフッド・エコノミクス」で賀川は「現在の貧困は貧しさゆえではなく、豊かさゆえに貧困がある」と喝破している。
 賀川豊彦の研究者の一人として自負している筆者にとって2012年の国連協同組合年は賀川スピリットを思い起こさせ、日本から世界に再発信する年であると考えている。
 いま、世界を揺り動かしているのは巨大な余裕資金である。有り余ったマネーが巨利を求めて社会の弱い部分を侵食しているのではないだろうか。そしてそのマネーの一部に協同組合の資金があるのだとしたら本末転倒である。先進各国ではともに財政が疲弊しているのに、民間資金は傍若無人に地球丸を駆け巡る。そんな危機に一定の歯止めをかけられるのが国際的な協同組合の連帯ではなかろうか。国連協同組合年はぜひともそんな議論が巻き起こり、日本の協同組合運動に再び光があたることを期待したい。