1月から、夜学会をもう一度原点に戻って整理したいと考えている。これまで「上質の国でありたい」「国家とは何か」「自由への渇望『自由之理』「三酔人経綸問答」「スイスの直接民主主義」と続けて来た。目指す国家のかたちを示し、新国家を組み立てなおすことを求められた幕末から明治の先覚者たちの未知への挑戦について語り、中江兆民が国会開設直前に現した知識人たちのジレンマを解説した。そして、人民による統治の原点である直接民主主義が色濃く残っているスイスという国家の成り立ちにもメスを入れた。今回は近代国家のモデルとなったアメリカ合衆国の成立について話をしたい。

 この15年ぐらい、憲法とは何なのか考え、自ら勉強するようになった。もともとは改憲論者だったが、学んでいるうちに出会ったのが東大の初代の法学部長になった穂積陳重の『法窓夜話』という本だった。この中に憲法という項目があって、明治初期に「憲法」という表現はなかったと言っている。17条の憲法はあったじゃないかというかもしれないが、近世以降の概念としての憲法はなかった。福沢諭吉は英語で言うConstitutionのことを律令と書いていた。当時、国法、国制、国体、朝網など人によって違う訳語をあてていた。一番多く使われていたのが「国憲」という訳語だった。だから植木枝盛の憲法草案は「大日本国国憲按」と題した。条文の仮名では憲法という表現を使っているが、タイトルはあくまで「国憲」だった。
 これは非常に重要なことで、僕たちがなにげなく使っている憲法という訳語は、明治初期には人口に膾炙されていなかった。
 憲法が正式に決まったのは、伊藤博文がプロシア、オーストリアへ憲法を学びに行った時に「憲法取調」という役職をつけてからのことだった。大日本国憲法制定の5年前のこと。そうなるとそれまではいろいろな訳語を使っていたのではないかと想像するが、そうでもなかった。大学の授業はすべて英語だったから、Constitutionで通っていたはずなのだ。
 穂積氏の本によれば、東大法学部で授業が日本語になったのは明治20年のこと。それまでは政治も経済も、自然科学も英語で教えていた。
 当時の学校ではたぶん以下のようなやりとりがあったのではないかと想像している。
先生「France is now a republic. Not like our country, they do not have a king as a Sovereignty」
学生「先生、そのrepublicというのはなんですか」
先生「日本では歴史始まって以来、天皇がまつりごとの中心におられたが、フランスにはそのような存在はもはやない。つまりpeopleがsovereignというこっちゃ」
学生「ますますわからん。そのSovereigntyとかsovereignとか日本語で説明してください」
先生「それが先生もわからんのじゃ。まつりごとをつかさどるという意味だが、日本にはそういう意味の単語がないのだ。天皇が京都に在位していて、将軍が江戸でまつりごとをつかさどっていた。その将軍が大政奉還して明治の世となった。天皇が復権したいま、ヨーロッパに学んで天皇を中心にどのようなまつりごとの仕組みをつくろうかみなが考えている最中なのだ」
「政治」も「共和」「主権」もいまでは普通の日本語になっているから誰も気付かないが、当時はなんとも説明のしようがなかった。ヨーロッパの概念を一つひとつ日本語で説明する作業は並大抵でない。だから授業はほとんどが英語だった。
 明治日本は数多くの訳語をつくった。共和とか自由とか、もちろん政治や経済もそうだ。2000近い和製漢語が生まれた時代だった。多くは中国の古典から探し出した表現に近世的な意味を与えた。
 数日前、西岡さんのところで夜学会をやって江戸時代の高知のことを学んだが、古い地図に鏡川のことを潮江川と書いてある。そういえば四万十川となるのは1990年代のことだ。それまでは渡川といっていたそうだ。NHKの放映によって、昔から四万十川と呼ばれていたようになっている。長宗我部家のことを書いた『土佐物語』には四万十と書いてあるそうなので、川の名前にも変遷があるということなのだ。
 安芸市の民俗資料館で発見したが、もともと安芸は「安喜」だった。長宗我部元親が安芸国虎を破った時に「安らけく喜ぶ」としたのが、明治時代になって元に戻した。地図を見るまで誰も知らないというのはよろしくない。
 重箱の隅をつつくようなことに思われるかもしれないが、我々が常識と思っている多くの事象は実はあやとない事実の上に構築されているかもしれないということである。
 さて憲法である。近世に初めて憲法が生まれたのはアメリカ合衆国だった。イギリスの植民地だった13州がイギリス国王に反旗を翻した。13州にはそれぞれ総督がいて統治していたが、インド人を統治したのがインド総督だったのに対して、アメリカでは総督はイギリス人を統治していた。例えば薩長連合軍が徳川に反旗を翻して西日本国を樹立するようなものだ。だから、アメリカの独立はインドの独立やベトナムの独立と決定的に意味が違う。
 結果的に13州が勝利するが、その背景に13州を応援したヨーロッパの国々があったからだ。アメリカ独立戦争時のフランスの統治者はルイ王朝だったから、応援したのはフランス市民ではなく、王様だったことを覚えておいて欲しい。自由を求めた13州を支援したのだからおかしな話に聞こえるが、アメリカ独立戦争は実は英仏戦争だったのである。
 面白いことに13州の兵隊は民兵で正式な軍隊ではなかった。その民兵たちの頭領がジョージ・ワシントンだった。独立宣言は1776年。その後、合衆国憲法が生まれるのが1789年。13年にわたり13州の人々はこの国をどうするか議論を続けた。
 イギリスとの戦いに勝利したワシントンは側近たちに「閣下、一刻も早く即位を」と王様になることを求めた。当然であろう。当時、地球上に民主主義などはなかった。だが、ワシントンは拒絶した。13州の人々は王様を戴かない国家をつくることにした。合衆国憲法はそんな13州の約束事を文章にまとめたものだった。Consitituteは構成するといった意味合いである。主権者はもちろん人民(peaple)であるが、最高権力者をPresidentと命名した。プレジデントは聖職者や企業の代表にもつける呼称だったが、政治権力者に命名したのは13州の人々で、いわば大統領が彼らが発明者たちだった。
 Constitutionやpresidentをどう日本語で表現するか悩んだのが100年後の明治の人たちなのである。
 そして明治22年に大日本国憲法が誕生するのだが、僕が一番注目したのは99条「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と書いてあることである。矛盾していると思わないか。憲法を尊重するなら国会議員が憲法改正を口にできなくなる。
 僕が習った憲法は基本的人権、主権在民、戦争放棄の三つの柱で構成されていた。基本的人権や主権在民は合衆国憲法やフランス憲法には載っているが、明治憲法にはない。明治憲法は欽定憲法といって天皇が決めたものだった。だから臣民はこれを守らなければならないという代物だった。
 いま安倍首相が「国民には権利と義務があるが、憲法には権利ばかりが書いてあって義務が書いていない」と改正憲法に国民の義務を多く盛り込む姿勢を示しているが、明治憲法の第99条にあるように、公務員が暴走しないように箍を嵌めるのが憲法なのだ。安倍首相は憲法制定の主旨をまったく理解していないとしかいえない。法律は国民に箍を嵌めるものだが、憲法はベクトルが逆なのだ。法律は上から目線であるのに対して、憲法の建前はしたから目線なのだ。冒頭にConstitutionの日本語訳について長々と説明した意味は全くここにある。
 憲法改正に国民の意思が表明される国民投票が必要なわけもここにある。合衆国憲法の改正は国民投票でなく、州議会の議決が必要となっている点、日本と大いに違う。
 だから、各国の憲法には必ず修正条項があり、日本の場合、国会議員の3分の2の議決を受けた上で国民投票で過半数を必要としている。フランス憲法で面白いのは絶対に修正できない条項がある。人民主権という条項で絶対に王政に戻せない仕組みになっている。
 戦後の日本国憲法にはいくつか決定的矛盾がある。まず第一条に天皇は国の象徴であるとあるが、主権在民の憲法の第一条が天皇というところに大きな矛盾がある。国家の構成を規定するのが憲法だとすると順番が違う。ついで、前文に「国民はこの憲法を確定する」とあるが、われわれは国民投票を経験したことがない。ともに明治憲法の改正条項を基に日本国憲法がつくられたため、大きな矛盾を残すこととなっている。明治憲法73条は「将来此ノ憲法ノ条項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅命ヲ以テ議案ヲ帝国議会ノ議ニ付スヘシ」とある。そして第2項に、3分の2以上の出席を得て、3分の2以上の多数を得なければ改正できないと書かれてある。国民投票の条項がないから、新しくできた民主憲法といっても一度も国民の信託を得ていないのである。問題はここらが議論されたことが一度もないことである。
 改正の手続きに瑕疵はないが、どうもしっくりいかない。だから僕の憲法論は「廃止」なのだ。フランスなどは何回も新しくつくっている。
 ところで、日本では総選挙後、特別国会を召集して、次期首班を指名することが憲法で定められている。国民が選んだ衆院議員の仲から首相を選出するのである。しかし、同じ議院内閣制を取るイギリスでは首班指名はない。総選挙後に形勢が判明した時点でバッキンガム宮殿から選挙に勝利した政党の党首に対して組閣が命じられる。衆院議員の中から首相が選ばれるのではなく、あくまで組閣を命じるのは国王なのだ。憲法がない国だからなんとも言えないが、そういうしきたりとなっている。イギリスの場合、すべてが慣例に従うことになっている。戦前の日本でも組閣を命じるのは天皇の役割だった。
 同じ民主主義国家といえどもそれぞれにやり方が違うことを知っておく必要があろう。アメリカには国王はいないが、大統領選挙後、相手が「負けました」と敗北宣言をした時点で、大統領就任が決まる。2000年の大統領選で民主党のゴアと共和党のブッシュが戦い、最後のフロリダ州の開票まで勝敗が決まらなかった。フロリダ州では票数の数え直しまで行われたが、それでも年明けまで勝敗が分からず、結局、ゴアが敗北宣言をしてブッシュの勝利となった。日本のように選挙管理委員会の最終票決を待つことはない。ここらが世界の民主主義のやり方の面白いところだ。
 アメリカが合衆国憲法をつくってから、多くの国がアメリカに倣って憲法を制定した。ドイツはプロシアを中心とした連邦国をつくった。日本だって考えてみれば、江戸時代は徳川を中心とした連邦国家だった。ただ徳川が強すぎたから、諸国は徳川に従わざるを得なかった。幕府が倒れて、薩長土肥が連邦を形成していれば違う形の国家が生まれていたかもしれないが、薩長は天皇を中心とした国家をつくろうとして、そうなった。植木枝盛が国憲按で連邦制を唱えたのは、そのころまだその可能性が残されていたと考えられなくもない。
 アメリカは13州で建国したが、建国した団体をコングレスといった。今も上院のことをコングレスという。今も昔もコングレスは州一人を選出する。2年ごとに選ぶから、50州で100人の上院議員がいるが、一票の格差は日本の比ではない。ここにアメリカの民主主義の原点があるのだ。もし日本も連邦制的な発想を持てば、例えば参議院は各県一人することだって可能になる。連邦的は発想を持たないと、票は全部東京に持って行かれることになる。はたしてそれで日本という国家の均衡が保たれるのか疑問となる。このまま人口が稀薄になれば四国で一人とかになりかねない。それは冗談ではない。その時はもう遅いかもしれない。