あとがき
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協力隊シリーズの構想を携えて、衛藤瀋吉、鳥羽欽一郎、中根千枝、三浦朱門の四氏が初顔合わせをされたのは、四年前のころであった。それから年に三回から四回は集まって方向や分担のことが話し合われた。もっぱら資料提供の側に立っていた私に、一冊分の下書きをしたらという話が待ち上ったのは、ずっとあとのことである。その一冊は、社団法人協力隊を育てる会の茅誠司会長と中山素平副会長の共署になる予定のものであった。
原稿執筆に取りかかった昨年の八月はもちろんのこと、今年正月の時点でも、私は下書きのつもりで筆を進めていた。ところができあがった下書き原稿を読み終えられた茅会長が、これは君の名で出すべき本だと言い出された。本来ならば茅、中山共著のラインを押して下さるはずの三浦朱門さんまでが、これに同調される。中山副会長の読後感もどうやらおなじ傾向とお見受けした。すでに辞令も出、北京赴任を三週間後に控えた私は狼狽せざるをえなかったが、あれこれ言っている時間のゆとりはない。素直に茅会長の仰せに従うことに決意したのである。
あわただしい中で原稿に必要な加筆訂正を行った。最初から相談相手の役目を引き受けてくれていた講談社の淪清光君と協力隊事務局の茅根史男君が必死の努力でそれを間に合わせてくれた。本書はこうして日本出発の三日前の深更に脱稿したのである。
物を書き慣れてない私には不安が一杯である。書き残したと後で思うことがたくさんある。非力が体にまでこたえるようである。精魂を傾けて書いたという実感だけが、せめてもの慰みと言うべきであろうか。
私は昭和五十一年度二次隊前期の隊員諸君と相前後して国を出て立って行く。おなじような抱負と不安を心に懐きながら。私が選び私が教えた若い諸君に負けないように、初心を持ち続け、八億の民の住む国での任務を全うしたいと思う。 |