はじめに
隊 員
青年海外協力隊
協力隊参加の意義
海外協力活動

教 室
現場勤務型
本庁、試験所型
ポランティア
実践者
青年
立場と品位
実りと国益
あとがき

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1998〜2000 Shoichi Ban
All Rights Reserved.

   ボランティア・スピリット 伴 正一 講談社 1978.3.30

 
 
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 5 村
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 村落型は協力隊の原型である。協力隊の理念を語るばあい、隊員の心構えを説くばあい、つねに引き合いに出されるのが村落型隊員であった。いまでも、本の表紙やボスターに登場させる隊員像となると、選ばれるのはやはりこのタイプの隊員である。なんといっても村落型は、海外ボランティアのイメージにぴったりなのである。

 村落は行政の末端に位置している理窟なのだが、途上国の実態からいうと行政の埒外(らちがい)にあると考えたほうが実際的である。隊員がそういう村落に人っていく姿は、協力隊関係者がよく口にするせりふ「ただ一人で異民族社会に」という語感そのものである。相手国政府は日本に隊員を要請しておきながら、また、隊員をその村落に差し向けておきながら、村にたいする通報が抜けているということがまれではなかった。一応の知らせがまえもってあったにしたところで、部落民から見ればわけのわからない外国人がのこのこやって来たというくらいの感じである。期待をもって迎えてくれるだろうと思ったら大まちがいで、村長だけが知っていてくれて、そのうち打ち合わせの運びにでもなれば上々のほうだとしなくてはならない。指示もしてくれない代わりに、格別拘束されることもない。そういう奇妙な着任風景が、通常村落型隊員を面喰わせる初体験である。

 手探りの哀歓

 こんな戸惑いのなかで、隊員はまずなんとか自分の生活の設営をしなければならない。なにしろ様子がわからないので、失策、珍談の続出だ。救われるのは、こういうとき村人が親切なことである。隊員はすこしずつ村人たちに接触していくが、彼らは概して鷹揚で屈託がない。その表情から受ける感じだと、東京族などより仕合せそうにみえるから不思議でならない。
 身のまわりのことが一段落するころには心にゆとりもでてくる。村の人々がどんな姿勢で仕事に立ち向かっているのか、だれのいうことを聴きどんなグループの影響を受けてこの村落社会は動いているのが、などということに関心が向いてくる。こんなことを観察しているうちに、社会秩序を支えているルールや、物事が処理されていくペースや、さらにはその全体の中に流れているリズムのようなものが、感じでうっすらとわかりかけてくる。

 だが、外国人には言葉の壁がある。人間を観察しようとするときの言葉の役割は、地形を偵察するときの視力のようなもので、言葉が通じないと目が見えないのと非常に似た〃もどかしさ〃がある。〃現地社会が見えてくる〃ように早くなるには、早く言葉が通じるようにならなくてはならない。言葉が弱いと観察は手間取るし間違いも起こりやすいのである。ついでながら、言葉のほか外国人にはいくつかのハンディキャップがあるが、それと同時に外国人なるがゆえに都合のいいこともある。一番助かることは、家の格式や人の地位、身分を考えずに、上から下までどの階層の人とも、あまり社会的にとがめられないで接触できることである。外国人だからとて大目にみてもらえることに甘えて、思わぬ落とし穴に入らない用心は肝要だけれども。

 在来手法をのみこむまで

 社会観察と併行して在来手法(農業でいえば在来農法)を観察することも不可欠のことである。日本の農業しか知らない隊員が、現地の在来農法をあらかたのみこむのにどの程度の期間が必要かは、前述した言葉の問題もあるし、季節的にいって着任時期に恵まれたかどうかということにも左右される。技術面を含めての隊員の資質によることはもとよりである。
 いうまでもないことだが、在来農法をのみこむには観察だけでなく自分も農作業に加わらせてもらってそれを体感することが必要だ。いつまでも〃手伝い〃では困るけれども、またその間に改善の方途を考え始めていなくてはならないけれども、やはり作業参加は現地習熟のための必須コースで、助言や提言を始めるのはそれからさきのことだ。
 もっとも右のようないいかたも一概にはできないのであって、米を作っている農村に入る稲作隊員ならそれでいいが、蚕も飼ったことがない、桑さえ植わっていない地域に入った養蚕隊員だと、とにかくどこからか桑の苗を手に入れて試作することから始める以外に道はない。茸専門の隊員なども多くはそういうスタートをしている。従来からあったものを改良させる役目の隊員と、いままでになかったものをその地で興す役目の隊員とは、おなじ村落型の中でも手順に大きい隔たりがある。

 後者は〃地場産業育成〃型と呼ぶことがあり、一代で完成を目指すことはまず無理だといわなくてはならない。このばあいには、初代隊員を出す最初の時点から、協力期間(たとえば六年とが八年とか)をあらかた先方と合意し、〃長期もの〃〃中期もの〃としてあつかっていくのが賢明であろう。公募制度の下ではシステム上の工夫を要することもちろんであるが、最近、協力隊の大きい課題としてこの問題がとりあげられてきた。

 適度の意識変革を求めて

 協力活動に当たって直線的な技術移転を狙うことが賢明でないこと、住民の意欲、住民の資力、住民の技術をよく見てかからなくてはならないことの概略は本書の冒頭で触れておいたが、これらの点はいずれも協力活動の核心部分に当たるので、ここにもう一度別の角度からとりあげておきたいと思う。

 右三点のうち、もっとも〃推し測ること〃のむずかしいのが住民の〃意欲〃である。これは、労働意欲〃生き方〃価値観などが人間心理の深層部でからみあいながらかもし出す、一種の均衡感覚とみることができ、現象的に表現すれば〃仕事への取り組み姿勢〃ともいえる。それは長い歳月のなかでしだいに形成され定着してきた歴史の所産であって、銃剣による威嚇にでもよらない限り、五年や十年では変えることのできない強靱さ、いったんは変わったようにみえてもやがて元に戻る復原力を持っている。そしてその根強さのよってきたるところをたぐっていくと、土地の気候や風土にかない、長年月の試練に耐えてきた、予想以上に合理的なものであることにしばしば思いいたるのである。
 それを日本からやって来た隊員がかんたんに、
「彼らにはやる気がない」
ときめつけたり、
「誠意をもってやっていけばついてくるだろう」
と思いこんで張り切ったりしたら大まちがいを起こす。日本式の〃率先垂範〃を無意味だといいきる自信はないが、いつもいつもそれで事がすむなら、協力活動は〃頭のいらない単純作業〃だということになるし、南北問題の解決に必要なのは〃体力と意志〃だけだという理窟になってしまう。そうはいかないから苦労しているのではないか。南北問題の真のむずかしさは、〃適度の意識変革〃をいわば漢方医的にやっていくところにありはしないのか。

 資力形成の螺旋階段

 つぎに住民の〃資力〃についてであるが、端的にいうとその日暮らしの住民に資力は皆無だ。無資力の農家にたいする隊員の協力活動にさいしては、協力隊から若千の資金手当てが行われ、その分がこれら農家に投入されることになるが、その結果得られた増収のゆくえが問題である。放っておくと増収によるわずかの潤いは〃初度蓄積〃となって資力化することなく、たとえば冠婚葬祭などの消費にまわってしまう。かくして先進国の援助は資力形成にはいっこうに役立たず、かえって援助を恒久化する、すなわちアへンとおなじように、援助が切れるともたないような体質を作ってしまいがちなのである。

 考えてみると、小さい揚水ポンプでも、動かすのには油代がいり、直すのには部品代がいる。その資力のない農民に資力をつけるのにはどうすればよいのか。その第一歩としての初度蓄積にこぎつけるにはどうすればよいのか。この課題は日本で考えるほど容易な事柄ではなく、住民の価値観や社会的諸条件の壁にさえぎられた奥行きの深い課題でほんとうにはまだ解明されてない。援助論のうちで解明されていない重要な部分だといっても過言ではない。

 バングラデシュなどで隊員がよく議論していることは、援助投入−増収−初度蓄積−改良方式の維持−蓄積の増加−自然災害への抵抗力の培養……といった螺旋階段型の資力形成例を一、ニの篤農について実現し、それをモデルとしてすこしずつ他の農家が見習っていく傾向を助長することが、将来展望として成り立たないか、ということである。

 もちろん彼らが議論していることは、その間における諸障碍克服対策の細部にまでわたっており、当然のことながら、資力の一部を生活を豊かにするため、すなわち消費面に向ける度合いやタイミングもふくんでいるわけである。二宮尊徳の見直しが隊員仲間でもボツボツ出てきていることも、右のようなことと密接に関連する。

 自力更生は江戸時代に学べ

 二宮尊徳だけでなく、協力隊には江戸時代全体を見直そうという着想が強まっている。途上国で隊員が取り組むいろいろの課題は、江戸時代の工夫・考案の足跡をヒントにすることによって案外容易に解けるのではないか、という着眼である。現在先進国人の考えることは、金のかかることが多過ぎる。それに比して、江戸時代に行われた改良や進歩のほとんどは、資力の乏しいなかでの創意工夫によるものであった。その貧しい状況が、途上国の現状にかなりよく似ているのだ。自力で小さい資力を生み出す、それを投じて得たものがさらにすこしずつ資力を高めていく。こういう着実な歩みのなかで江戸時代は緩慢ながら進歩を重ねていった。明治は江戸期の遺産のうえに立っていたのであって、
「自力更生は、日本の江戸期に学べ」
といってはばかるところなしと思うのである。

 江戸特代の見直しは資力蓄積の面にとどまらず、人間生活のあらゆる面でやってみる価値がありはしないだろうか。横道にそれたついでにいえば、国家統治形態がよければその時代のものはすべてよく、国家統治形態が悪いとその時代のものはすべて悪いということはありえない。江戸時代が封建の世であったからといって、同時代のものへの〃公正な鑑識眼〃を失ってはならないと思うのである。

 水やり物語

 つぎが第三点〃技術〃の問題である。実際に時たまあることだが、すこしオ−バーにいわれている話にこういうのがある。隊員が職場の作業員に「毎日これこれの程度の水をやれ」といっておくと雨の日にも水をやっている、というのだ。

「やりきれませんよ」

と隊員はいう。協力活動のせつない一面を物語る話で、やりきれない思いをさせられる。

 例はこのほかにも無数にある。しかし、いくらやりきれないといってみたところで、それでどうなるわけでもない。雨の中での水やりの事実があるなら、その事実をぼやき話ですませないで、協力活動の〃起点測定〃上の重要データとして扱うべきであろう。ということは、そういう雨中撤水の事実を〃技術水準〃あるいは〃知能レベル〃の問題として、換言すれば科学的な客観事実としてとりあげ、どうしてもっと頭が働かないのかという点を考えてみる−−考えこんでみる−−ことである。

 適切な指導方法は、右のような事実解明努力をへてはじめて見つかるものなのであろう。水やりの事実は、起点測定のうえで重要データであるだけでなく、そこからさき二年間で、どの程度までその人間の頭の回転率を高めうるかを予測するうえでも貴重なデータとなるはずだ。

 水やり物語は適切な例ではなく、途上国でもそんな話はごく稀であって、平均水準はそれよりずっと高いと考えていい。それにもかかわらずこういう稀有の例をあえて持ち出したのは、職場の人間の技術水準や二年後の到達可能水準をよく考えないで、無意識的に高目の判定に陥る傾向が隊員にはあるからである。すなわち目では相手をばかにしながら、やっていることは相手の水準を実際以上に高く想定しているとしか考えられないのである。高めの予測か低めの予測かということは、なかなか判定がむずかしい。人間のやることで、多少どちらかに振れることは避けがたく、隊員には情熱的な青年が多いだけに予測は、希望的観測が加わって、高めに流れがちである。できるだけ最新式に近いものを導入したいという技術者特有の気質がこれに拍車をかける。「もう少し低めに」という警告をしておくほうがよいのではあるまいか。

 つきあいとなりわいの友ばちがう

 もっとも先進国の技術協力全般をみわたしてものをいえば、日本の協力隊員は、この面で、優等生の部に入るると思われる。プレスティージにこだわる途上国側の要望にも一端の責任はあるが、その国には時期尚早と思われる設備や機材がおびただしい量で貧しい国々に流入している〃途上国援助〃の現状一般にくらべれば、〃現地に根づくもの〃を求めて思案を続ける隊員たちの努力姿勢は、かなり高い評価を受けていいと思うのである。

 〃技術〃の面で重要なのは判定や予測だけではない。仕事の本体、指導の仕方こそが本番の重要性を持つ。しかもそれは教室での指導ではない。相手は農民であって、品種を変えたり植え方を変えたりすることには、生活がかかっているだけにやすやすとは応じない。地酒を汲みかわして世間話をしている調子で話が進むはずはないのである。つき合いのうえでよき友と遇してくれることと、なりわいの道で確かな相談役と認めてくれることとは別だ。

 自分の言うことにだれも耳を傾けてくれる者がないとき、多くの隊員の選んだ道は、論より証拠、実物を作って見せることであった。はじめての土地、よくわかっていない気候条件、そしてもの珍しげな周囲の目……。しんの疲れる毎日である。日本にいて考えたらとてもやれそうにない。そういうことがやれたのは、がならずしも隊員の精神力だけではない。人間はせっぱつまったときには、思わぬ力が出るものである。応募の動機によく出てくる「自分を試してみたい」というのは、こういうせっぱつまった境地に自分を投げこんでみたいということを潜在意識のうちで思っているのかもしれない。そう考えれば、「自分を試してみたい」とは、いみじくも言いえたりと感心せずにはいられない。

 運がいいのか、説得が上手なのか、無理をして自分で作って見せなくても試作に応じてくれる農民が見つかることがある。しかしそのばあいとて気苦労の点では変わるところがない。それどころか、ことによったらその気苦労はもっと大きいかもしれない。自分で作って失敗したら自分が笑われるだけですむが、人に試作させてしくじったら、その大事な協力者が村の笑い者になる。それは隊員にとって、自分が笑われるよりどれだけ苦しいことであるか。

 もっともこの式に心配していたらなにもできないことになるので、自分の能力いっぱいに煮つめる点を煮つめ、ぬかりなく、やることをやったら、あとは運を天に任せたらどうか。住民との信頼関係がよくできあがっているようなときは、失敗したからとてかならずしも笑われるとは限らないし、第一、案ずるより生むがやすし、ということもある。

 溜息と挫析を乗りこえて

 村落型のばあい、住民の知識水準、技術水準が低いことが多いだけに、有力者のなかに理解者がいると大助かりである。それも半分は運であるが、いても見つけそこなうばあいもあるし、隊員の努力でそうでない人が理解者、協力者になることもあるので、全部が全部運ばかりとはいえない。

 運といえば、隊員に運はつきものである。せっかくうまく事がスタートしても、干魃、水害、資林の盗難、それに政情の変化と、困ったことがよく起こる。日本だったらこういうとき、国や地方公共団体の復旧対策がいちはやく発動される。自然が壊しても国が直す。それだけの行政機能が厳然として存在し、それだけの財政力がその背後に控えているのである。途上国にはそれがない。

 金を借りて施設や化学肥料に投資しているとき、天災でもあったら、あと住民に残るのはよけいな負債だけだ。自然と人間の労力だけでやっていたなら、彼らは裸になるだけで済んだのに……。なんという厳しいバランス・シートだろう。隊員が勧め住民が乗った一つの〃試み〃に住民のなけなしの金がかかっていたのが命とりになった。

「隊員のいうことにはもう乗らないぞ」 と住民が思う。
「万事休……す」
 隊員の溜息の大きさが伝わってくるようではないか。
「日本とはなんと結構な国だったのだろう」
「それにしても、この国の農民たちの自助努力の結末がこれか」

 大自然のツメ跡に見入る隊員には、南北問題でいいはやされる「自助努力」という言葉が、なんとそらぞらしく響くことだろう。隊員を襲う挫折感の深刻さ――しかし隊員はなんとかして気力を取り戻すしかない。挫折は天災だけでない。盗難もある。このときもまた隊員の心は真暗闇の底に突き落とされる。

 こういう厳しい協力活動の局面を想うとき、協力隊における脱落ケースが一パーセントに満たないということが嘘のように思われる。アメリカの平和部隊が二○パーセント強といわれるのに較べてあまりにも低い。日本人とはなんという恐るべき人種なのであろう。これは日本文化のなかを流れる〃恥〃の思想の所産としか考えようのないもので、協力隊が特別の努力をこのためにしたということではない。

 難題‐−市場メカニズム

 村落型では、生産面が軌道に乗りかかるころから、めんどうな市場間題にどういう姿勢で取り組むかが課題となり始める。先進国の人間がすぐに考えることは、自国の市場関係をモデルにしての販路の拡大、輸送手段の確保、出荷体制の整備などという、はなはだ野心的なことである。そのどの部分をとってみてもおびただしい資金を必要とするし、どの部分に支障が出ても全体の機能がとまってしまうような精緻なメカニズムだ。こんなものは、一歩予測を誤って値崩れでもあったらいっぺんで壊滅する。市場間題は事がめんどうなだけに、出発点におけるとりくみ姿勢が重要で、隊員がまず考えをつめなくてはならないのは、そもそも現地の実情が、野菜なら野菜について、日本のような市場メカニズムの維持を許す状況にあるのかどうか、という点である。広いアングルで考えるなら、市場メカニズムを始めから断念してかかるというのも、一つの方法なのである。安全度の高い〃自家消費体制〃に主眼をおくわけだ。徐々に嗜好の変化するのを待ち、食生活のなかで自家消費を高めていくのである。

 市場メカニズムの設定に手を染めるにしても、はたして仲買人制度にうちかっていけるかどうかをじゅうぶんにみきわめながら、ごく初歩的なものを第一段階の目標としたほうがいい。販路を狭い範囲に限定する。輸送手段も、土地さえ平坦であるなら初度投資がすくなくてすみ、維持費もほとんどかからないリヤカーとする……。ともあれ、こうして二代目から三代目にかけての隊員は、往々にして初代隊員よりむずかしい課題と取り組んでいくこととなる。

 それにしても、窯業や水産物加工のように、生産方法の改良ではなく、新しい地場産業の育成をめざすばあいのむずかしさは尋常でない。原料の問題があり、施設の問題があり、最初から販路の問題がある。ばあいによっては、住民の気質がその産業向きにできているかどうかもみきわめなくてはならない。そのうえ、この種の協力は往々にして、受入国の〃要人の思いつき〃に端を発する。

 こういうばあい、特別の財政的バック・アップという利点もあるにはあるが、事の起こりがたんなる思いつきであるだけに、先立つ原料の点さえろくに検討が行われていないことがある。そうだとわかっているばあいの対処の仕方が手のやける問題だ。先方の要請を断るのが一番かんたんであるが、途上国の要請で先方の事前検討の不十分なのは、なにも要人の思いつき要請ばかりではない。みようによってはたいていの要請に思いつき的要素がある。それをいちいち責めていても始まらない事情が途上国にはあるわけで、事前検討が不十分だからといって要請を断っていたら、取りあげ可能な要請は数えるほどしか残らなくなる。

 慎重な冒険

 それでもいい、断るしかないというのか、協力に冒険はつきものだとして積極路線をとるのか、このところの判断は、よしあしの判断というよりも援助思想のいかんで決まる事柄ではなかろうか。南北問題の現実をみればみるほど、選ぶ道は積極路線しかないと思われるのであるが、それにしても単純な冒険論で突っ走ることは無謀である。冒険要素の多いケースに対処する姿勢をはっきりさせておくことがどうしても必要で、一つの案として、冒険要素を避けがたいとみたら、初代隊員を「長期調査員」とみたててしまう手がある。応募者にあらかじめそのことを理解させておくことはいうまでもないが、その点の姿勢さえはっきりさせておけば、冒険かならずしも冒険ではなくなる。むしろ実行不可能な〃事前調査の完璧〃をめざすよりはるかに笑際的だ。隊員にも仕上げ型、創業型、パイオニア型があっていい。あっていいどころではなくて、かく多彩な群像のなかにこそ、協力隊に百花繚乱の趣きが添えられるのではないか。

 ロこみの支配する世界

 村落型はよく隊の内外で青年海外協力隊の華とうたわれる。そしてこのような憧れの気持ちが底流としてあることには、それなりにうなずける背景が存在する。農村地域の拡がりのなかでは、隊員のいることが、口こみを通じて十里四方に知れわたる。首都の知識層がマスコミのエコノミック・アニマル批判に影響されているとしても、それは広い国土のなかの一部でしかない。観光客の行状が目にふれるのも、概していえば大都市においてである。ところが、村落型隊員がとびこんでいく農村地域は、首都や大都市と違ってその大部分が口こみの支配する世界である。そこでは、住民の日本観や日本人観が作られるのは、新聞記事やマスコミの論評によってではない。はるばる日本からやって来て協力活動をしている一人の青年の人間像がどれだけ大きい力を持つことであろうか。それは静かな水面に投じた小石のどとく、思わぬ広さにその波紋を拡げていく。

 そこで、いい隊員のいい評判が拡がっていくことの意味を考えてみよう。マスコミ評の〃汚染〃なき住民に印象づけられたその日本人観は、白紙のうえに墨痕鮮やかに描かれた字や絵のようなものではないだろうか。それは長きにわたって消えることがなく、識字率の高まった後の世代にまで影響を残すにちがいないのである。

 〃農村隊員〃は目が輝いている、ということがよく言われる。ぼやきがない。気持ちが整理されているからであろう。気持ちの整理ということは、隊員にとってもっとも大切なことで、それが早くできるかどうかは決定的な意味を持つ。着任した隊員の心境には、

「やっと望むところに来た」
 という感じと、
「とうとう来てしまった」
という感じとが併存していよう。〃雄心勃々〃の感と〃一抹寂寥〃の思いといってもいい。一人で異民族社会に放り出された農村隊員には、こういう実感が圧倒的な重みでおそいかかるにちがいない。鮮やかな舞台の転換によって、それまでの心の座標がきれいさっぱりと清算され、新しい天地に立っての真新しい座標が心のなかに設定される。気持ちの整理ははやばやとできあがってしまうのである。

 冷水三斗

 ちなみに、都市隊員のばあい、気持ちの整理はそううまくは運ばない。くわしくは後でふれるが、そういうこともあって最近では、風変りな現地語学訓練なるものを実施している。一力月間、新規隊員を日本人のいない辺鄙なところに放り出し、現地式の家庭に入れて生活をともにさせる。隊員はすべて、冷水三斗の思いをさせられ、この洗礼で否応なしに気持ちの整理をさせられてしまうのである。平気でこれをやってのける者もいるにはいるが、大多数の隊員にとってこの一力月はこたえるらしい。彼らの送ってくるレポートには、せつない体験がにじみ出ていて、ときには泣きべそをかいている本人の顔が目に浮かぶようなのがある。その筆致は、「この隊員のどこにこんな文才がひそんでいたのだろう」と驚くくらいであるが、それは文才というよりも、切実感が生んだ迫力としかいいようがない。たとえばこんなのがある。

 (十月二十九日)『タ食ににわとりが出た。今日の昼みたうちの一羽がおそらく犠牲者になったのであろう。あまり鶏肉が好きでない私はどうも苦手。主食の〃シマ〃とともにあまり喉に入らず、それでも最後に「サンキュー・ベリーマッチ」。シマの味はなんとも異なもので、それまで美食を食っていた私にとって〃ゴウモン〃のようなものであった。まずそうな顔もできず(おそらく向うの人はじゅうぶんに私の表情を読みとれていたと思うのだが)できるだけ美味しそうにするそのふるまいは、まさしく拷問。手のひら大のシマの四分の三ぐらいまではなんとか食べたものの、すでに相手は食事を終わり私をまっているしまつ。こうなればのみこもう、と四苦八苦……。こんな調子で二週間なら永平寺四日の坐禅訓練よりきつい、とあらためて覚悟する』

 (十一月一日)『四日目、そろそろタイクツになってきたのでドワの町へ行く。途中部落がある。子供たちが「モニ!」とあいさつをかけてくる。まだチチェワ語がよくわからないので、思わず「ファイン・サンキュー」というと、ケラケラわらっている。会ってからみえなくなるまで、峠の上までそして下りがはじまり姿がみえなくなるまで手を振っている。なんと気の長い、またフレンドリィなのか。これがアフリカなんだなァーと思うと、貧しくてもいいじゃないか、この見知らぬ外国人にたいしてあの接し方はどうだ、うすよごれて何日も風呂に入っていない体、ボロポロの着物、ハダシ、そんな人でもあの人にたいするあたたかさは……と思うと、思わずロマンチックになって来る』

 (十一月二日)『今日「サザエさん」を読んだ。なぜこの家に「サザエさん」があるのか不思議であったが、そんな事はどうでも良い。ちょうど正月ごろの話がのっており正月料理の話題ばかり。頭にきて十ぺージほどでやめた。アーア、キツネウドンが食べたい。

 エドワードとサンクハニといっしょに畑にキャベツとニンジンを取りに行った。土のついたニンジンを彼らはあらうこともせずボリボリとたべる。うまそうだからひとつもらった。土はついているが、粒子が小さいので口の中でジャリジャリしない。うまい。でもやっぱりキツネウドンが食べたい。あの油揚げの大きくてあついヤツを!』

 (十一月十二日)『長男レビ君のためにタコをつくる。ところが材料があるのは竹だけ。紙ものりもなにもない。のりは御飯つぶでつくろうとしたが、これもメシツブはひとつもなくチョン!紙は……』

『とうとう紙をはり合せてタコ大の紙をつくった。幸い、ノリはうまく調達できたのだが、タコ糸がこれまた問題。モハンゴ夫人にいって一番強い糸を持ってきてもらった』

『こうして、いよいよ処女飛行の朝が来た。学校へ行く途中の子供たちが遠まきに自分をみている。このタコが空高くあがったら、と思うと胸がワクワクする。タコというものはその姿からして人の心をなごませ、また空高く人間の希望のようなものを感じさせる。もしこれがあがれば、なんら遊ぶ手段を持たないこの子供たちが、いろいろ工夫をしてまた新しいなにかを見つけ出すにちがいない。と思うと、タコをあげることがなにかしら重大な意味を持つようにさえ思われる。神に祈るような気持ちで、風の向き、強さを考えてやろうとするが、どうもうまくいかない。一度、風にのって五メートルぐらい上った時、野次馬の子供たちが〃ウォー〃と言ったが、それも失敗……』

『かならずこの国で、日本人の手によるタコが上るよう再度試みてみるつもりだ。こうして私の訓練は終ったのである』
 

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