2 青年海外協力隊
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青年海外協力隊員がはじめて日本を飛び立ったのは、昭和四十年十二月であった。第一次隊、行先別にいうと、フィリピン十二名、マレーシア五名、ラオス五名、カンボディア四名の計二十六名である。そして、これら隊員の募集、選考などのため、旧海外技術協カ事業団(OTCA)の中に特設の事務局(日本青年海外協力隊事務局)が発足したのが、これに先立つ昭和四十年四月である。
しかしながら、そこまでくるのにはかなりの紅余曲析があった。その紆余曲折は、これから生まれ出ようとする協力隊の性格づけに関する各方面の見解を調整する過程であって、それ自体興味があるだけでなく、その過程で示された各方面の見解には、これから先も充分に配慮していかなくてはならない貴重な意見が少なくない。
生い立ち
一九六○年、ケネディが米国大統領に就任して、有名な「ニュー・フロンティア」構想の下に平和部隊を作りあげたことは、当時米国の内外に大きい反響をよんだものであり、協力隊の誕生もこれに触発されている。しかし、協力隊発足の要因はこれだけではない。戦後青年運動の流れのなかには、切実な国際志向性があり、海外との交流を目指したアイディアの一つとして、かなりの長期間、腰をすえてアジアやアフリカの国づくりに汗を流す方式のものが、真剣に論議されてきていたのである。平和部隊の発足は、この構想の実現を促すまたとない潮時をもたらすこととなった。政界でも、政府部門でも、問題が大きく取りあげられるにいたったのである。海外での奉仕活動が、元来国際性に乏しく、また、ヨーロッパ系の国々のように海外布教の歴史も持たない日本人になじむかどうかと危ぶむ声もあった。積極論が大勢を占めるようになってからは、それを政府事業としてやるのか、民間運動の形で進めるのかということで、大きく議論がわかれた。この点は、また、新しい奉仕活動を、日本の技術協力の枠組みのなかに取り入れるべきかどうかということと、深くかかわり合っていた。経過の詳細は省略するが、そういういろいろの見解が調整せられ、最終的に外務省経済協力局長通達「日本青年海外協力隊要綱」(昭和四十年五月 海外技術協力事業団理事長宛)という形で文字化されたのが、つぎのような文言である(同通達一、目的と性格)。
開発途上にある諸国の要請に基づき、技術を身につけた心身ともに健全な青年を派遣し、相手国の人々と生活と労働を共にしながら、相手国の社会的、経済的開発発展に協カし、これら諸国との親善と相互理解を深めるとともに、日本青年の広い国際的視野の涵養にも資さんとするものである。
協力隊事業は、相手国政府との間の合意に基づいて実施される新しい国家的計画である。
青年海外協力隊(当時は日本青年海外協力隊といっていた)は、外務省所管、海外技術協力事業面の所掌と決定し同事業団のなかで、ボランティア事業としての特殊の地位を持つ存在となった。そして協力隊事務局が新設され、第一次隊募集に向かっての業務が開始されるにいたったことはすでに述べたとおりである。
十年の歩み
初年度(昭和四十年度)、第一次隊を含め総勢四十八名を送った協力隊は、四年の後には年間送出ニ三三名の規模にまで拡大した。一方、協力隊事務局は、昭和四十三年四月新装成った広尾の独立ビルに移転し、自前の訓練施設を隣接地に持つようになった。創業第二期を展望し、事業団会長の政策ブレーンとして運営委員会が発足したのが昭和四十五年、全国四十七都道府県で始めて一次選考試験を実施したのが昭和四十八年であった。運営委員会では当面の方針として少数精鋭主義を打ち出しながら、多数精鋭の日に備えてのシステム設計を進めていた。こうして協力隊は昭和四十九年、創立十周年を迎え、それがたまたま、国際協力事業団発足の年と重なったのである。
昭和四十九年八月一日、国際協力事業団が生まれ、従来別個に特殊法人(法律に基づいて設立された政府関係機関)として存在していた海外技術協力事業団(既出)と海外移住事業団は解消した。海外技術協力事業団の一部を構成していた「日本青年海外協力隊事務局」は、そのままの機構で国際協力事業団の「青年海外協力隊事務局」となったのである。しかし、昭和四十九年が、協力隊にとってより重要な年となったのは、こういう機構上の推移よりも、法文のうえで始めて協力隊の位置づけが明確にされた点にある。
ボランティアの法防性格づけ
ボランティア事業を、法律用語で表現することには、かなりの苦労があった。しかも、技術協力法とか、海外協力基本法とかいう形の法律でなく、国際協力事業団法という団休法のなかに、理念的なものをどこまでおりこむことができるが、という立法技術上の問題があった。多少読みづらくなるかも知れないが、その辺のことをできあがった法文規定に従って簡単に説明しておきたいと思う。まず法文そのものの中から、協力隊に関する規定をひろうと、第一条(目的)は、
国際協力事業団は、開発途上にある海外の地域に対し……技術協力の実施及び青年の海外協力活動の促進に必要な業務を行い……
に始まり、
もってこれらの地域の経済及び社会の発展に寄与し、国際協力の促進に資することを目的とする。
と結んでいる。それをうけているのが(業務の範囲)第二十一条第一項
事業囲は、第一条の目的を達成するため、次の業務を行う。
という文言であって、協力隊条項は第一号の技術協力条項に続き、いわゆるニ号業務としてこう規定されている。
開発途上地域の住民と一体となって当該地域の経済及び社会の発展に協力することを目的とする海外での青年の活動(以下この号において「海外協力活動」という)を促進し、及び助長するため、次の業務を行うこと。
イ 海外協力活動を志望する青年の募集、選考及び訓練を行い、並びにその訓練のための施設を設置し、及び運営すること。
ロ 条約その他の国際約束に基づきイの選考及び訓練を受けた青年を開発途上地域に派遣すること。
八 海外協力活動に関し、知識を普及し、及び国民の理解を増進すること。
法文の解説は、もとより本書の目的ではない。海外ボランティア活動なるものが、法律の文面で、どんな表現をとっているかを紹介すれば足りるのであって、そのためには、第二号規定の本文説明だけでじゅうぶんであろう。
第二号本文には(以下この号において「海外協力活動」という)という文言があり、それ以前のところが〃海外協力活動〃の定義になっている。その定義を便宜区切りをつけて引用してみよう。
A 開発途上地域の住民と一体となって
B 当該地域の経済及び社会の発展に
C 協力することを目的とする
D 海外での
E 青年の活動
右は、技術協力条項本文のなかで技術協力の定義がまったくなされていないのに較べて、対照的である。協力隊条項本文は、このように定義された〃海外協力活動〃
を促進し、及び助長
するのが事業団の仕事だとしているのである。一言で言うと、一号業務の技術協力(専門家派遺、研修員受人など)では、事業団が主体なのに、二号業務では、青年が協力の主体、事業団が支援者、になっているのである。
協力隊条項が〃海外ボランティア活動〃のあるべき姿をあますところなく表現しきっているかどうかについては、意見もわかれるであろうが、協力活動の主体と支援者の関係をはっきりさせたことは、協力隊のもつボランティア性をはじめて国法のうえで明確にしたことになる。
望まれる広汎な支援態勢
ただ、ここでひとつ付言しておきたいことがある。国(事業団)が支援するということは、地方公共団体や民間が支援してはならないとか、支援しなくていいということを意味しないのである。それどころか、国も支援する、地方公共団体や民間も支援する、ということこそ、前掲法文の末尾にある
国民の理解を増進すること
なる規定の含意するところと解されるのである。この点、昭和五十年三月、都道府県に対する外務省説明資料が、つぎのように述べていることは、注目に値することだと思う。
協力隊に参加する青年は、日本の国民であると同時に、都道府県民であり、また市町村民でもある。青年が主役で国は支援者という団法の姿勢に準じて、都道府県も支援者となることは、本件支援事業の主務官庁として最も望ましいことと考える。
(中略)
(国では)海外協力の面を表面に打ち出し、人間交流、人間形成の両面における絶大な期待効果を表面に立てないことにしているが、都道府県においては、支援根拠の上で、人間交流、人間形成の面面を主軸とされて一向に差支えない。現に国として、参加隊員の郷土還元については、施策の上でも積極的な配慮を加えているところである。
民間の支援も、隊員にとっては、国や地方公共団体の支援に劣らず重要である。とくに、社会人を前提とする協力隊のばあい、勤務先たる企業や団体の理解がないと、自らの生活基盤を根こそぎ捨ててしまうこと(退職)によってしか協力隊参加の道はないことになる。終身雇用、年功序列型の雇用慣行のなかで、参加志望者を阻む壁は、予想以上に厚く、この課題に取り組むには、国の側でのシステム設計もさることながら、民間における支援姿勢がどんなに重要であり、不可欠なことであろう。
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