はじめに
隊 員
青年海外協力隊
協力隊参加の意義
海外協力活動

教 室
現場勤務型
本庁、試験所型
ポランティア
実践者
青年
立場と品位
実りと国益
あとがき

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   ボランティア・スピリット 伴 正一 講談社 1978.3.30

 
 
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 9 ボランティア
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 ボランティアとはなにか、ということは日本国内の奉仕活動についても論議がくりかえされている。協力隊員も、国内奉仕活動と内外のちがいはあっても、ボランティアである点はおなじで、ここでも当然のことながらおなじことが問いつづけられている。

 協力隊のばあい、ボランティアにたいする非ボランティアとして、いつも比較の対象にされるのが〃専門家〃である。彼らは技術協力の担い手として、国際協力事業面から派遣される人々である。隊員とちがって報酬を得て〃協力活動〃に従事する。そのなかには年配組の隊員よりは若い人もいる。報酬を受ける〃専門家〃のほかに、なぜ、報酬を受けない〃協力隊員〃なるものが要るのか、という点が、専門家対比論の中心である。

 この点を解明する方法としては、数学でいう〃帰謬法〃によるのがわかりやすい。

 もし、隊員をやめて専門家に切り替えると仮定したら、すなわち報酬べースで考えると仮定したら、気候条件などの悪い途上国では、相当な〃給与の割増〃をしなければならないはずである。奥地へ行けば行くほど高い僻地加俸を設定しなくては論理が一貫しないからだ。

 そして、その論法で計算していくと、支給すべき報酬額はひどく高額のものとなり、周辺の民衆とはあまりにもかけ離れた収人になる。

 いくらいい協力活動をしようとしても、こんなにひどい経済格差があっては、民衆とのあいだに真の信頼関係を作ることがむずかしくなる。〃大金〃を与えれば、人間は、どんなに心がけがよくても生活は優雅に流れ、艮衆の生活からは離れていくものと考えなくてはならない。

 民衆に近い生活を守らせるための歯止めが〃心がけ〃だけでは不じゅうぶんだとするなら、ほかにたしかな歯止めを設定するほかはなく、それは〃支給額〃を歯止めの目的に合致するまで圧縮することである。そしてその目安としては、住民のなかの中流の収入を想定し、それに若千の調整値を加えるのが妥当であろう。

 右のような〃額〃は、かなり低い数値に落ちつくはずで、日本の現在の給与水準からすれば、報酬べースでは絶対にはじき出せない額であり、そんな低額を合理化する論理は、無報酬べ−スに立った〃現地生活費〃の考え方にしか求められない。

 せんじつめたところで、隊員の専門家吸収論に対抗して協力隊存続論を展開しうる根拠は、右をおいてはないと思われ、〃一七○ドル〃の哲学と協力隊でいっているものも、その基軸はここにすえられているといっていいのである。

 専門家のほかに、無報酬べースの協力隊員が海外に展開している理由は、右に述べたところにつきる。平均して一方は技術が高く、一方は低いことも事実であるが、それは民衆指向の道のけわしさから、隊員の年齢上限が設定されていることの〃結果〃にすぎない。したがって隊員を技術面でとらえるなら、この事実に即して〃若き専門家〃と定義するのが正しいであろう。げんにバングラデシュなどでは、(ボランティア・べ−スによる)ジュニア・エキスパートと呼んでいるのである。

 諸善奉行、諸悪莫作

 ボランティアとはなにか、という問いは、まったく別の方面からも問われる。日本国内での奉仕活動と対比した形においてである。国内での奉仕活動は、おなじくボランティア活動と呼ばれながら、多くのばあい〃経費自弁〃すなわち持ち出しべースである。しかる内で見られる式のボランティア活動らしくない。その違和感が安月給のサラリーマンのイメージを加重するのである。

 国内奉仕活動との対比が問題として登場した機会に、しばらく直接比較のことをおいて、広く奉仕活動と目しうる人間の行為を見わたしてみたいと思う。

 あらためてボランティア活動と呼ぼうと呼ぶまいと、奉仕行為の余地は、身近なところにいくらでもある。母親が忙しいときに、言われなくても子どもが手伝う。隣の独り住まいの老人に手を貸す。道に落ちた空罐をひろう。共同アパートの庭の草を引く……。やり方は無数にある。組織活動としてやるわけでなく〃ボランティア活動〃とわざわざ呼ばないだけで、質のうえではいま世間でいわれているボランティア活動とすこしも変わるところはない。

「いかなるか、これ、仏法の大意」
「諸善奉行、諸悪莫作」

 これは中国の禅言に出てくるある名僧の問答で、「仏教とはつまるところどういう教えなのでしょうか」との問いに、「いいことをしなさい。悪いことはしなさるな」と答えたという禅問答の場面である。さきほどあげたような行為をここでは〃善〃と呼んでいる。奉仕だとかボランティア活動といわなくても、ここにあるように〃善〃と呼んでもいい。〃小さな親切〃もおなじことだ。ボランティア活動というような〃いかめしい呼び名〃もないままで、門前の掃き掃除をしたり、困った旅人に食事を与えたりすることは、アジアの田舎などに行くと、だれでも当たりまえのこととしてやっている。

 こういう具合に考えてくると、

「それはボランティアでない。これこそボランティアだ」

 などという言い方自体に、なにか釈然としないものを感じるのである。つきつめていうと、いわゆる国内奉仕活動も、海外協力活動も、共同アパートの草引きと変わるところはない。

「近きより遠きに及ぼす」

だけのことである。換言すれば、〃草引きの心〃を持たない者は、国内であろうと海外であろうと、真の意味でのボランティアではありえない。ボランティアには共通する心がある。奉仕の心といって大きすぎるなら、平たく〃善〃意といっていい。

 求められる犠牲とカ

 ところで、そういう共通の心を土台にしながらも、行為にはやさしいものとむずかしいものとがある。親の手伝いや空罐捨いは、それほどの体力がいろわけではなく、ちょっとした心がけ一つで実行可能だ。老人ホームでせっかくの日曜日をまるまるつぶすとなれば、かなり自らを励まさねばならないし、電車賃と弁当代くらいの用意が手もとに必要である。溺れかけている子どもを助けるような行為になってくると勇気も必要だが、泳ぎに強いというカと技術がいる……。

 協力隊参加という行為も、このようななかで位置づけられることになるが、その特色を一言でいうと、容易ならぬ決心がいるし、それを裏づける体力、素養、技術などたいへんな〃能力〃を要する大仕事だということになる。もし国がその経費をみないとするなら、このほかに経済余力も必要になるところだ。協力隊まるがかえ論にはあらためて答えなくても、以上の説明でおのずから懸念は氷解されると思う。ついでながらさらに一歩突っ込んで国の経費支援を考えてみると、国の支援を可能にしている財政力も、もとをただせば企業の活動に負うところがすくなくない。協力隊が自ら潔しとして、企業をエコノミック・アニマル呼ばわりするような身勝手は慎むべきであろう。

 国の経費支援は、協力隊参加の道を広く解放する結果になっており、参加できるできないは実力次第といって過言でない。ただ、協力隊参加の道を著しく阻んでいるものに、日本特有の社会体質のあることは指摘しておかねばならない。フル・タイムニ年の海外活動は、いままで日本でやっていた仕事と両立するわけがなく、協力隊参加は〃本業犠牲型〃のボランティア活動だと定義できる。くわしいことは後に譲るが、終身雇用、年功序列型の〃社会土壌〃のうえに、本業犠牲型の協力隊を根づかせるには、今後長期にわたっての工夫と働きがけが不可欠だ。まことに厳しい前途だといわなくてはならない。

 そのことを思うにつけても、二年というのは協力隊の重荷である。それはどこからくるのか。それは縮めることのできないものなのか。

 結論を先にいえば、どう考えてみても二年はギリギリ必要である。途上国は国づくり、人づくりのもっとも困難な段階にある。日本だったら国にも地方公共団体にも、広く人材が配置されていて多岐にわたる行政や事業実施にことかかないし、民間の技術力を利用することもじゅうぶんに可能である。国内でのボランティア活動が、行政の間隙を埋める意味で福祉面に集中するのも自然の勢いである。

 ところが、途上国では、国や地方公共団体が、人材不足で半身不随に陥っている。民間も育っていない。協力隊の活動分野が、国づくりの広汎多様な部門に向けられるのは当然で、大部分一年そこそこでやれる仕事ではない。それが途上国の実情なのだ。協力の仕方を相手の二−ズに即応させるということは協力の基本姿勢ではないか。それを守ろうとする限り、実際には二年でもたりないという、これまた厳しい事情が先方にあることを忘れてはならないのである。

 近代的労働観とボランティア

 これまで、無報酬の点を基軸としてボランティアを論じてきたが、
「ボランティアはつねに無報酬であらねばならないのか」
 という根源的な課題について、一言もふれるところがなかった。そこで最後に、ヨーロッパ、非ヨーロッパの労働観を対比しつつ、かんたんにこの点に言及しておぎないたい。

 終戦直後、

「日本では知恵を借りるのはタダだが、アメリカはきちんとしていて、カウンセリングは有料だ」

と言って感心していた向きがある。手足を動かしても目を動かしても、時間と金目で計算するのが近代的で、当時の日本のようなのは前近代的だと考えていたのである。そして日本もだんだんアメリカのような考え方になっていったのである。日本が見習おうとしたアメリカの労働観は、つぎのようなものだったと思われる。欲望を満たすためには財がいる。その財を得るために〃労働を売る〃。労働は専門的な労働ほど高く売れる。カウンセリングが有料となる……。

 ところがこのアメリカでようやくそういう労働観の行き過ぎが反省され、経済至上主義のアンチ・テーゼとして、無報酬の行為が見直され、ボランティア活動が鮮明な浮き上り方をした。この見方に立って非ヨーロッパ世界をみると、〃近代的労働観〃とは価値観を異にした労働観が存在してきたことに気づく。

 日本の伝統的思惟方式でも、たとえば〃米を作る〃ということは〃なりわいの道〃でもあるが、同時に人のたいせつな食糧を作る神聖な役目でもある。小さなネジーつを作るにしても、そういう二様の意義が存在する。こうなると、自営であろうと給料取りであろうと、その仕事は〃社会公共のための仕事〃という半面を持つ。本業は金もうけ精神でやり、奉仕活動は本業外の時間にやるというふうにはわりきれなくなる。

 職場で奉仕の気持のまったくない者が、職場を離れたとたんにボランティアになるということは、アメリカでならおかしくないだろうが、日本ではいささか唐突である。この点は、隊員が課題として追いつづけてほしいところだ。経済至上主義的な〃近代労働観〃の侵入から、〃伝統的労働観〃を守るという局面が、隊員の途上国での〃貢献内容の一部〃になりはしないかと思うからである。
 
 

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