はじめに
隊 員
青年海外協力隊
協力隊参加の意義
海外協力活動

教 室
現場勤務型
本庁、試験所型
ポランティア
実践者
青年
立場と品位
実りと国益
あとがき

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1998〜2000 Shoichi Ban
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   ボランティア・スピリット 伴 正一 講談社 1978.3.30

 
 
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 6 教 室
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 教室型の話にはいるまえに、前章でとりあげた「都市型と農村型の問題」を、今度は都市型の視点から考えてみよう(教室型がすべて都市型だというわけではなく、水汲みに往復一時間を歩く教師隊員もげんにいるのであるが、総じていえば教室型隊員の多くは都市型である)。

 まえに述べたように、都市型のばあい、隊員の気持ちの整理は農村型のようにいかない事情がある。まず都市にはかなり万国共通の面があって、目に映る任地の光景がそれほど強烈な舞台転換効果をもたらさない。百八十度の舞台転換を求めてきただけに、なにか心の奥底でものたりなさを感じるとしても無理はない。日本と日本人と日本語からの離脱感がじゅうぶんでないということもある。一歩職場を出るや日本人の集まる酒場などがあり、そこには日本人の日本語による世界がある。そんなもののないところでも、首都だと、協力隊の集会所があって、三人や四人の隊員がいないことは珍しい。協力隊駐在員の事務所もある。半分日本を持ってきたような環境なのだ。ところによって状況にちがいはあるが、いずれにしても、農村型のばあいのように四囲の状況が否応なしに隊員の気持ちを整理させてくれるようにできていない。そのうえ、おなじ職場で隊員同士が机を並べるようだと日本離れはいっそうむずかしい。

 以上述べたところのほか、そもそも都市には人間疎外要因がある。〃孟母三遷のことわり〃を持ち出しての「都市隊員は送るべきでない」という見解もあながち否定することはできない。

 しかしひるがえって途上国の国づくりを展望するならば、それは農村ばかりで進行しているわけではない。国中の多くの場所で、また多くの局面で、国づくりは行われている。そういう国づくりを目にしながら、協力は農村だけといい張ってこちらの見識を立て通していいものであろうか。見識は見識として、あくまで途上国の現実に立脚するのが協力活動の根本義というものではなかろうか。

 それだけではない。海外での協力活動を志して協力隊に応募してくる者のうち、非農業本部門を専門とする志願者の数は、農業部門のそれをはるかに凌駕している。この志をどうするのか。ボランティア活動を支援する立場からいって、都市型切り捨て論は、いささか理想にはしって現実を軽視しているきらいがあると思うのである。

 膳立てのよさも有難迷惑

 教室型も着任風景から話を進めていこう。それにも村落型と似たばあいがないわけではなく、着いてみたらなんとまだ生徒が募集もされていないような事例もあった。しかし、通常なら村落型のばあいのように、どこが職場でなにが仕事やら見当が立たないなどというとまどいはない。教室があり、実習場があり、隊員から教わることになっている生徒がいる。膳立てができていて〃事始め〃にそう苦労することはない。ところがそういう具合に進んでしまうと、かえって楽でない面が出てくる。着任早々異国での授業はさぞつらかろう。地理のわからない雪の山道を未熱な腕で運転しているに似た思いにちがいない。膳立てのよさも有難迷惑といいたいところだ。

 そのなかでも実技中心の教え場だと多少は気が楽である。体育なら得意技をやってみせる。溶接なら実物を作ってみせる。その間はおもに体や手を動かしていればいいがらだ。ところが逃げ場のないのが講義中心でいく隊員である。

「隊員はいったいどうやっているんだろうなあ」

 という思いが去来する。そして、生徒にわかろうがわかるまいが無我夢中で口を動かしている、着任早々の授業風景を想像するのである。隊員はよく、

「生徒に掌習意欲がない」

などというが、着任後しばらくの間にかぎっていえば、生徒がのんびり構えていてくれるから救われるようなものだ。

 クタクタの二年間

 こういう青息吐息の時期が過ぎても、〃良心的な講義〃をと思えば、放課後から夜遅くまで翌日の準備に追われる。事情を知らない人は、家に籠りっ放しで住民への溶け込みがたりないとか、余暇をボランティア活動に使っていないなどと批評する。隊員仲間でさえ、食事に誘ってもでてこない、つき合いの悪い奴だ、連帯意識がたりないなどとぼやく。しかしそれはどちらも酷というものである。アフリカの田舎町で数学を教えていた女子隊員がいた。彼女は日米の教師交換プログラムで、アメリカの中学生に数学を一年間教えた経験の持ち主だった。英語は協力隊の同期生中抜群にうまかった。その隊員が帰国してからの述懐に、「仕事に打ち込むので精一杯、というより、クタクタでした」

 というのがあった。そういうものなのかもしれない。ちなみに、彼女の行ったマラウイという国は教育熱心な国で、貧しいなかを無理に無理をして教育を進めている国であった。

 カリキュラム作りに数歩の前進

 新任隊員にカリキュラムの編成をまかせてくれるケースもある。職業訓練校とか授産所のばあいに多い。すぐに授業に入らないですむ点で時間にゆとりができるが、カリキュラム編成にはそれなりにかなりの問題点がある。以前は、日本から持ってきた本や、日本での自分の経験をもとにしていく例がほとんどであった。ところが最近にいたって、カリキュラム編成のやり方がすこし変わってきている。職業訓練校や授産所の卒業生の就職率が日本では想像がつかないほど悪いことがその発端となった。

 せっかく電気器具の修理や家具の作り方を教えても、その技術を生かす就職口にありつける卒業生はたったの二割か三割という事例が頻発したのだ。基本的には、それだけ地域に産業がない、したがって雇用機会が乏しいということであろうが、〃殖産興業〃政策と教育訓練施策とがチグハグなところに主たる原因があるともいえそうである。それにしても就職難の原因はそれだけではあるまいということで、〃地域〃の具体的需要を質的に分析することに着目した。電気器具修理のばあいなら、その地域の修理店をまわって設備を調ベ、店ではどんな点で職人に技術上の不満があるかを聴いて歩く。雇うならどんな面の得意な者を選ぶかもたずねる。

 こうして探り当てたポイントにカリキュラムをマッチさせていったのであるoこの試みはまだその成果を確認するまでにはいたってないが、実情に即した協力という意味で〃数歩前進〃であることはまちがいない。

 言葉の発見

 実技指導だがら言葉のほうは弱くてもいい、といういままでの考え方も基本的な修正を迫られることになった。カリキュラム作りの段階で〃社会調査〃のできるレペルの言葉が必要となったからである。

「実技型には言葉はいらぬ」
 という神話は、このほかにも、いくつかの面で崩れつつある。

 中米の国の体育学校でバスケット・ボールを受け持っていたある隊員は、一つの課題を追いつづけていた。実技上のコツや呼吸をピタリいいあらわす言葉を発見することであった。竹刀の握り方を昔は
「雑巾をしぼるがごとく」
と教えた。雑巾になじまないいまの時代なら、さしずめ「手拭をしぼるように」といいかえるところだろうが、「手拭をしぼるように」といって、「雑巾をしぼるがごとく」といったときの追力があるかとなるとかんたんに答は出せない。かつては竹刀を握りながら何百回も何千回も「雑市!」「雑市!」と自分にいいきかせ、その積み上げでやっと竹刀の握り方が本物になっていったものである。バスケット・ボールでのコツや呼吸を中米風土の中でどういいあらわしたらいいのか。スペイン語であるだけではたりない。その土地の風土と生活意識から生まれ、人々の耳になれた〃言いまわし〃を探り、そのなかからピタリとしたものを拾い出すのだ。それには、その国の社会にドップリつからなくてはならないのである。

 こういう例もある。何代も柔道隊員を送って協力をつづけていながら、受入れ機関の幹部の交替で、いともあっさりと向こうから断わられてしまった。「サッカーがある。それでじゅうぶんだ」というわけである。せっかく現地で五段くらいの師範を育てあげようと長期の構えでいたのに……。

 柔道を一つの組織に定着させるには、〃武道〃なるものを幹部によくわからせておくべきだったのだ。武道をわからせることはやさしくない。新渡戸稲造が「武士道」を英語で書いたくらいの素養と努力がいることであろう。しかし、それが無理ならせめて英語で出ている日本文化紹介書をあさって、借りものを駆使してでもいいから日常の接触のなかですこしでも武道を幹部にわからせておく手もなかったわけではあるまい。

 優れた日本の職業文化

 柔道といえば、嘉納治五郎の写真を道場の正面に掲げて礼をさせていることが問題化したことがある。技術の祖にたいして敬礼するということは、装束を正して仕事に立ち向かう刀鍛冶の〃たしなみ〃とおなじで、大工が道具を大切に扱い、農夫が鋤や鍬をきちんと洗うことなどにも一脈通ずるものがある。

 まだじゅうぶんに解明されたことではないが、日本の〃美意識〃のなかでは、「仕事に打ち込む姿」が、美しいもののなかで高い地位を占めていたように思われる。はじめは〃食うため〃であったはずの仕事が、打ち込んでいくうちに芸術味をおび、やがて〃道〃にまで高まっていく。その心、その真髄を伝えるにはどうすればよいかで工夫が重ねられ、「理窟なしに、形から入っていく」という技法が生まれる。こうして道具を大切にすること、作法を重んずることが重視されるようになったのではあるまいか。親子関係とか夫婦関係とならんで、師弟の関係が基本的な人間関係の一つとされてきたことは、こういう一連の〃職業文化〃のなかでとらえていい事柄だと思うのである。

 わが国では、職場についての嗜み、〃心の持ち方〃が、技術そのものにおとらず大切にされてきた。そしてそれは、一つの職業文化として、日本でもっともよく発達したといえるし、他国に広めてはばからない普遍性を具備しているものといってさしつかえないと思う。

 なにも嘉納さんの写真に敬礼することを押し通せ、と言っているわけではないが、わかりやすく職業文化を語るくらいの自信と素養を持っていて欲しいというのは望みすぎであろうか。それとならんで、何語であれ日ごろから表現力を身につけておくことの必要性は改めて述べるまでもない。

 現場と教室の連携プレー

 住民への溶け込みを〃身上〃とする協力隊にとって、普及部門はまさにその得意技になっていい。村落型隊員の本領もここにある。教室型にも普及を指向した分野があり、げんに農業普及員養成所の教官を勧めている隊員がいる。ところがここで大きい課題として浮かびあがってくるのが、農業普及員と農民とのまことに徴妙な関係である。普及員が農民から浮きあがった存在として無用の長物になる危険が、途上国ではとくに多いのである。農民はどんなに無知にみえても、その道で長年暮らしを立ててきている。優劣はあってもプロであることにまちがいない。改良すればよさそうなのに彼らがそれをしようとしないばあいは、村落型のところで述べたように、それなりの深い理由があるとみてかからなくてはなるまい。

 村落型の隊員に求められるこの種の思慮分別は、ここでいう教官隊員の教え子たちが将来普及員となった際に求められる思慮分別でもあるはずで、それを備えた普及員を育てることが、教官たる隊員の任務といわなくてはならない。こう考えてくると、村落型の隊員が一方にいて、それとの連携プレーで教官が授業内容を考えるという図式が、農業面では不可欠のように思われてならない。

 電気器具のばあいだと修理店巡りの形で教官隊員自身による調査が可能であったが、農村となるといろいろなことが深くその社会体質に根ざしていて、教官隊員自身による聴き取りで調査をしとげることはまず不可能だからである。連携プレーのばあい二人の隊員は当然のことながら職場を異にする。住まいが離れていることも支障にならない。甲の課題を乙が理解し、乙の体験が甲の仕事に寄与するということでたりるわけで、この形の連携プレーは、隊員同士の気持ちのなかに連帯感さえあればじゅうぶんに可能なことだと思うのである。

 トレーニング・オブ・トレーナー

 技術協力の世界で、トレーニング・オブ・トレーナーという言葉がある。おなじ協力をするなら、効率よく、波及効果を狙え、ということからだれかが言い出した言葉なのであろう。これを教室型に当てはめると、隊員は自ら教鞭をとるべきではなく、教鞭をとる人を育てるべきである、ということになる。この論理を厳密に押していくと、指導を受けるべき現地の教師が〃カウンター・パート〃として待ち受けていてくれないと、受け入れの態勢は整っていないことになる。そういう論理のうえに立って、「なぜ、受け入れ態勢の整っていないところに隊員を送ったのか」とか、「自分はこの国の教師不足の〃穴埋め〃に使われている」などという苦情が、ひところ、隊員のなかから出たものである。もとをただせばトレーニング・オブ・トレーナーのいいすぎに起因してのことにちがいない。そうあって欲しいのだが……という願望程度にいっておけばよかったものを、あたかも〃協力活動のパターン〃と錯覚させるような言い方をしたのがいけなかったのである。しかし、錯覚を起こしたほうにも問題なしとしない。

 トレーニング・オブ・トレーナー方式は、師範学校などにはピッタリ当てはまるが、一般のばあいにははなはだ〃足場の不安定な〃方式だというほかはないのである。たまたま運よくいいカウンター・パートがいて、うまく隊員の技術を吸収してくれていても、高給につられてほかにスカウトされてしまったらそれまでである。箸にも棒にもかからないようなカウンター・パートをあてがわれて二年間つき合わされるのも困りものだ。

 一隅を照らす

 それなのに、カウンター・パート方式を金科玉条としているとしたら、隊員のほうもどうかしている。教師不足の穴埋めでどこがいけないのか。一個の教師として立派に生徒を教育することは、さきに引いた数学隊員の例でもわかるように、心身の疲れ果てるほどの大役なのだ。それをくだらぬことのように思い誤って、トレーニング・オブ・トレーナーの幻影を追う。なんとも空しいことではないか。精魂を傾けて生徒に教えていれば、そのひたむきな姿勢は、いつかなにかの形で他の教師に影響を与えるであろう。その影響のほうが、形ばかりカウンター・パートがいることなどより、はるかに重要であろう。しゃれたことを言ってぼやくよりも、「一隅を照らせ」である。

 いいカウンター・パートがいれば、もちろんいるに越したことはない。そうでないときは、カウンター・パートの幻から早く逃れて、すっきりとこう気持ちを整理してはどうなのだろうか。

 教科書づくりに挑む

 協力隊には、教科書の作成を発心してついにそれを仕上げて帰る隊員がまれではない。たいへんな努力である。とくにそれを、ラオス語やベンガル語のような国有言語で作る苦労はなみたいていのものではあるまい。教科書作りがどんなに大きい意味を持っているか。それにははかりしれないものがあるといっていい。そのことの理解のため、脱線気味ではあるが、ここで途上国の国語問題にふれておきたいと思う。

 単一言語の国で育ったわれわれには、途上国の言語問題はわかりにくい。よく思うのだが、日本で大学の講義が英語で行われるとしたら、どんなことになるだろう。幼少のころから家庭で英語にふれている学生が断然有利で、そんな環境で育たなかった庶民出の学生は大きなハンディキャップを負うにちがいない。一概にはいえないが、旧英領の国では、英語のうまいのは金持ちや特権階級の人々だ。その人々はまた知性や教養の面でも民衆よりぐっと高いのがふつうであるが。

 教室での用語よりも、書物の面で言語の問題はいっそう根が深い。技術の分野では、固有語で書かれた専門書が驚くほど少なく、そのことはバンコクやナイロビで本屋をのぞいたことのある人ならだれでも気がつくことだ。これでは英語がわからないと本は読めない。〃本で勉強する〃ことはどだいできない相談なのである。考えてみれば日本でも、勝海舟がオランダ語の辞書を写していたころは、こんな具合だったのだろう。庶民の言葉、自国の固有語で書かれた専門書のあるということがどんなに大きいことか。

 専門技術の分野で一つの単語を訳すのに、外来語の発音そのままでその国の国語にしてしまえば楽ではあるが、国語のなかから適切な言いまわしを探し出したり組み合わせたりして、新しい訳語を作ろうとすると、その苦労は想像を絶するものがある。ついでだが、日本ではこういうときに、漢字を持っていたことがたいへんな助けになり、漢字訳された新語にのって新知識が国の隅々に浸透していった。たとえば、インターナショナルを「国際」に、ケミストリーを「化学」というふうに。田舎の人でも「化」という字と「学」という字を知っていれば、最低限、なにか新しい学問だな、ということが理解できたであろう。

 ところが表音文字を使っている国では、そういかない。日本でも漢字の効用を生かさないで、〃はずみ車〃のように大和言葉で訳語が作られた例があるが、かなり難作業だったとみえて、その数はあまり多くない。アルファベットにせよ、固有文字にせよ、表音文字を使っている大多数の途上国で、専門用語を作っていくことがどんなにむずかしいことか想像できるというものである。教科書作りとは、用語作りの壁をつぎつぎと越えていく作業で、「重き荷を負うて遠き道を行くがごとし」とはまさにこのことだ。隊員の〃教科書づくり〃が部分的にでも右のようなレベルに果たして達しているかどうか。個人差もあることだろうが、目立たない文化協力としてその意義を認めないわけにはいかない。

 教員会議へ出たいのなら

 教室型でよく問題になるのが、教員会議に出る出ないの話である。教員会議に出させてくれないという不満は珍しいことでないが、この種の苦情は、不満をいっている隊員の力量をみきわめたうえでないとやすやすとは相談にのれない。学校運営方式には、旧宗主国のやり方の直輸入で国情にそわないものや、発足後日が浅くてろくに運営の体をなしていないものもありえようが、さりとて、性急に日本人的な発想をぶっつけるのは考えものだ。実情をよく見たうえで慎重にものを言う姿勢をとっていないと、教員会議に参加しても長続きはしない。

 言葉の上手、下手という問題もある。〃なんとか語がペラペラ〃といっても、中身にはいろいろあって一概に言葉上手とはいえない。廊下での立話や退屈まぎれの軽い雑談程度なら、どの隊員でも、すこしたてば慣れて支障がなくなる。それに較べると、〃仕事上の意見交換〃はぐっとむずかしくなる。聞くほうでも話すほうでも語彙が豊富でないと、突っこんだ議論にはならない。これができるようになるのは、隊員にとってかなりの苦戦である。

 いまでこそ隊員だれしもがこの壁に挑んでいるが、ひところはだれにでもは無理な〃わざ〃とされていた。もっともな話である。時間をかけて話しさえすればむずかしい話がこなせるという隊員が、全体のなかでどれくらいの比率を占めるか。協力活動の〃充実度〃を測る一つの重要なバロメーターであろう。差しの話でそうなのだからそれが大勢の会議のなかでできるかどうかとなると、ぐんとあやしくなる。いまの協力隊では〃離れ業〃の部類に属するとみるのが至当である。自分でわからないうちに、会議はどんどん進んでいく。聞き返すわけにもいかない。教員会議への出席自体はかんたんでも、〃意味のある〃参加はなまやさしくない。教員会議に出たいというなら、それだけの覚悟が必要だ。

 数盲撲減の着眼

 教室型については、まだいくつかの〃課題〃が残っている。

 第一は、途上国における科学教育の立ち遅れ、文科系と理科系の跛行で、これが小学校から大学まで共通している。これは現象的にそうであるにとどまらず、教育にたいする〃考え方〃に深くかかわり合っているようだ。文盲という言葉がしきりに使われるのに、〃数盲〃に当たる言葉がないのも、考えてみると解せないことである。日本では古くから〃読み、書き、算盤〃という言葉があった。注目すべき〃教育思想〃の表現である。

 これと比較して東南アジアをみてみると、一般住民のなかには引き算があやしくてよく釣銭をまちがえるような物売りがすくなくない。店をやっても、事業を数字的に把握していないから、気がつかないうちに大赤字を出す。こうして彼らは、商売下手も加わって、すっかり商権を華僑に握られてしまうのである。

 途上国は、文盲僕滅もいいが、〃数盲〃のことにもっと注目していい。そこから科学教育の出直しをはからねばなるまい。裏返していえば、日本人が伝統的に持っているものを役立てる余地が、途上国には大きく広がっているということになる。

 撤退を早まるな

 第二は、協力にあたって〃後発後進国〃指向の路線を打ち出すかどうかである。欧州における〃姉妹面体〃には、中進国からは逐次手を引いて力を後発後進国に専らにしようとしている向きがあり、オランダのようにはっきり方針として打ち出している国もある。

 日本の協力隊はどうするのか。

 大きい課題ではあるが、教室型に限っていえば、なにも西欧に追随する要はないと考える。途上国にとって、教師の数は〃量的〃目標で、これが達成できたら〃質的〃目標を立てるのが当然の成り行きだと考えられる。そうなったらこちらも〃質〃で応える。中進国には、〃中進国向け〃の協カパターンがあっていいはずだ。協力隊でいう〃弾力性〃変化技〃はこのような際に発揮され、また開発されなければなるまい。

 第三は、日本語教育、柔道、水泳などが通例なのだが、先方にまったく〃素地〃がなくて一から始めなければならないばあいの、プロセスをどう考えるか、である。〃民衆〃からみて習う余裕がなく、いわば〃高嶺の花〃的なことなので、どうも〃民衆指向〃とつながりにくい。この点で悩む隊員もすくなくない。しかし同時に、ナショナル・チームを作りあげるんだとはりきっている隊員がいるし、概してはりきり型の方が数のうえでは多いのも事実である。民衆との距離が気になる点ではあるが、この種の文化協力分野を撤退してしまうのは惜しい。実践の過程で工夫を重ね、そのなかから民衆の関心を育み、接近の方法も考案する、ということで進みたいものである。

 日本人なるかな−−就職の面倒見

 最後は、まえにもふれた就職の問題である。労働力が、見た目ほどには流動的に動かない。さればとて地元にはじゅうぶんな雇用機会がない。自立するには資本がない。資本があってもマーケットが不じゅうぶんで……というように、就職問題は日本人からみると、三重苦、四重苦のなかにある。それもふつうの学校ならまだしも、隊員がたずさわることの多い職業訓練のばあい、せっかく教えた特殊技が"役に立たずじまい"になっていく。

 教えた隊員からみて、これほど残念なことはあるまい。それだけでなく、生徒がこういう成り行きを子測しているものだから、それが彼らの学習意欲を殺ぐという形ではね返ってくるのである。日本だったら大騒ぎになるところを、そうならない。指導教官も生徒も、そんなに憂欝な顔をしていない。なんということだろう。問題は遠く、果てしなく、どこから手をつけていいのか迷ってしまう。隊員は、

人間が生きる

 ということを、あらためて考えさせられながら、それでもやはり、一人でも多く就職ができるようにと走りまわる。

 日本人なるかな!

 その姿は、のんきな向こうの人の心にもどこかに残りつづけることであろう。
 

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