はじめに
隊 員
青年海外協力隊
協力隊参加の意義
海外協力活動

教 室
現場勤務型
本庁、試験所型
ポランティア
実践者
青年
立場と品位
実りと国益
あとがき

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1998〜2000 Shoichi Ban
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   ボランティア・スピリット 伴 正一 講談社 1978.3.30

 
 
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 10 実践者
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 〃国際理解〃の論議があちこちではなばなしく展開しているのをよそに、隊員たちは、遠く日本国民の視界外に散っていく。彼ら黙々たる実践者によって、国際理解が一隅、一隅で進められる。しかし、隊員のめざすものは、理解や信頼を深めることだけでなく、それを〃元手〃にして〃協力〃を進めるという、もっと困難な実践課題なのである。

 不断の修練と基礎能力

 隊員にとっては、〃気持ちの整理〃もたいせつだが、もっと重要なのは〃基礎能力〃の集積や〃手法の考案〃などの実行である。まず基礎能力であるが、裸の情熱では、稲も作れないし魚も取れない。情熱をもとにして努力し、努力によって基礎能力をつける。稲作技術のような点は、協力隊に参加するまえに基礎を固めておくべきことだが、言葉の上達のようなものは、あらゆる段階でつづけなくてはならない。

 変哲もない夕餉のひととき、さりげない古老のひとことが、考えあぐねていた懸案へのヒントになるようなことが、〃現地社会の壁〃に阻まれることの多い隊員には、時折り起こる。はるばるやって来て、こういう〃千載一遇〃の手がかりに気づかないで終わるとしたら、これほど惜しいことはない。日ごろのヒアリング能力がこんな形で〃二年〃の意味を左右することもあるのである。

 隊員にかんする記録文書には、ややもすれば能力を発揮している場面の記述が多く、それに比して、その能力を形成する過程が粗略に扱われている。やむをえないともいえるが、〃成果〃に憧れて〃修練〃をおろそかにする弊を生みやすいのも事実で、ここが隊員にとっても、隊員になろうとする者にとっても、大きい落とし穴になるのである。技術面でも向こうに行くと一人前の大きな顔ができることから、つい油断をしてしまう例がすくなくない。技術でもまた、現地の現実に即した自己能力の補強がされていかねばならないのである。

 脳漿をしぼる

 〃手法の考案〃は隊員活動の〃本番へまさしくその正念場と呼ぶにふさわしい部分である。

 後の評価ではその誠実―あるいは他の道義的徳目―がうたわれようが、実践のさなかで当事者は〃頭脳の働き〃を尊ばなくてはならない。異境に暮らす。ときとして孤独の思いがつのって、感傷に身を委ねることもあろう。それは一種の詩心と目していいし、青春の醍醐味としてすてがたい面もある。心に〃真実一路〃を目ずさんで〃言葉に酔う〃のも一興だ。しかし、恐ろしいのはこの寂蓼感がつづくことで、そのために心のバネが失われてしまうことである。

「実践がいのちではないか。実践で大事なのは頭を使うことだ」

 こう〃喝〃を入れることが必要なのである。感傷から頭脳を解放して〃手法考案〃の態勢を整え直させることだ。バングラデシュで隊員が思索にふけっている〃農民資力形成の方途〃など、知恵をしぼるというより、脳漿をしぼるといったほうが適切なくらい〃頭の使いごたえ〃のある検討課題だが、どこの隊員のばあいでも、よく考えていけば、それにおとらず重要な検討課題がなくてはならないはずだ。隊員の心はまさにその方に向けられていなくてはならないと思うのである。

「頭は使っても気は使うな」

 という諺があるが、頭脳活動には〃ゲーム的〃なところがあって、それに興じていると〃気〃の滅入り方がぐっと少なくなるものである。それを極限状況のなかで実証したのが、小野田少尉で、〃島中が敵〃というピンチの状況を、前向きの課題追求型の舞台に、自分の意識のなかで〃仕立て直し〃ている。ルバング島の三十年を可能にしたものは、軍人としての使命感もさることながら、この偉大なる知恵ではなかったのか

 頭を働かせる、知恵をしぼる、ということで気になるのは、いまの文明が、そのことを必要でなくする方向に進んでいるのではないかということだ。急速に技術やマネジメントが専門化し、専門家が多くなってくると、なんでも「専門家にみてもらえ」となって、人間が自分でものを考えなくなっている。その専門家のなかでも、細分化が進むに従って、〃本当に考える〃少数と〃それほど考えなくていい〃多数に分化し、創造性や芸術性は大多数の専門家から持ち去られつつあるのではなかろうか。余暇利用―休み方、遊び方―までが、しらずしらずのうちに〃受動的〃になっている世の中になってきたのだ。

 隊員が、物も相談相手もない〃ないないづくし〃のなかで〃考える〃ということは、協力活動に身を入れているからであって、〃協力内容充実〃のためにほかならない。だがそのことを結果的にながめると、隊員にとっての大きな自己練磨となる。協力隊でいう〃人間成長の成果〃のなかで、このことはひじょうに重要な部分となっている。

 小野田少尉がボケなかったのに、隊員が南方ボケなどしてたまるものか。

 完全主義と袂をわかて

 協力隊では
「実践者の敵は完全主義だ」

 ということをくりかえし、繰り返しいっている。100を求めて実行をためらうより、可能なことから実行に移していけ、というわけだ。概して〃評論〃は、完全な100を尺度とし、人が実行した後から、不備の点を指摘、論難する。合格点を示しもしないで失点ばかり計算しているようなもので、この手にかかったらどんな〃協力活動〃も惨澹たる〃絵〃になってしまう。これで実践者の意気があがるわけがない。

 実践者の目は、つねに、可能性を尺度とした実際的な〃合格目安〃に向けられる。さきほどの100を基準にしていえば、その目安は、個々の具体的状況に応じて、60と立つこともあれば20になることもあり、状況が悪ければマイナス10に落とさざるをえないばあいすらある。そして実行後の自己評価も、その目安をかなり上回っているが、大幅に落ち込んでいるかというような形で行われる。後退をこの程度でくいとめえたとなればそれで満足できる。20ヘの前進で今回は上首尾、つぎの段階で40に伸ばそうということにもなる。実践者はこのようにして一歩一歩可能なことを実行し、積み上げていくものだ。いわば、得点加算方式である。

 生々発展する〃誠実〃

 実践者の心のなかは、なかなか人に理解してもらえないものだ。第三者はつねに〃評論〃的なもので、そんな第三者に理解されなくても平気でいるのが、実は、実践者の気持ちでなくてはならないのだが、そうなるまでにはかなりの修練を要する。周囲の評判が気になる。孤独感におそわれる……。そういった心理的な圧力をハネのけられるように、〃心の足腰〃を鍛えるわけだ。誠実とは、こうして実践力を鍛えあげる過程のなかで、本物の誠実になる。その途中で下手にオープンマインドになったら、おそらく〃修練〃は挫折しよう。

「評論は勝手なもの、人の声に浮薄なるもの多し」

と決めつけるくらいのがんこさで、自分の自己評価基準をみすえる度胸がいるのだ。

「過ぎたるは及ばざるがごとし」

という言葉も、片方にはある。〃実践上の誠実〃とはまことにむずかしいもの、鍛練をへて成長する、頂上のない登り道のようなものではあるまいか。

 

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