4 海外協力活動
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各自が参加の意義をどうとらえているにせよ、すべての隊員が目指している実践行為が〃海外協力活動〃であることにまちがいはない。また、それはすでに述べたように国法のうえで定義をされている。そしてそれは、相手の国の経済および社会の発展に協力することを目的としている点で専門家派遣による国際協力事業団の一般〃技術協力〃と変わるところはない。だが、定義がわざわざ、
「地域住民と一体となって行う青年の活動」
であるとして、隊員活動の特質、すなわち〃民衆指向〃を浮き彫りにしていることはみのがすことのできない重要な点である。
民衆指向は、協力隊発足以来の旗印であり、象徴的な基本姿勢でもある。「現地住民と一体となって」という法文の表現も、このことを〃確認〃したものにほかならない。そこでこの協力隊の基本姿勢はどこからきているのかということになるが、そのことに入るまえに、そもそも〃遅れている〃といわれる開発途上国のどこがどう遅れていて、発展のための最大の隘路はどこにあるのか、という点についてかんたんにふれておく必要がある。
早い話がインドはすでに核を保有している。その点だけをとらえるなら、インドは世界有数の先進国である。そういう特別の例はさておくとしても、途上国におしなべて技術がないといいきることは危険なことだ。真相はむしろ、国としてはかなり高度な技術を持っていながら、それが少数のエリートの手に握られている、逆にいうと、このエリートたちを〃下支え〃する中堅層が育っておらず、底辺の民衆に至っては、その水準が救いがたいほどの低さにあるということであろう。それにはいろいろな歴史的背景があるであろうが、要は潜在的な意味での〃中堅層以下〃に向かって技術を伝えようとする意欲がその国のエリートたちに乏しく、また、〃中堅層以下の側〃にも技術を吸いとろうとする意欲と基礎能力が欠如していることに原因していると思われる。
気の遠くなるような桃戦
別のいい方をすれば、エリートたちにも一半の責任があるだろうが、潜在的〃中堅層以下〃が知識と技術の不伝導体に似た状態にあることが大きい問題だ、ということになる。
隊員が対象として協力活動の目標にしているのは、まさにこの〃不伝導体〃の部分−−中堅層以下‐‐なのであって、このことがある意味では著者の情熱をかき立てる要因になっているという一面もある。しかしこのことは、いざ実践となると気の遠くなるほど困難なことで、協力隊を青年のものであるとしていることも、現地生活費(海外手当)の抑制その他の面でストイシズムを貫いていることも、一にかかってこの民衆指向路線上に横たわる困難を想定したうえでのことにほかならない。
「住民と一体となって」とおなじ意味で、「相手国の人々と生活と労働をともに」といういい方がある。ところが、労働をともにするのはそれほどむずかしいことではない反面、生活をともにするということは、厳密にいうと、まず不可能に近いことであり、それも東南アジアとアフリカとでは事情が著しく違うのである。〃中流〃と目しうるような層があって彼らなりの生活パターンが存在している国では、隊員は大体それになぞらえて、比較的容易に、自分の生活水準−−質素度−‐を設定することができる。が、上流−−外人並み−‐と下層民しか存在在しないといっていいような国で〃隊員らしい食生活と住居水準〃を、となると、これは予想以上に実現性の乏しい話になる。
隊員の側にも、たとえば胃腸の強度にかなりの格差がある。したがって、モットーとしては〃相手国の人々と生活をともに〃といっても、実は、外的諸条件や自分の抵抗力を考えながら可能なところまで生活水準を下げろという意味なのである。それにしても一人当たりでアジア、アフリカの人々の十倍も、二十倍もの資源を消費しているのが、隊員たちの育った日本という国の現状である。その日本から行って、現地住民に近いところまで生活水準を落とすというのだから並大抵のことではない。げんに体に抵抗力がなければそれだけで一頓挫だ。いままでの隊員の健闘を支えてきた大きな要因は、隊員が撥刺とした青年であったことである。この点、過去十一年の経験から、日本の青年の抵抗力が当初予想をはるかに上まわるものであることが実証されたことは興味深い。
低い生活水準に耐えるうえで、体の抵抗力に劣らず重要なことは心の持ち方−−意志の力−‐である。住民の食べている物を食べるのだ、という意志、その意志を支える体の抵抗力を維持するために規則正しい生活を送る意志がなくてはならないのである。
一七○ドルの哲挙
住民のレペルまで生活水準を下げることが苦労の要ることであるだけに、ときとして隊員のなかからさえ、
「彼らと労働をともにするだけでなぜいけないのか」
という疑問が出る。この疑問にたいする解答に当たるものが、俗に〃一七○ドルの哲学〃と呼びならされているものであって、その内容はかならずしも幾何学の証明のように歯切れのいいものではない。しかしながらこのことは、青年海外協力隊の真髄にふれる部分であるので、反論は覚悟のうえ、立ち入って説明を加えておかなくてはならない。
まずいえることは、民衆を指向する協力活動はそこまで徹底しないと本物にならないということである。住まいや食べ物の面で民衆に生活を合わせるのは、彼らの哀歓を味わい、彼らの心情を汲みとるのに一番いい方法だし、実際そうすることによってしか真に彼らと交わる術(すべ)はないように思われる。
民衆レベルに接してみると、その大多数が在来のしきたりと先祖以来の生活リズムで生き続けていくことに、なんの疑念もさしはさんでいないのにまず驚く。そういう人々にとってみれば、協力活動だといって自分たちのリズムを乱されてはかえって迷惑なのである。そんな気持ちでいる人々とのあいだに協力の実をあげようとするのだから、事はなかなかはかどらない。思っていた以上の手間と時間がかがるものと腔(はら)をきめ腰をすえてかからざるをえないが、そのさい一番大事なことは、相互の信頼感を培うことだ。隊員の協力活動は、信頼感をべースにしてしか成り立たないのだ。そしてその信頼感なるものは協力活動と相まち相平行して深めていくしか築きあげようのないものでもあるのだ。
信頼感をかもし出しそれを深める、これは二年を通じて夢寐にも忘れることのない隊員の思いであり、その努力のなかにこそ、協力活動の真髄もあれば人間成長の秘訣もある。生活をともにすることは、そしてその過程で彼らの歓びや哀しみを味わい、彼らの心情を汲みとることは、協力活動をうわべだけのものでなく血の通ったものにするための要諦なのである。
協力分野の多様性
そこでいよいよ協力活動の内容に入るわけであるが、隊員の活動分野が多様化するに従って、これらを一つのイメージで総括することがしだいに困難になってきた。多様なものをいくつかに分類して説明するしか、方法がなくなってきたように恩うのである。
だれしも考えつくのは農村型と都市型ということで、事実この分け方はかなりまえから行われてきている。だが、この方法は生活環境の差を示すものとしてはたしかに適当であるが、協力活動そのものの分類にはなっていない欠点がある。
協力活動の面からいうと、一見、職種別にするのが一番自然のように思われる。しかしこの分け方にも問題なしとしない。同じ業種、たとえば稲作隊員のばあいをみてみても、A隊員は直接農家相手の仕事、B隊員は農業普及員養成所の教官、C隊員は試験農場で技師の役についている……といったように、仕事内容、職場環境の差が大きくて、かりにこの三つのタイプの協力活動の共通分母を求めるとすれば、それは〃稲〃だけになってしまう。ところが協力活動の実態説明には稲そのものの解説は重要でなく、重要なのは仕事内容と職場環境なのである。こういうことを考えると、まだ結論を出すのは早いかもしれないが、職種別分類は、隊員の協力活動説明用としては、適切ではない。
職場の人間関係
そこでつぎにうかんでくるのが、もっぱら仕事内容と職場環境に注目しそのなかからいくつかの共通分母を探していく、第三の方法である。隊員が頭を使い気骨を折ることのもっとも多いのは、これまで述べてきたことがらも想像がつくように、職場における人間関係である。職場に事ける人間関係こそは、協力活動のうえでの中核的課題だということができ、それを分類の基準にすえることが、協力活動の説明用という分類目的にかなっていると思うのである。
つぎにかかげる四分類は、そういう基準に基づくもので、以下これに従って隊員の協力活動の実態を説明していきたいと思う。
1 村落型
2 教室型
3 現場動務型
4 本庁、試験所型
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