財団法人国際平和協会の会長をしています伴武澄です。2年前の賀川豊彦献身100年記念事業東京プロジェクトの広報委員長をしていました。本職は共同通信社の記者でしたが、5月に定年で辞めて郷里の高知に帰りました。
 私が賀川豊彦のことばかり話すので、よく「伴さんはクリスチャンですか」と聞かれる。去年から「はい、賀川教徒です」と答えることにしている。先月の神戸の賀川記念館の西義人さんと話していて、まさに「賀川教徒」で意気投合したばかり。イエスの友会はかなりの「賀川教」と聞いていますので、この研修会に参加できることをありがたく思っています。

 ムハマッド・ユヌス
 献身事業の圧巻は神戸プロジェクトが招聘したバングラデシュのムハマッド・ユヌス氏との出会いでした。マイクロクレジットといって、貧しい人々に小額のお金を貸して「起業」させた人です。いまではグラミン銀行となって世界的知識人、経済人の一人でもありますが、もともとはチッタゴン大学の先生でした。農村の貧困に直面してアメリカで学んだ近代経済学がバングラデシュでは役に立たないことを知らされたのです。
 衝撃的だったのは「バングラデシュには雇用という概念がない」という一言でした。現在、学生たちは就職難で苦しんでいます。働く人々は失業という憂き目にもあっていますが、バングラデシュは失業以前の状態であるようなのです。日本は大変だといってもまだまだ恵まれている国なのです。グラミンは「農村」という意味なのだそうですが、バングラデシュではグラミンが戦前の賀川豊彦と同じ一つの価値なのであります。
 プラティープさんというタイのスラムで救済活動をしている女性とも出会いました。彼女自身がスラムで暮らしろくに勉強できなかったのですが、15、6歳でスラムに寺子屋をつくり、子どもたちの教育を中心に活動をしていますが、阪神淡路大震災のとき、困っている日本の友だちのためにと募金活動した400万円を神戸に送ってきました。スラムの人々が第二の経済大国の人々に寄付したのです。貴重なお金だと思いませんか。
 ソウルでは、韓国のクリスチャンが献身事業に合わせてシンポジウムを開催しました。そのシンポジウムのニュースは聨合通信社を通じて日本にも転電されました。賀川精神は日本だけでなく世界各地でいまも行き続けていることに驚くというより感動に近いものがありました。
 献身事業が続いた2009年は毎日のように新しい出会いや感動がありました。めくるめくという表現がぴったりでした。参加者の多くが「わくわく」しているということを話しました。賀川が友だちの輪を次々と広げてくれるのです。
 献身事業の前年、リーマンショックが世界をかけめぐり、日本でも「貧困」が課題となりました。献身事業が始まると徳島新聞のコラムニストは「時代が賀川を呼んだ」と書きました。

 アフガニスタン戦災孤児
 昨年はアフガニスタンでも賀川を実践していた人物と出会いました。生井隆明さん。心の病に取り組むセラピスト。6年間カブールに滞在してアフガニスタンの戦災孤児のお世話をしていました。国際平和協会としてこの先何を活動の中心としていくか模索していた時期でしたが、生井さんの活動を支援することは大きな意義のあることだと思っています。ユヌスさんやプラティープさんとの出会いがなかったら生井さんへの共感も生まれなかったかもしれません。
 どうやって生井さんを支えるか、とりあえず生井さんがもう一度、アフガンでの活動の足場ができるよう支えようと考えました。生井さんの講演会を全国規模で開催し、会場で寄付を募る。東京と四国で計3回開催し、順調に寄付金も集まり始めた矢先に東日本大震災が発生してしまいました。
 とりあえずアフガンのプロジェクトはいったん休憩し、東北で何かできないか模索中です。

 国際平和協会
 私の賀川との出会いは10年ほど前にさかのぼります。財団法人国際平和協会の理事に就任したことがきっかけでした。そもそもは休眠状態にあった国際平和協会を環日本経済のシンクタンクにしようという話があり、実際にお金を出す人が現れて、経済評論家で環日本経済を提唱していた金森久雄さんを理事長にして多くの人が集まりました。
 しかしお金は一ヶ月で途絶えてしまい、「こんなはずじゃなかった、やめた」と相次いで脱会してシンクタンク構想はもろくも崩れてしまいました。
 そんな中で私だけは事務局にあった「世界国家」という古い機関誌に釘付けになっていました。国際平和協会は世界連邦の実現を目指すために1945年に設立された財団でありました。機関誌には毎号、賀川が執筆し分かりやすく、世界連邦の必要性や可能性について解説されていました。
 第一印象は「すごい人」がいたんだなという程度でしたが、仲間が次々とやめていく中で私だけはやめませんでした。賀川のことをもっと研究したいというのが本音でした。

 賀川純基さん
 まもなく上北沢の賀川豊彦記念松沢資料館を訪ねました。杉浦さんという学芸員にあいさつをすると「純基がいますので、呼んできます」と裏に入りました。純基さんは2時間ほど初対面の私に賀川豊彦の話をしてくれました。中でも印象的だったのは「賀川の先見性」という話と、純基さんのつくった「事業関連図」でした。
 先見性ではいくつかの詩と「空中征服」という小説で説明してくれました。1920年代に新聞に連載されたその物語は大阪の「公害」問題でした。この小説はものすごく面白く読みました。太閤さんが出てきたりレーニンが出てきたり奇想天外な形で物語が進行するのですが、その中で大阪市の行政を民間委託に出すという発想まで出てくるのです。
「事業関連図」ではこんなにも多くの事業を展開しその多くが今も生きている。企業でいえばこれは「コングロマリットだ」と直感しました。
 驚きは「リズム時計」と「高崎ハム」の歴史でした。時計博物館を訪ねたり、日本のハムの歴史書も読むはめとなりました。それぞれに日本産業の近代史が書けるのではないかと直感しました。リズム時計は戦後に農村時計製作所として埼玉県に産声を上げています。農村部の雇用の確保が不可欠だと考えていた賀川が若いときから胸に抱いていた夢の一つでもあります。スイスにならって農村部に精密機械工業を興したいと考えていたのです。
高崎ハムは立体農業からの発展です。御殿場に設立した農民福音学校で養豚業を始めハムをつくろうと、当時、ハム・ソーセージづくりの第一人者だった大木市蔵氏に御殿場の青年を送り込みハムづくりが実現します。その青年が高崎の産業組合に請われて誕生したのが高崎ハムです。ともに賀川が考えた農村の自立策の中から派生した企業だといえましょう。
 私にとって重要だったのは「自立」というキーワードでした。賀川が生きた時代には国や自治体に依存する余力はありませんでした。すべて自分たちで一から始めなければならない時代だったのです。その時代と比べるとわれわれの時代はずいぶんと豊かになっていますが、逆に「自立心」は希薄になり、「依存症」の方が強くなっているなあという印象が強いです。

 ロバート・オーエン
 オーエンは空想的社会主義者といわれました。賀川がオーエンに連れて行ってくれました。国際平和協会の理事の一人がスコットランドのグラスゴーで「賀川、賀川」いっている牧師がいるというので会いに行きました。ロバート・アームストロングという牧師でした。少年時代に家にあった「Kagawa」という英語の本を読んで賀川のスラムでの献身に感動し、牧師になろうと決意したそうです。戦争中で適性国の人物を敬うことは難しかったが、賀川は特別だったそうです。
その牧師は「昨日来ればよかったのに、グラスゴー大学で賀川に関するシンポジウムを開きました」というのです。戦前、戦後、賀川は2度グラスゴーを訪ねています。いくつかの古い新聞記事もみせてもらいました。賀川はイギリスやスコットランドでも聖者だったのです。そのころ、「Three Trumpet Sounds」というアメリカのハンターの書いた本があることも知りませんでしたから、驚きの連続です。賀川にますます傾倒することになりました。
 そのグラスゴーから電車で1時間のところにニューラナークがあります。オーエンが最初に繊維工場をつくったところです。現在は世界遺産になっていました。ロッチデールの協同組合運動の原型はオーエンの手ですでにニューラナークの繊維工場で始まっていたことをかの地で知りました。

 賀川の著作の「自炊」
 2001年に国際平和協会の理事になってから賀川教徒になるまで約10年の私の軌跡を話しました。現在、賀川の著作の復刻を計画しています。お金がかからないように電子本とすることまで決めました。賀川豊彦全集はすべて背表紙を裁断し、各ページをスキャンし、さらにOCRをかける作業が続いています。どの本を出版するかが検討中ですが、日々、発見の連続です。歴史や宗教をこんなに見ることができるのか、そんな驚きを繰り返しながら作業をしています。賀川の先見性を見る思いです。賀川は社会運動家として世界の人々をうならせました。それだけではない。歴史家、哲学者としての賀川からさらに学びたいと思っています。