御手洗知らずして討幕語るなかれ(2)
穂高健一著「広島藩の志士」は芸州に残る藩史をもとに書かれてある。それによると、龍馬が暗殺される12日前、芸州、薩摩、長州、土佐の藩士がらが御手洗に結集し、「四藩密議」が始まった。すでに徳川慶喜は10月14日、大政奉還していた。議題は大きく二つあった。大政奉還後の日本をどうやって経営するか。もう一つは徳川家の扱い。
僕らが習った幕末史は薩摩と長州が同盟を組んで、幕府と対峙する一方、薩長同盟という軍事同盟を背景に土佐藩の山内容堂が大政奉還の建白書を差し出して形成が一転、徳川慶喜が受け入れを余儀なくされたということだった。しかし、考えて見ればそんなに簡単に歴史は動いていなかった。天皇方は将軍家の軍事討伐に傾いていた。
密議は御手洗の隣村の新谷道太郎の生家の寺の客殿で開かれた。道太郎は芸州藩士で勝海舟に使え、龍馬とも心を許す中だった。
四藩の密議参加者は以下の通り。
広島藩 池田徳太郎、船越洋之助、加藤種之助、高橋広義
薩摩藩 大久保利通、大山格之助、山田一之丞
長州藩 桂純一郎、大村益次郎、山縣狂介
土佐藩 坂本龍馬、後藤象二郎
4日朝から真剣な討議が始まり、御手洗条約とも呼べる「三藩進発」が決まり、新政府の「形」として「新政府綱領八策」がまとまった。この八策の書面は龍馬肉筆の国立国家図書館と下関の博物館にそれぞれが残っており、「慶應丁卯十一月、坂本直柔」の署名がしたためられている。龍馬が瀬戸内海を航行していた時に書かれたとされる「船中八策」とほぼ同じ内容である。歴史的に船中八策は後に創作されたものと多くの歴史家は述べている。三藩進発は薩摩、長州、芸州の三藩が同時に京都にいる幕府軍に向けて進撃するという約束だった。土佐藩は大政奉還を差し出した手前、山内容堂の意思が固まっていなかったため、容堂を説得の上、参戦することになった。著者の穂高健一は「四藩軍事同盟」と名付けている。
「新政府綱領八策」の内容
第一義 天下有名の人材を招致し顧問に供ふ
第二義 有材の諸侯を採用し朝廷の官爵を賜い現今有名無実の官を除く
第三義 外国の交際を議定す
第四義 律令を撰し新たに無窮の大典を定む
律令既に定れば諸侯伯皆此を奉じて部下を率ゆ
第五義 上下議政所
第六義 海陸軍局
第七義 親兵
第八義 皇国今日の金銀物価を外国と平均す
龍馬は「この密議は60年間黙っていよう」と約束させた。内容が知れると暗殺の危険があった。実際に一番若かった道太郎が昭和11年にその内容を世に発表し、当時の大阪の新聞にも掲載された。龍馬は10月末に福井藩に赴き、由利公正に会い、11月5日に松平春嶽の手紙を土佐藩藩邸に届けているから、11月3日に御手洗にいるはずがないと多くの歴史家は道太郎の証言を認めていない。龍馬は由利には会っているが、春嶽には会えていないそうで、そうなると11月3日に龍馬が御手洗にいてもおかしくないことになる。だが、間違いなく、新政府綱領には龍馬の署名がある。
「結果として12品の11月上旬の行動はすべて空白となっている」そして、11月中旬から各藩の軍事行動が一気に表面化する。