南海の三傑-依岡省三と日沙商会
WaterBase主宰 伴武澄
高知に移住後、青年海外協力隊員としてマレーシアのサラワク州ミリに派遣されていた高知県の女性を取材して、実に面白い話を聞いた。かつてサラワクに白人のラージャ(藩王)が統治していて、土佐出身の依岡省三という人物がゴム・プランテーションを開き、日沙商会を創設したというのだ。森小弁がトラック島(現ミクロネシア共和国のチューク州)に渡り、現地の酋長の娘を結婚し日本と南洋諸島との間に強いきずなを築いた話は有名である。また高知出身の両親を持つ彫刻家の土方久功は、日本統治下のパラオに長年住んで『パラオの神話伝説』を書くなど南洋の島々の神話を文字化したことで知られる。土佐と南洋との関係に何やら因縁を感じていたのだが、そこへ第三の人物が現れたからさらに驚いた。この三人を土佐の南海三傑を呼びたい。
ボルネオの白人王国
ボルネオ島は現在、北半分がマレーシア、南側はインドネシア領となっているが、戦前までは前者がイギリス、後者はオランダの植民地だった。ボルネオ島の北側にはブルネイ王朝があり、スルタンが統治していた。ブルネイは今でも小さな独立王国として存在しているが、かつてはボルネオ島北部を手広く支配していた。十九世紀半ばのブルネイでは原住民の反乱が相次ぎ、ブルネイのスルタンは一八三九年にサラワクのクチンにやって来たイギリス人の探検家ジェームズ・ブルックに鎮圧を依頼した。ブルックは、英国海峡植民地(マラヤ)政庁の協力で鎮圧に成功し、褒賞としてブルックにサラワクが割譲され、ラージャに任じられた。
ラージャは元々、インドで王や貴族という意味の称号だった。イスラム以前のマレーシアでも王のことをラージャと呼んでいたが、イスラム化してからはスルタンの称号に変わった。ブルックはイスラム教徒でなかったからラージャの称号が与えられたということのようだ。いずれにせよ、ブルックに「白人王 (White Raja)」の称号を与えられ、一八四一年、ここにサラワク王国が建国されたのだった。
サラワク王国は太平洋戦争で日本軍が占領するまで、チャールズ、ヴァイナーと三代続いた。歴代のラジャーは「文化が進んだ少数のヨーロッパ人のために、先住民の利益を犠牲にしてはならない」と外国資本の進出を認めないことを国是としていた。不思議なことに日沙商会は一九一一年、サラワク唯一の「外資企業」として認められた。二代目、チャールズ統治時代である。
ラージャの信頼
日沙商会は一九一〇年、依岡省三がサラワク王国政府を訪れ、一七〇〇エーカーの広大な土地租借と開発の許可を得て、ゴム・プランテーションを経営するため、鈴木商店の助けで設立された会社。省三は翌年、マラリアに感染して急死し、実の経営は弟の省輔に委ねられた。
省三は、亡くなる前年の一〇月、シンガポールからクチン入りし、一〇月二八日、サラワク国王政庁を訪ねた。国王は不在で知事のカルデコットが応対した。
ウエブに掲載されている岡成志『依岡省三傳』(日沙商會、一九三六年)にその時の興味深いやり取りがあるので転載させてもらう。
依岡:貴国は土地豊穣で天産物に飛んでおり殊に日本人が来て開墾することを大いに歓迎されるとのこと。私は年来、熱帯地で農業を経営したいと希望いたしております。もし、貴国において一万エーカーの土地を借りることができますならば、その地にゴム、サトウキビ、ヤシなどいやしくも地味の許す限り耕作に従事したいと存じます。貴下のお考えはいかがでございますか。
知事:結構なご主旨です。しかし、目下、国王殿下には英国ご旅行中でありまして、遺憾ながら今直ちにお返事申し上げられません。
依岡:国王殿下はいつ頃ご帰国あそばされましょうか。
知事:来年五月ごろと思います。貴下のご滞在はどの位のご予定でありますか。
依岡:確定いたしておりません。
知事:実は、近来、ゴム栽培が世界的に隆盛となりまして、当国においても外人が投機的に借地を願い出ております。当国におきましては、起業の真意ある紳士が多数入国して国土を開発することは大いに歓迎いたすのであります。投機業者は土地の開発を阻害し大いに遅延させるものであり、国土開発の恐るべき敵であります。
依岡:まことに仰せのとおりでございます。しかし、私どもの土地開発は投機的でありませんことは英国大使およびシンガポール総督の紹介状にてご了解いただきたいと存じます。
知事:もちろん、貴下を投機的とは決して考えておりません。もし、貴下が借地を望まれるならば願書を認めて送付なさい。私から在英の国王殿下に通じ、許否をお取次ぎいたしましょう。
依岡:ありがたく存じます。しかし、わたしはまだ貴国の事情に通じておりません。よってまず適当な地を探し、しかる上に願書を作成したいと存じます。貴国の明細な地図はございましょうか。
知事:明細な地図はまだありません。貴下がもし踏査されるならば案内役をつけましょう。
依岡:ありがたく存じます。よろしくお願いいたします。
知事の配慮により、省三らは翌日から数日に渡り、ロック・ロード上流、サマラン河支流ローバン河を踏査した。そして翌月初めにサラワク国王殿下宛の開発の請願書をしたため、知事に提出した。不思議なことにゴム・プランテーションの仮借地権は翌一九一一年一二月四日付で付与された。もちろん省三は他界していた。希望した一万エーカーではなく、一七〇〇エーカーだったが、支配人としてクチンにとどまっていた米田杢太郎が直ちに開発に着手した。王国の国是を破ってまでの措置は、省三の並々ならぬ熱情が伝わり、ラージャがその熱意を信じたからであろう。
プランテーションの実績が上がったせいか、一九一三年には第二園一〇〇〇エーカーが追加され、さらに一九一八年にも第三園として一〇〇〇エーカーの租借が加わった。そして、一九二三年には総面積三六〇〇エーカーに対して九九九年の租借権が付与された。イギリスで九九九年は永久を意味する。
日沙商会は一九一七年、株式会社となり、ゴム原料の栽培と並行して、神戸でゴム製造にも着手している。創業時の資本金一〇〇万円は一九二〇年には三〇〇万円に増資された。国内でのゴム製造は後に日本輪業に譲渡されたが、ゴム・プランテーション事業は約三〇年続いたことになる。『依岡省三傳』には、「現在ゴム園は租借地五〇〇〇エーカーのうち、約五〇〇エーカーを除き全地植えつけを終えており、年々約四〇〇毛のゴムを生産している」と報告されている。サラワクでは、ゴムのほかに、沖縄を中心に二八戸一五〇人の移民許可を得て米作農場も経営、石炭採掘の権利も得て実地調査を行っている。省三が抱いていた南洋開発という壮図が後継者たちの手で広がりをみせていたのである。
今も残る依岡神社
省三の家系は詳らかでないが、先祖は長宗我部元親の重臣依岡左京進だったとされる。『依岡省三傳』によると、省三は慶應元年(一八六五年)、土佐国高知城下北新町に生まれた。父は定省、母は芳、同国香美郡岡村の出身とある。弟の省輔は鈴木商店の傘下にあった神戸製鋼所に勤めていた関係で、金子直吉の信頼を得ていた。鈴木商店は一九二〇年代に倒産したが、日商岩井(現双日)、帝人など多くの企業群を残した。日沙商会もその一つで、一九三六年、新聞記者だった岡成志が『依岡省三傳』(日沙商會)を残しており、依岡の人生を語る数少ない証言として記録された。その現代語訳がネット上の「鈴木商店記念館」で読むことができる。
クチン郊外のサマラハンという場所に依岡神社がいまも残っている。現地では大正時代の建立と伝えられているが、サラワク王国で依岡省三を思い起こす唯一の軌跡だ。
いまから考えると、依岡省三が創業した日沙商会の存在はおとぎ話のような話である。西洋列強がアジアに牙を向けていた時代、果敢にその植民地に夢を託したのだから。最後に当時、日沙商会の役員であった西川玉之助の言葉で結びたい。
「日沙商会はサラワク国王およびその政府から非常に信頼を得ています。その一例を申し上げますと、世界大戦の最中、英国政府は南洋の領土を他国人に租借させ、または割譲することは厳禁としていましたが、時あたかも日沙商会が第三回の土地租借を交渉していた最中でありましたので、私はサラワクに行き国王に意向を伺いましたところ、日沙商会だけは特別の扱いで租借を許可するということになっている、とのお言葉でありました。また先年、現国王の即位式がサラワクの首府クチンで挙行されました際には、私は日沙商会の者であるという資格で式場の高座を与えられ、非常な栄光に浴しました。それからまた、先年中国の排日運動が盛んになった時分に、サラワクでも在留中国人の日本人排斥があり、日沙商会への金融が中止されました。サラワクの銀行はすべて中国人経営であるため、この仕打ちによって日沙商会現地一千余人の労働者に払う給料に支障が生じました。その時、国王は大蔵大臣に命じて、特に日沙商会への融通をお命じになりました」。