2009年1月4日、東京日比谷公園、派遣村集会

 僕がまだ共同通信社の記者だった時代、つまり2008年。ダイヤモンド社でメンターダイヤモンドという塾が始まった。そして請われてその講師を務めたことがある。リーマンショック直後だった。年末に日比谷公園にテントが張られ、仕事を失った人々を収容する「年越し派遣村」が出来上がった。「貧困」というキーワードが何十年ぶりにメディアのキーワードとなった。アベノミクスは富裕層に株高というご褒美をふるまったが、雇用と貧困という課題は一向に解決されないままほぼ10年が経過した。岸田文雄新首相は、自民党総裁選で「分配なくして成長なし」と語り、新自由経済からの脱却を目指すことを約束した。しかし、自民党の幹部人事や新閣僚の布陣を眺めると、ほぼ安倍晋三一色となっている。これでは新自由経済から脱却など到底望めそうにない。

 2009年5月22日の講義では、学生たちと「なぜ就職するか」を考えた。ノーベル平和賞を受賞したマホメッド・ユヌス氏はその年の「賀川豊彦献身100年記念シンポジウムで「貧しいバングラデシュには雇用という概念がない」と話した。「あー、そうなのか、雇用とは発展した経済社会での働き方なのだ」と妙に合点したことを思い出す。日本では江戸時代から「奉公」という働き方があった。5年とか年期を決めて労働する「契約」で、親は最初にその契約の金額を受け取り、子どもたちは、その間、「ただ働き」を余儀なくされる。奉公の時代、つまりある時代まで「食べる」ことが生きることだった。食住の対価として労働があったのだ。「働きに出る」ことを「奉公に出る」といった。商家では「丁稚」といった。奉公は日本だけの制度化と思っていたら、欧米にもあったようだ。「フランクリン自伝」によれば、若い時代自らニューヨークの印刷所に奉公に出されたことが記されてあって驚いたことがあった。

 人びとの働き方は時代ともに変化してきた。賃金労働が生まれたのは、明治以降のこと。企業が労働力を求め、農村から労働力が供給された。企業が賃金を支給する代わりに「衣食住」は自己責任となった。終身雇用は、明治末から大正期にかけて大企業や官営工場が熟練工の足止め策として定期昇給制度や退職金制度を導入し、年功序列を重視する雇用制度を築いたことに起源を持つ。戦後の経済復興の中からサラリーマン層が誕生した。右肩上がりの経済の中で「正社員」たちの中で年功序列や終身雇用が当たり前になった。男性が正社員(正規社員)で働き、奥さんがパートで働くという構図が定着した。アルバイトはもっぱら学生用語だった。労働組合側から「定年制」の導入を求める声が高まり、政府としても年金制度の拡充に併せて、企業に定年を定めるよう求めた。1950年代にほぼ定着した。1954年、厚生年金の支給年齢が55歳から60歳になり、60歳定年が課題となった。60歳定年が定着したのは80年代。

 20世紀の大きな変化は社会主義の影響もあって労働組合が台頭したことであろう。長時間、低賃金を余儀なくされてきた労働者たちが団結して使用者側と労働条件の交渉に乗り出した。資本主義社会では革命的出来事だった。政府もまた、労働者保護の観点から、労働基準法や労働組合法を設けた。8時間労働や週休2日、最低賃金などは法律に定められ、労働に一定のタガがはめられた。資本家に一方的に搾取されてきた労働の対価は少しずつ労働者にも分配され始めた。戦後のアメリカや日本ではそうして社会の中流層が形成されていった。

 バブル崩壊以降、日本の労働慣行が激変した。円高の進展で生産活動はどんどんアジアに移転し、雇用の維持が難しくなった。一方で国際会計基準が導入されて、現場だけでなく本社機能のリストラも求められ、経営者たちは「終身雇用」「年功序列」は制度ではなく、「いままでそうであっただけ」と主張するようになる。

 雇用者側は人件費の抑制に走り、雇われる側も自由な雇用形態を希望した時代もないわけではなかった。80年代以降、人材派遣業が国内で急速に拡大した。初めは即戦力の専門職を企業に派遣する制度だった。派遣企業による給与の中間搾取が起きないよう、対象はホワイトカラーに限定されていたものが、2002年からはブルーカラーにまで拡大されてしまった。「日雇い」と「季節工」はむかしからあった。日雇いは主に建設労働で、また季節工は自動車産業に色濃く残っている。元々、農業が日本の主産業だった時代から農閑期に都会に出て働くという慣習があり、雇う側もそれに合わせた雇用形態を受け入れたが、ある意味で労働の売買が行われていた。ブルーカラーの派遣を認めなかったのはそうした危惧があったからなのだ。

 日本の地方で特異な制度があった。公務員の1年契約制度である。窓口業務など簡易な労働に対して行われた。そして今も続いている。そもそも地方での雇用は難しく、1年ごとに交代で働いて、その合間は雇用保険で生活するという変則労働である。そこそこ雇用は維持されるのであるが、働く側からすると給与が上がらないのだ。今の言葉で言えば「非正規採用」ということになる。

 経済成長が続いて賃金も右肩上がりならば、「非正規採用」という労働形態の負の側面は大きな社会的問題とならなかっただろうが、日本の場合、1990年代から経済成長が完全にストップするという異常な状態が続いているため、正規採用組と非正規組との賃金格差がどんどん拡大していった。

 今となっては自由化された労働形態を元に戻すことは難しい。まずは労働組合が本来の機能を取り戻さなければならない。賃金のために「闘う」ことである。ストライキを含めて闘うことは労働者の権利として認められている。労働組合運動は20世紀の労働者たちが勝ち取ったものであることを思い起こす必要がある。かつて理不尽ともいえるストライキが社会問題化したこともある。しかし振り返れば、その理不尽さが年度ごとの賃金アップにつながったことは認めなくてはならない。組合運動の象徴だった赤い旗が嫌ならば、色を変えればいい。緑の旗を振りかざして賃金アップを勝ち取らなければならない。