明治の先達が植えた海外のコメを拒否する日本人ル(HABReserch&Brothers Report)
執筆者:伴 武澄【共同通信社経済部】
日本の消費者の多くは「輸入野菜は怖い」「農薬にまみれている」「やっぱり国産は安全」などと国産品に対して信仰に近いものを持っている。2月15日、「消費者団体って誰の味方なの/ワシントン・アップル事件」で必ずしも日本の農業は安全でないことを指摘した。
●オーストラリアの米作は懐かしい輪作
日本にはほとんど知られていないが、オーストラリア産のコメはほとんどが農薬や無機肥料を使用していない。1993-94年のコメ不足時に輸入されたオーストラリア米にポストハーベストの農薬処理が施されたことがあるが、日本の消費者の不満が高まりただちに中止した。理由は簡単だった。ポストハーベストは、病害虫の危険がないにもかかわらず、日本の農水省が求めたものだったからだ。
同国のコメの主産地はビクトリア州。乾燥地帯だが、オーストラリア・アルプスの豊富な水量を利用した稲作が行われている。明治時代に愛媛県から移住した蜂谷氏が日本から種もみを持ち込んだのがきっかけだ。だから伝統的にオーストラリア米はジャポニカなのだ。
多くのコメ生産者は稲作に「輪作」を導入している。農地が狭い日本ではほとんど見かけない農法である。中学か高校の授業で習ったはずだ。1年目にはヒツジを放牧、2年目にはマメ類を植えて空気中から窒素を回収し、3年目にようやく田植えが始まる。ヒツジの放牧とマメ類の栽培で土は十分に肥えており、驚くほど肥料がいらない。輪作などというぜいたくな農業は広大な耕地があるオーストラリアならでは農法である。
さらにこの地方が乾燥地帯であることのメリットは、害虫や病気が少ないことである。オーストラリア米輸出組合によると、肥料がいらないうえに、農薬の散布も最小限で済む。日本での有機栽培は、田んぼの管理に細心の注意が必要だが、オーストラリアでは自然環境が有機栽培を促す環境にある。恵まれていると言わざるをえない。
●日本人が広めた乾燥地・冷寒地でのコメ栽培
コメは高温多湿のアジアが発祥の地とされるが、現在では品種改良により、寒冷地や乾燥地帯での栽培も可能となっている。もちろんタイやミャンマー、ベトナムなど東南アジア諸国では年に3回も作付けが行われ、高温多湿の地域が世界の主要な産地であることに変わりはない。しかし、アメリカのコメ産地は温暖だが比較的乾燥しているカリフォルニアやアーカンソーが主産地。イタリアやスペインも同様に乾燥地帯である。実はナイル川下流のエジプトも日本の技術援助によってコメを多く生産できるようになった。
日本でも亜寒帯にも属する北海道が最大の産地となっており、おいしいコメの産地は新潟県の中山間地である魚沼郡や宮城県だ。決して高温多湿が稲作の必要条件ではなくなってきている。コメは水と夏期の強い日差しがあれば、どこでも栽培可能なのである。病害虫被害の観点からみれば、いまではむしろ多湿であることがマイナス要因になっている。
中国の内蒙古や東北地方など冷寒地でのコメ栽培は戦前、日本の開拓農民が始めたものである。遡って、テキサス州にライスという地名が残っている。ブッシュ前大統領時代にサミット(先進国首脳会議)を開催した地として有名になった。明治時代に高知県出身の西原清東(さいばる・きよとう)が入植してジャポニカを栽培し、いまでは地域産業となっている。
西原氏は、筆者の故郷、高知県の偉人でもある。余談だが坂本竜馬の遠縁に当たる。クリスチャンで、京都の同志社大学の学長や衆院議員も務めた。最後はアマゾンに桃源郷をつくろうとしてそこで終生を終えた。
評論家の石川好氏は青年時代、カリフォルニア州の農園で働いた。戦後の日本は、多くの農村青年を研修生としてカリフォルニア州に送り込んだ。アメリカではメキシコ人同様、単なる外国人労働者だった。明治の日本人は海外に雄飛して、コメ作り文化を残した。重要なことは彼らは灌漑という土木事業までこなしたことである。いまも乾燥地帯でコメが栽培できるのはその灌漑用水のおかげである。
1990年代半ばにコメ不足に窮した日本人たちは、そんな明治の先達の苦労を知ってか知らずか「まずいコメ」と評して拒否しようとした。