執筆者:美濃口 坦【ドイツ在住ジャーナリスト】

クリスマスと正月、私は三週間ほどを日本で過ごした。数日前にドイツにもどると、こちらでは核拡散防止条約(NPT)脱退を宣言したり、ミサイル実験再開するなどといったりする北朝鮮の挑発的行動が盛んに議論されていた。

北朝鮮が挑発的な行動をどんどんエスカレートしていくのに対して、米国は辛抱強い。イラクと北朝鮮を比べるヨーロッパ人の眼には、「イラクの大量破壊兵器の危険性」と称する米国の攻撃理由が、あらためて胡散臭いものにうつる。米国は別の理由からイラクと戦争したいだけだ。多くの人々が思うようである。もう通用しない「勧善懲悪」米国はサダム・フセインという危険な独裁者を打倒してイラクを民主主義国家に改造しようと意図しているのだ。こうしてイラクに安定した模範的民主主義国家が生まれると、中東地域で腐敗した独裁政権がだんだん倒れて、この地域全体が民主化して安定する。こうなることこそ、テロに走る過激な回教原理主義にブレーキをかけることに通じる。そう考えると、米国の対イラク戦争は「民主主義対独裁体制」の戦いであり、その点でナチ独裁を打倒しようとした第二次大戦と同じで……

この「民主主義対独裁体制」の図式もアフガン戦争まではヨーロッパ人に少しは説得力があった。でも今や、彼らの多くはサダム・フセインを悪人と認めても、複雑な中東情勢がこんな単純な「勧善懲悪」の図式におさまりきらないと思うようである。彼らは対イラク戦争が事態をますます紛糾・悪化させ、すでに不安定な中東情勢をますます収拾つかないものすることを心配する。

ドイツ人を筆頭にヨーロッパ人がだんだんそう思っているところに、北朝鮮の挑発行為のニュースが飛びこんできた。イラクも北朝鮮も「悪の枢軸国」の独裁国家であったはずだ。米国は北朝鮮に対してなぜこれほど異なった扱いをするのか。ヨーロッパ人の眼には、北朝鮮の「瀬戸際外交」も、米国がいかにダブル・スタンダードであるかを証明する見世物にうつる。でも米国の政治指導者はどうしてイラク国民の民主化にこれほど熱意を感じるのだろうか。「帝国」をめざす米国米国の本当のお目当が世界で二番目に大きい埋蔵量のイラクの油田にある。やはり議論はここに来るようである。たしかにこの油田は低コストで採掘可能である。これに魅力を感じる英、仏、ロシア、中国の安保常任理事国も採掘権のおこぼれにあずかれるので、最終的には米のイラク攻撃に反対しないと、語られる。

経済的動機を持ち出すと、米国のダブル・スタンダードも誰もわかりやすくなる。北朝鮮のほうには飢えた人がたくさんいても、魅力的な資源がない。だから米国も戦争などするに気にもなれない。バルカン半島の軍事介入では米国の経済的動機がはっきりしていなかったが、今回の対イラク戦争はこの点で少々露骨である。とすると、米国が二一世紀の将来に訪れる石油燃料の枯渇という危機に対して遠大なエネルギー確保戦略を実行することになる。

でも多くの人々はこのような米国の経済的動機による戦争の説明に止まっていない。現在の国際経済が国家単位でなく企業中心で動いている。たまたま自国に本社をもつ多国籍企業の利益のために、国家が膨大な戦費と人的損害を覚悟しなければならない戦争を本当にするのであろうか。この点で多くの人々は懐疑的になる。

現在先進国はどこも不景気である。原油価格がすでに高いレベルに達して、戦争が長引いてさらに高騰すると、これは景気回復にブレーキをかけるどころか、きわめて危機的経済状況を招来する。

「イラクの油田確保」とはいっても一九世紀でないので、イラクで誰が支配者であろうが、原油を輸出したいことにかわりはない。それなら買えばすむことで、特に国家が軍事介入する必要などないのではないのか。

このように考えることが二〇世紀後半有効であった自由主義的市場経済の論理であり、また経済主義的思考であった。ここで米国が敢えて戦争に踏み切るなら、米国の政治指導者は従来と異なった論理を、例えば19世紀後半の帝国主義に似た思考を追求し、「帝国」をめざしていることになる。

この疑惑こそ、アフガン戦争以降、欧州諸国が漠然と米国に対して抱くものであり、現在進行中の欧州の米国離れ根底にあるように思われる。北朝鮮はもう手遅れ今回のイラクと北朝鮮についての議論で、今まで以上に強調され、指摘されたことがある。それは、北朝鮮のほうがイラクなどより軍事的に見てはるかに脅威であり、だからこそ米国が軽々しく軍事介入しないという点である。反対にイラクに介入するのは、こちらのほうが軍事的にはたいした脅威でなく、リスクも限定できるからということになる。

北朝鮮は、百万以上の軍隊と化学・生物学兵器をもち、ミサイルを輸出する。米国が軍事行動をおこしたら、数万の自国軍兵士の犠牲を覚悟しなければいけない。次にソウルが「火の海」になるなど、韓国が計り知れない戦禍をこうむる。また北 朝鮮のミサイル射程距離に入る日本にも甚大な被害が生じる。「北朝鮮の核施設を米国が爆撃すると朝鮮半島だけでなく、下手をすると日本まで放射能汚染を被ることになる」と軍事専門家は警告する。

以上は北朝鮮が原爆をもっていないことを前提にして想像したシナリオである。でもこの国が原爆を二、三個ぐらいは所有していると確信する人は国際社会には少なくないのである。九〇年代前半ソ連崩壊で混乱した頃、核兵器専門家が北朝鮮にスカウトされたとかいう話は本当によくあった。

このように考えると、米国のダブル・スタンダードとは、北朝鮮はもう手遅れで、反対にイラクの軍事的脅威度はその前の段階にあるために、軍事介入がまだ可能と米国が見ていることからくることになる。

とすると、米国は、北朝鮮の軍事的脅威を認識し、自国民を餓死させても平気な国と事を構えたら、自国にとっても、また韓国と日本という同盟国にとっても失うものがあまりに大きすぎると考えていることになる。これは、米国が相手国の軍事的脅威を考慮して、戦争を含む外交的選択肢を考慮して交渉という選択を現時点でとっていることを意味する。

「平和呆け」とは軍事的脅威が想像できないことである。もし想像できたら、豊かな日本にとって「戦争」が外交的選択肢にならないのは自明のはずである。それなら、北朝鮮に対して「戦争」というコトバを口にする政治家がいるとすれば、この人こそ「平和呆け」を患っていることにならないだろうか。誰を懲らしめることになったか北朝鮮の核問題は国際社会全体に関係する。反対に、拉致問題のほうは日本国民だけに関する問題である。だから国連などの国際機関に訴えてもあまり効果が期待できない。

現在大量殺戮兵器保有問題で、監視団がイラクに入って調査しているが、似たような監視団が拉致問題解明のために、いつの日か北朝鮮に派遣されることなど考えられない。拉致問題は家族にとって、また日本国民にとって重要な問題であっても、国際社会の中ではちいさな問題である。

北朝鮮はもともと国際的に孤立した評判の悪い国である。このような国に対して国際世論の圧力もあまり期待できない。欧米の主要新聞に広告をだして北朝鮮の不法を訴えても、広告収入を増やすことができる新聞社をよろこばすだけである。

この問題は、米国や中国やロシアなど第三国にお願いすることでなく、北朝鮮と日本の二国間の問題である。戦争という選択肢がない以上、北朝鮮との地道な二国間交渉が解決に近づく唯一の可能な道である。

昨年幸いにも、危険で不愉快なこの国に拉致問題の存在を認めさせ、平壌宣言で「相互の信頼関係に基づき、国交正常化の実現に至る過程においても、日朝間に存在する諸問題に誠意をもって取り組む強い決意を表明」させるところまで、こぎつけることができた。それなのに、この外交的成果を軽んじたのは本当にもったいない話であった。

そうなったのは、ある日本列島定住者の見解によると、戦前の「暴支庸懲」に似た「暴鮮庸懲」の雰囲気が日本国内に生まれたためで、だからこそ多くの日本人はチャンスを逃して、もったいないことをしたなどと思っていないそうである。

当時も「暴支庸懲」で戦争目標がはっきしなかった。その結果戦争も収拾不可能になり、泥沼化した。今回は、はじめ外交目標がはっきりしていたのに、いつのまにか漠然とした「庸懲」感情に置き換えらた。その結果、日本はみずから外交交渉の道を閉ざしてしまったように私にはみえてならない。

でも「庸懲」といって、いったい誰を懲らしめることになってしまったのであろう

か。

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