執筆者:伴 武澄【萬晩報主宰】

これは一つの体験である。9月5日、大きな地震が三重県を襲った。大きな被害はなかったが、県民に地震の恐ろしさを十二分に伝えた。筆者の場合、それ以降、揺れに対して体が異常すぎるほど過敏に反応するようになった。多くの県民も似たような状態にあるのではないかと思う。

次いで29日、豪雨に見舞われた。県庁所在地の中心地で道路の“水位”が見る間に上昇するのだが、そんなことはニュースでも何でもなくなるほど雨が降った。53歳の人生の中でこれほど雨が恐いと思ったことはなかった。これも多くの県民に共通の気持ちを抱かせたに違いない。

いくつかの思いがよぎった。自然の猛威に人間は対応できるのか。10年ほど前、フィリピンを訪れ、ピナツボ山の噴火の後を歩いたことを思い出した。噴火後、数年を経ていたが、幅10キロにわたる泥流がまだ流れていた。泥流の厚さは5メートルほどにもなるという。ある場所で教会の尖塔だけが泥流の上に立つ風景があった。「この下には町がありました」という説明はにわかには理解できなかった。それでもピナツボは筆者にとって過去の出来事でしかなかった。

9月、三重県で起きた自然災害は規模でいえば、ピナツボほどの大きさではなかったが、生身の人間が耐えうる極限の精神状態を筆者に強いた。それは筆者がマスコミにいて、報道の一端を担う責任を持っていたからでもあった。たとえば、部下を豪雨の土砂崩れの被災地に向かわせる心境はただごとではない。被災地に向かった記者は若いから、どれほどの危険を感じていたか知らない。だが送り出す人間に心理はそうたやすく語れるものではない。

9月5日の地震はマグニチュード(M)6.9と7.4。阪神大震災よりもエネルギーは大きかった。東京にいる学者や役人は、予想される東南海地震との関連を語った。地震に見舞われた県民の一人には他人事を語っているようにしか感じられなかった。われわれには、この地震が東海海地震と関連があろうがなかろうがどうでもいいことだった。知りたいのは、その夜起きた地震が「新たな恐怖の始まりなのか否か」ということだった。

29日の豪雨で県内に勤務する政府の役人が言った。「伴さん、異常なことが起きるのを災害というのです」。まさにそういうことだ。予想される延長上で自然現象が起きてくれるのなら、われわれは生きていくのに何の不安もない。

今年起きた幾多の水害のすべてが予期しない時期と場所で起きた。29日の豪雨も台風がまだ九州に上陸しないうちに始まっていた。心の準備などあろうはずもない。津市では過去最大の雨量の二倍にもなる400ミリの雨が降った。尾鷲や海山など三重県南部では1000ミリを超える雨量を記録したところもあった。土砂崩れが起きた宮川村では雨量計の限界を超えたから、最終的にどれほどの雨が降ったかも記録されなかった。

情報の重要性についてこれほど関心を持ったこともなかった。「社員の安全の確認」はどの会社の災害マニュアルにもある項目だろう。共同通信の場合、一番目の項目だ。しかし、地震発生と同時に携帯電話は機能がマヒすることを知らなければならない。社員の安全が確認できないということは、その報告もできないということである。マニュアルの一番目と二番目がまず難しいのだ。

われわれは技術に対する過信があるのではないかと思った。三重県は宮川ダムの管理所と防災センターとの間に3系統の通信手段を確保していたが、通常のNTTの有線電話はまっさきに役立たずとなった。次いで防災無線はカミナリでダウンした。頼みの衛星電話は厚い雨雲に遮断されて雑音ばかりだった。

今回の豪雨で悲惨だったのは、海山町が情報の孤島となったことである。停電に続き、NTTの機能がマヒしたから、中から被害状況を伝えることも、外から被害を取材することもできなくなった。ほぼ同時に宮川村において、土砂崩れで9人が下敷きになったという情報が入ったからメディアの関心は宮川村に集中した。この結果、ほぼ1日間、水没した海山町は忘れ去られた。死者が2人だったことが信じられないほどの状況だったにもかかわらずである。

このことで学んだのは、メディアが取材できる箇所はまだ被害が甚大でないということである。9人の犠牲が軽いというのではない。阪神大震災の時を思い起こせば、被害状況が分からない状況というのが一番恐ろしいということなのだ。情報が途絶した地域ではまさにそういう恐ろしい状況が起きているかもしれないのだ。

29日から1日まで、海山町への交通手段は徒歩と船しかなかった。100年前の交通手段だ。そして情報の伝達手段は話し言葉しかなかった。どのメディアもその被害を伝えられなかった反省から初めて分かったことである・

きのう10月2日、伊勢新聞主催の緊急防災シンポジウムがあり、コーディネーターを仰せ付かった。当然ながら豪雨被害が起きる前から設定されていた日程である。筆者以外は専門家ばかりだったが、事前打ち合わせのシナリオは完全に狂った。多くを語り尽くせなかっただろうが、パネリストたちとともに共有したのは、まず災害マニュアルは役に立たないということだった。そして災害に直面して起こす人々の行動が混乱を増幅させるということでもあった。

たとえば、大雨と台風21号の接近で学校が軒並み途中から休校となり、生徒たち、児童たちを帰宅させたが、多くの親たちが車で学校の近くまで迎えた。車が町にあふれ、冠水で寸断された道路の混乱に一層の拍車をかけたことは間違いない。連絡網の電話が携帯を含めて通信をさらに難しくさせたに違いないのだ。

後から分かったことは子どもたちの帰宅していた時間帯は、雲出川や櫛田川、宮川の水位が目いっぱい上がり、一番危険な時刻に相当していたことだった。

そういうことをするなというのではない。そういうことが起きるのだということをあらかじめ知っておくことは防災マニュアルにも明記しておく必要があるのだと思った。救急車はじめポンプ車など災害用の車両が渋滞に巻き込まれて、本来果たすべき機能をほとんど発揮できなかったのは、豪雨の影響だけでなかったのである。

情報の洪水がある一方で情報の枯渇が同時に起きるということも分かった。多くの認識を共有できたのは、きっと災害の恐ろしさを体で知った直後だったからだろう。

ある防災責任者の言である。

「実際に堤防の安全性を保証できない水位になっていました。よく考えると非常に恐ろしい事態でありました。私は小学生がこのような行動をとっていたことをその時は知りませんでした。夕方6時過ぎに妻からメールがあって市内の国道23号が冠水しているだけでなく、その他も大変な状況になっていることを知りました。もし、河川水位が最高水位になる時刻の前後で破堤していたら堤防周辺の車両や人々は濁流の中に飲み込まれたことでしょう。歩いている人がどれだけ河川の情報を取得する努力をするでしょうか」

寺田寅彦は1934年11月、雑誌『経済往来』に「天災と国防」を書き、現代の災害への警鐘を鳴らしている。「文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向がある」。先覚者の言葉を三重の人々とかみしめたい。

昨夜、この防災責任者はメールをもらった。「怖がりすぎたり,怖がらなさすぎたりするのは簡単だが,正しく怖がるのは難しいという言葉があります」とあったことを読者にお伝えしたい。

寺田寅彦「天災と国防」(あおぞら文庫より)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2509_9319.html
天災と国防 寺田寅彦(1934年11月「経済往来」
「非常時」というなんとなく不気味なしかしはっきりした意味のわかりにくい言葉がはやりだしたのはいつごろからであったか思い出せないが、ただ近来何かしら日本全国土の安寧を脅かす黒雲のようなものが遠い水平線の向こう側からこっそりのぞいているらしいという、言わば取り止めのない悪夢のような不安の陰影が国民全体の意識の底層に揺曳(ようえい)していることは事実である。そうして、その不安の渦巻(うずまき)の回転する中心点はと言えばやはり近き将来に期待される国際的折衝の難関であることはもちろんである。

そういう不安をさらにあおり立てでもするように、ことしになってからいろいろの天変地異が踵(くびす)を次いでわが国土を襲い、そうしておびただしい人命と財産を奪ったように見える。あの恐ろしい函館(はこだて)の大火や近くは北陸地方の水害の記憶がまだなまなましいうちに、さらに九月二十一日の近畿(きんき)地方大風水害が突発して、その損害は容易に評価のできないほど甚大(じんだい)なものであるように見える。国際的のいわゆる「非常時」は、少なくも現在においては、無形な実証のないものであるが、これらの天変地異の「非常時」は最も具象的な眼前の事実としてその惨状を暴露しているのである。

一家のうちでも、どうかすると、直接の因果関係の考えられないようないろいろな不幸が頻発(ひんぱつ)することがある。すると人はきっと何かしら神秘的な因果応報の作用を想像して祈祷(きとう)や厄払(やくばら)いの他力にすがろうとする。国土に災禍の続起する場合にも同様である。しかし統計に関する数理から考えてみると、一家なり一国なりにある年は災禍が重畳しまた他の年には全く無事な回り合わせが来るということは、純粋な偶然の結果としても当然期待されうる「自然変異(ナチュラルフラクチュエーション)」の現象であって、別に必ずしも怪力乱神を語るには当たらないであろうと思われる。悪い年回りはむしろいつかは回って来るのが自然の鉄則であると覚悟を定めて、良い年回りの間に充分の用意をしておかなければならないということは、実に明白すぎるほど明白なことであるが、またこれほど万人がきれいに忘れがちなこともまれである。もっともこれを忘れているおかげで今日を楽しむことができるのだという人があるかもしれないのであるが、それは個人めいめいの哲学に任せるとして、少なくも一国の為政の枢機に参与する人々だけは、この健忘症に対する診療を常々怠らないようにしてもらいたいと思う次第である。

日本はその地理的の位置がきわめて特殊であるために国際的にも特殊な関係が生じいろいろな仮想敵国に対する特殊な防備の必要を生じると同様に、気象学的地球物理学的にもまたきわめて特殊な環境の支配を受けているために、その結果として特殊な天変地異に絶えず脅かされなければならない運命のもとに置かれていることを一日も忘れてはならないはずである。

地震津波台風のごとき西欧文明諸国の多くの国々にも全然無いとは言われないまでも、頻繁(ひんぱん)にわが国のように劇甚(げきじん)な災禍を及ぼすことははなはだまれであると言ってもよい。わが国のようにこういう災禍の頻繁であるということは一面から見ればわが国の国民性の上に良い影響を及ぼしていることも否定し難いことであって、数千年来の災禍の試練によって日本国民特有のいろいろな国民性のすぐれた諸相が作り上げられたことも事実である。

しかしここで一つ考えなければならないことで、しかもいつも忘れられがちな重大な要項がある。それは、文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇烈の度を増すという事実である。

人類がまだ草昧(そうまい)の時代を脱しなかったころ、がんじょうな岩山の洞窟(どうくつ)の中に住まっていたとすれば、たいていの地震や暴風でも平気であったろうし、これらの天変によって破壊さるべきなんらの造営物をも持ち合わせなかったのである。もう少し文化が進んで小屋を作るようになっても、テントか掘っ立て小屋のようなものであって見れば、地震にはかえって絶対安全であり、またたとえ風に飛ばされてしまっても復旧ははなはだ容易である。とにかくこういう時代には、人間は極端に自然に従順であって、自然に逆らうような大それた企ては何もしなかったからよかったのである。
文明が進むに従って人間は次第に自然を征服しようとする野心を生じた。そうして、重力に逆らい、風圧水力に抗するようないろいろの造営物を作った。そうしてあっぱれ自然の暴威を封じ込めたつもりになっていると、どうかした拍子に檻(おり)を破った猛獣の大群のように、自然があばれ出して高楼を倒壊せしめ堤防を崩壊(ほうかい)させて人命を危うくし財産を滅ぼす。その災禍を起こさせたもとの起こりは天然に反抗する人間の細工であると言っても不当ではないはずである、災害の運動エネルギーとなるべき位置エネルギーを蓄積させ、いやが上にも災害を大きくするように努力しているものはたれあろう文明人そのものなのである。

もう一つ文明の進歩のために生じた対自然関係の著しい変化がある。それは人間の団体、なかんずくいわゆる国家あるいは国民と称するものの有機的結合が進化し、その内部機構の分化が著しく進展して来たために、その有機系のある一部の損害が系全体に対してはなはだしく有害な影響を及ぼす可能性が多くなり、時には一小部分の傷害が全系統に致命的となりうる恐れがあるようになったということである。

単細胞動物のようなものでは個体を切断しても、各片が平気で生命を持続することができるし、もう少し高等なものでも、肢節(しせつ)を切断すれば、その痕跡(こんせき)から代わりが芽を吹くという事もある。しかし高等動物になると、そういう融通がきかなくなって、針一本でも打ち所次第では生命を失うようになる。

先住アイヌが日本の大部に住んでいたころにたとえば大正十二年の関東大震か、今度の九月二十一日のような台風が襲来したと想像してみる。彼らの宗教的畏怖(いふ)の念はわれわれの想像以上に強烈であったであろうが、彼らの受けた物質的損害は些細(ささい)なものであったに相違ない。前にも述べたように彼らの小屋にとっては弱震も烈震も効果においてたいした相違はないであろうし、毎秒二十メートルの風も毎秒六十メートルの風もやはり結果においてほぼ同等であったろうと想像される。そうして、野生の鳥獣が地震や風雨に堪えるようにこれら未開の民もまた年々歳々の天変を案外楽にしのいで種族を維持して来たに相違ない。そうして食物も衣服も住居もめいめいが自身の労力によって獲得するのであるから、天災による損害は結局各個人めいめいの損害であって、その回復もまためいめいの仕事であり、まためいめいの力で回復し得られないような損害は始めからありようがないはずである。

文化が進むに従って個人が社会を作り、職業の分化が起こって来ると事情は未開時代と全然変わって来る。天災による個人の損害はもはやその個人だけの迷惑では済まなくなって来る。村の貯水池や共同水車小屋が破壊されれば多数の村民は同時にその損害の余響を受けるであろう。

二十世紀の現代では日本全体が一つの高等な有機体である。各種の動力を運ぶ電線やパイプやが縦横に交差し、いろいろな交通網がすきまもなく張り渡されているありさまは高等動物の神経や血管と同様である。その神経や血管の一か所に故障が起こればその影響はたちまち全体に波及するであろう。今度の暴風で畿内(きない)地方の電信が不通になったために、どれだけの不都合が全国に波及したかを考えてみればこの事は了解されるであろう。

これほどだいじな神経や血管であるから天然の設計に成る動物体内ではこれらの器官が実に巧妙な仕掛けで注意深く保護されているのであるが、一国の神経であり血管である送電線は野天に吹きさらしで風や雪がちょっとばかりつよく触れればすぐに切断するのである。市民の栄養を供給する水道はちょっとした地震で断絶するのである。もっとも、送電線にしても工学者の計算によって相当な風圧を考慮し若干の安全係数をかけて設計してあるはずであるが、変化のはげしい風圧を静力学的に考え、しかもロビンソン風速計で測った平均風速だけを目安にして勘定したりするようなアカデミックな方法によって作ったものでは、弛張(しちょう)のはげしい風の息の偽週期的衝撃に堪えないのはむしろ当然のことであろう。

それで、文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向があるという事実を充分に自覚して、そして平生からそれに対する防御策を講じなければならないはずであるのに、それがいっこうにできていないのはどういうわけであるか。そのおもなる原因は、畢竟(ひっきょう)そういう天災がきわめてまれにしか起こらないで、ちょうど人間が前車の顛覆(てんぷく)を忘れたころにそろそろ後車を引き出すようになるからであろう。

しかし昔の人間は過去の経験を大切に保存し蓄積してその教えにたよることがはなはだ忠実であった。過去の地震や風害に堪えたような場所にのみ集落を保存し、時の試練に堪えたような建築様式のみを墨守して来た。それだからそうした経験に従って造られたものは関東震災でも多くは助かっているのである。大震後横浜(よこはま)から鎌倉(かまくら)へかけて被害の状況を見学に行ったとき、かの地方の丘陵のふもとを縫う古い村家が存外平気で残っているのに、田んぼの中に発展した新開地の新式家屋がひどくめちゃめちゃに破壊されているのを見た時につくづくそういう事を考えさせられたのであったが、今度の関西の風害でも、古い神社仏閣などは存外あまりいたまないのに、時の試練を経ない新様式の学校や工場が無残に倒壊してしまったという話を聞いていっそうその感を深くしている次第である。やはり文明の力を買いかぶって自然を侮り過ぎた結果からそういうことになったのではないかと想像される。新聞の報ずるところによると幸いに当局でもこの点に注意してこの際各種建築被害の比較的研究を徹底的に遂行することになったらしいから、今回の苦(にが)い経験がむだになるような事は万に一つもあるまいと思うが、しかしこれは決して当局者だけに任すべき問題ではなく国民全体が日常めいめいに深く留意すべきことであろうと思われる。

小学校の倒壊のおびただしいのは実に不可思議である。ある友人は国辱中の大国辱だと言って憤慨している。ちょっと勘定してみると普通家屋の全壊百三十五に対し学校の全壊一の割合である。実に驚くべき比例である。これにはいろいろの理由があるであろうが、要するに時の試練を経ない造営物が今度の試練でみごとに落第したと見ることはできるであろう。

小学校建築には政党政治の宿弊に根を引いた不正な施工がつきまとっているというゴシップもあって、小学生を殺したものは○○議員だと皮肉をいうものさえある。あるいは吹き抜き廊下のせいだというはなはだ手取り早で少し疑わしい学説もある。あるいはまた大概の学校は周囲が広い明き地に囲まれているために風当たりが強く、その上に二階建てであるためにいっそういけないという解釈もある。いずれもほんとうかもしれない。しかしいずれにしても、今度のような烈風の可能性を知らなかったあるいは忘れていたことがすべての災厄(さいやく)の根本原因である事には疑いない。そうしてまた、工事に関係する技術者がわが国特有の気象に関する深い知識を欠き、通り一ぺんの西洋直伝(じきでん)の風圧計算のみをたよりにしたためもあるのではないかと想像される。これについてははなはだ僣越(せんえつ)ながらこの際一般工学者の謙虚な反省を促したいと思う次第である。天然を相手にする工事では西洋の工学のみにたよることはできないのではないかというのが自分の年来の疑いであるからである。

今度の大阪(おおさか)や高知(こうち)県東部の災害は台風による高潮のためにその惨禍を倍加したようである。まだ充分な調査資料を手にしないから確実なことは言われないが、最もひどい損害を受けたおもな区域はおそらくやはり明治以後になってから急激に発展した新市街地ではないかと想像される。災害史によると、難波(なにわ)や土佐(とさ)の沿岸は古来しばしば暴風時の高潮のためになぎ倒された経験をもっている。それで明治以前にはそういう危険のあるような場所には自然に人間の集落が希薄になっていたのではないかと想像される。古い民家の集落の分布は一見偶然のようであっても、多くの場合にそうした進化論的の意義があるからである。そのだいじな深い意義が、浅薄な「教科書学問」の横行のために蹂躙(じゅうりん)され忘却されてしまった。そうして付け焼き刃の文明に陶酔した人間はもうすっかり天然の支配に成功したとのみ思い上がって所きらわず薄弱な家を立て連ね、そうして枕(まくら)を高くしてきたるべき審判の日をうかうかと待っていたのではないかという疑いも起こし得られる。もっともこれは単なる想像であるが、しかし自分が最近に中央線の鉄道を通過した機会に信州(しんしゅう)や甲州(こうしゅう)の沿線における暴風被害を瞥見(べっけん)した結果気のついた一事は、停車場付近の新開町の被害が相当多い場所でも古い昔から土着と思わるる村落の被害が意外に少ないという例の多かった事である。これは、一つには建築様式の相違にもよるであろうが、また一つにはいわゆる地の利によるであろう。旧村落は「自然淘汰(しぜんとうた)」という時の試練に堪えた場所に「適者」として「生存」しているのに反して、停車場というものの位置は気象的条件などということは全然無視して官僚的政治的経済的な立場からのみ割り出して決定されているためではないかと思われるからである。

それはとにかく、今度の風害が「いわゆる非常時」の最後の危機の出現と時を同じゅうしなかったのは何よりのしあわせであったと思う。これが戦禍と重なり合って起こったとしたらその結果はどうなったであろうか、想像するだけでも恐ろしいことである。弘安(こうあん)の昔と昭和の今日とでは世の中が一変していることを忘れてはならないのである。

戦争はぜひとも避けようと思えば人間の力で避けられなくはないであろうが、天災ばかりは科学の力でもその襲来を中止させるわけには行かない。その上に、いついかなる程度の地震暴風津波洪水(こうずい)が来るか今のところ容易に予知することができない。最後通牒(さいごつうちょう)も何もなしに突然襲来するのである。それだから国家を脅かす敵としてこれほど恐ろしい敵はないはずである。もっともこうした天然の敵のためにこうむる損害は敵国の侵略によって起こるべき被害に比べて小さいという人があるかもしれないが、それは必ずしもそうは言われない。たとえば安政元年の大震のような大規模のものが襲来すれば、東京から福岡(ふくおか)に至るまでのあらゆる大小都市の重要な文化設備が一時に脅かされ、西半日本の神経系統と循環系統に相当ひどい故障が起こって有機体としての一国の生活機能に著しい麻痺症状(まひしょうじょう)を惹起(じゃっき)する恐れがある。万一にも大都市の水道貯水池の堤防でも決壊すれば市民がたちまち日々の飲用水に困るばかりでなく、氾濫(はんらん)する大量の流水の勢力は少なくも数村を微塵(みじん)になぎ倒し、多数の犠牲者を出すであろう。水電の堰堤(えんてい)が破れても同様な犠牲を生じるばかりか、都市は暗やみになり肝心な動力網の源が一度に涸(か)れてしまうことになる。

こういうこの世の地獄の出現は、歴史の教うるところから判断して決して単なる杞憂(きゆう)ではない。しかも安政年間には電信も鉄道も電力網も水道もなかったから幸いであったが、次に起こる「安政地震」には事情が全然ちがうということを忘れてはならない。

国家の安全を脅かす敵国に対する国防策は現に政府当局の間で熱心に研究されているであろうが、ほとんど同じように一国の運命に影響する可能性の豊富な大天災に対する国防策は政府のどこでだれが研究しいかなる施設を準備しているかはなはだ心もとないありさまである。思うに日本のような特殊な天然の敵を四面に控えた国では、陸軍海軍のほかにもう一つ科学的国防の常備軍を設け、日常の研究と訓練によって非常時に備えるのが当然ではないかと思われる。陸海軍の防備がいかに充分であっても肝心な戦争の最中に安政程度の大地震や今回の台風あるいはそれ以上のものが軍事に関する首脳の設備に大損害を与えたらいったいどういうことになるであろうか。そういうことはそうめったにないと言って安心していてもよいものであろうか。

わが国の地震学者や気象学者は従来かかる国難を予想してしばしば当局と国民とに警告を与えたはずであるが、当局は目前の政務に追われ、国民はその日の生活にせわしくて、そうした忠言に耳をかす暇(いとま)がなかったように見える。誠に遺憾なことである。

台風の襲来を未然に予知し、その進路とその勢力の消長とを今よりもより確実に予測するためには、どうしても太平洋上ならびに日本海上に若干の観測地点を必要とし、その上にまた大陸方面からオホツク海方面までも観測網を広げる必要があるように思われる。しかるに現在では細長い日本島弧(にほんとうこ)の上に、言わばただ一連の念珠のように観測所の列が分布しているだけである。たとえて言わば奥州街道(おうしゅうかいどう)から来るか東海道から来るか信越線から来るかもしれない敵の襲来に備えるために、ただ中央線の沿線だけに哨兵(しょうへい)を置いてあるようなものである。

新聞記事によると、アメリカでは太平洋上に浮き飛行場を設けて横断飛行の足がかりにする計画があるということである。うそかもしれないがしかしアメリカ人にとっては充分可能なことである。もしこれが可能とすれば、洋上に浮き観測所の設置ということもあながち学究の描き出した空中楼閣だとばかりは言われないであろう。五十年百年の後にはおそらく常識的になるべき種類のことではないかと想像される。

人類が進歩するに従って愛国心も大和魂(やまとだましい)もやはり進化すべきではないかと思う。砲煙弾雨の中に身命を賭(と)して敵の陣営に突撃するのもたしかに貴(たっと)い日本魂(やまとだましい)であるが、○国や△国よりも強い天然の強敵に対して平生から国民一致協力して適当な科学的対策を講ずるのもまた現代にふさわしい大和魂の進化の一相として期待してしかるべきことではないかと思われる。天災の起こった時に始めて大急ぎでそうした愛国心を発揮するのも結構であるが、昆虫(こんちゅう)や鳥獣でない二十世紀の科学的文明国民の愛国心の発露にはもう少しちがった、もう少し合理的な様式があってしかるべきではないかと思う次第である。

(昭和九年十一月、経済往来)