執筆者:園田 義明【萬晩報通信員】

■鉄道業と金融資本と鉄道帝国主義

「19世紀後半のほとんど全体をつうじて、鉄道は北部資本主義において支配的であった。(中略)アメリカ経済の発展における鉄道の特殊な重要性と更には南北戦争との結果、ウォール街は早くから経済上支配的な地位を得、これを放棄したことは決してなかった。」(ポール・M・スウィージー『歴史としての現代』(岩波書店)より)

「発起人、金融家および債権販売人の役を兼ね備えた投資銀行家は、1880年代および1890年代においてアメリカの厖大な鉄道網をつくりあげ、再編成し統合するのにもっぱら与って力があった。投資銀行家は、90年代の不況の後に産業界に進出するや、ついには1907年の恐慌となって終わったところの創業と企業統合の大波の中で際立った存在となった。」(『歴史としての現代』岩波書店より)

「鉄道は資本主義の歴史において独特の地位を占めている。19世紀の後半と20世紀の初期の期間における鉄道網の建設は莫大な額の資本を直接に吸収した。資産の増大にかんする10年ごとのセンサスの資料は1850年から1900年にかけて、鉄道にたいする投資額は製造工業全体にたいする投資額を上回っていたことを示している。(中略)独占過程が現実に確立された19世紀の最後の20年間には民間資本形成の40ないし50パーセントは鉄道においておこなわれたといって差し支えないであろう。ひとつの産業にこのように投資が集中したことはたしかにあとにも先にも比べるものがない。」(バラン&スウィージー『独占資本』岩波書店より)

こうしたスィージー等の帝国主義の立場からの鉄道研究に対して、最近では鉄道の立場からグローバルな視点で帝国主義を論じた「鉄道帝国主義」がオックスフォード大学のロナルド・E・ロビンソン名誉教授などによって発表されている。この日本人も注目すべき「鉄道帝国主義」の定義も紹介しておきたい。

『ヨーロッパ中心の視点からすると鉄道建設は非公式帝国建設の手段であった。その意味では、鉄道建設はヨーロッパ膨張によって決定づけられたといってよい。本書で試みる「鉄道帝国主義」という概念は、鉄道が非公式帝国に仕えただけでなく、その主要な創出者であったことを示唆する。この意味では、帝国主義は鉄道によって決定づけられたといえる。民間資本の動向と帝国の戦略とのはざまで、高度な輸送技術の伝達が、鉄道帝国主義に内在する勢いにはずみをつけていった。イギリスの膨張主義者のなかでもっとも老朽なソールベリーは、1871年にこう予言した。「小さな王国は、世界の運命によって破滅を余儀なくされている・・・・。現代の巨大な組織と大規模な交通機関によって、将来はいくつかの帝国のものとなるだろう。」(『鉄路17万マイルの興亡 鉄道からみた帝国主義』日本経済評論社より)

この『鉄路17万マイルの興亡 鉄道からみた帝国主義』(原題はRailway Imperialism)の訳者(原田勝正、多田博一監訳)による解説には“excentric”や“excentrism”を「外縁部」、“sub-imperialism”を「外縁部帝国主義」と訳した理由が書かれている。この重要な用語には確かに地政学的な意味合いも含まれていることから、外縁部とした訳者の努力は高く評価するものの、主体がどちらにあるかの意味で混乱を生みだしているように思われる点が残念である。

■日本の鉄道史

ロナルド・E・ロビンソンは鉄道融資における貸し手と借り手の関係にもこう言及している。

「貸し手と借り手の共通の利害は、建設国の政治経済に二つの大きな影響をもたらした。第一に、機関車は経済成長をヨーロッパの産業の補完的なものにし、政策を自由貿易の方向に導いた。第二に鉄道が建設される地域は、半植民地経済を通じて貸し手の国との政治的提携を強めた。1914年まで鉄道は帝国、金融、商業の利害を結ぶ表面に出ない協力関係の主要な要因となり、「非公式」帝国の形成をもたらしたのである。」

日本の鉄道史もまさに借り手からスタートしている。1872年(明治5年)10月14日、明治天皇をはじめ政府高官や各国公使を乗せた祝賀列車が横浜に向けて東京新橋駅を発車した。多くの人が見守る中で、日本最初の東京・横浜間鉄道が開業したのである。

明治維新以前にも、開国を契機に鉄道に関する情報がわが国へ伝達され、幕府(フランスの銀行家であるフリューリー・エラールが関与)、薩摩藩の五代友厚、在日英仏人などが具体的な鉄道建設計画を作成していたが、いずれも実現するにはいたらなかった。

明治維新後の1869年11月5日に右大臣三条実美の邸宅で、英国公使サー・ハリー・パークスと政府代表者(大納言岩倉具視、外務卿沢宣嘉、大隈重信、伊藤博文、井上勝など)の間で、鉄道建設に関する非公式会談が行われ、パークスの日本人による鉄道建設は可能であるとの意見によって、日本初の鉄道実現が大きく動き出すことになる。

大隈と伊藤が構想したのは東京を基点とし、東海道を経由して京都、大阪を経て神戸に至る幹線と、京都より分かれて敦賀に至る支線であった。政府は、財政に余力がないために商人に働きかけて建設しようとしたが、300万ポンドとされた工事費は日本国内だけで調達できる金額ではなかった。

この時パークスの紹介で英国人資産家ハラチオ・ネルソン・レイが大隈と伊藤に対して鉄道建設資金提供を申し入れ、契約を結ぶことになる。しかし、レイは政府に対して外債発行の条件を1割2分としながら、実際には9分で募集していたことが発覚したため、大隈と伊藤はオリエンタル銀行の協力のもとにレイとの契約を破棄し、新たに同銀行を通じて9分利付きで外債100万ポンドを募集することになった。また、東京・横浜間鉄道の建設工事は1870年から開始され、助っ人としての建築師長には英国人青年技師エドモンド・モレルが就任した。

ここに外資と外国人助っ人導入による鉄道の事業スキームが構築されたのである。あくまでも建設主体は日本であったが、この時すでに長州出身の参議・兵部大輔の前原一誠のように「是こそ真に国を売る賊臣なり」と激しく非難する者が姿を見せていた。

■大久保利通の地政学的警戒心

当時の英国は、植民地の国々での反乱が多発したことから、戦略を変更していた。そして、東京・横浜間鉄道の成功は、ロビンソンの言葉のように日英間における帝国、金融、商業の利害を結ぶ表面に出ない協力関係の主要な要因となり、日本は「非公式」帝国の一員となった。

しかし、このことを強い警戒心を持って見ていた人物がいた。薩摩出身のリアリスト、大久保利通である。このあたりの事情は『工部省とその時代』(山川出版社)に詳しいが、大久保は1871年から岩倉遣欧使節団の副使として欧米各国を巡遊し、英国での運河を行き来する船と高速で移動する鉄道に衝撃を受け、英仏の植民地化の恐ろしさを説くビスマルクに影響される。帰国後の大久保は自信を喪失し、英仏が日本に投資することによって最終的には植民地化するのではないかとの疑念を深めていく。

そして、大久保は1875年に助っ人外国人を大幅に減員する方針を打ち出すが、この時同時に、横須賀造船所の技師長であるウィルニーをはじめとする助っ人フランス人全員を解雇する事件が起こる。ナポレオン三世からの密令によってウィルニーが横須賀造船所をフランスの極東におけるブリッジヘッド(橋頭堡)にしようとしているとの情報がもたらされたからだ。

拙著『最新アメリカの政治地図』でも取り上げたように地政学の重要用語であるブリッジヘッドはシー・パワーがランド・パワーに挑む際の足場となり得る強靱さと地理的な条件を兼ね備えた重要拠点を意味する。中国を視野に入れる英仏米が日本をブリッジヘッドと位置付けていた可能性は否定できず、むしろこうした背景から日本に強靱さを根付かせるべく支援を行っていたとする見方も出来る。

大久保は帰国後、運輸と物流に注目し内務省を設立、英仏への警戒心から水運網重視のオランダ型殖産興業政策を打ち出し、鉄道を柱とする英国に傾斜した工部省を次第に追いつめていく。しかし、大久保は1878年に暗殺され、同じ薩摩出身の松方正義が後を引き継ぐが、工部省を牛耳る伊藤博文率いる長州閥に主導権が移ることになる。(長州が出てくると常にその国際感覚無きために混乱が巻き起こる。現在の安倍晋三も然りである。)

この大久保は岩倉遣欧使節団の経験から新旧世代交代と国際派知識人の必要性を痛感するが、すでに岩倉遣欧使節団には大久保のわずか11歳の次男も同行させ、そのまま津田梅子らとともに米国に留学させていたのである。

この次男が米国留学中の印象について後の自身の日記の中でこう記している。

「米国に滞在中の印象と言っても、子供のことだから特に観察など出来たわけはないが、ただ感じたのは、一体フィラデルフィアはクエーカー宗徒の平和主義的な気分が強く、そこにいたのでアメリカは非常に平和的なピューリタン主義な国だという印象を受けた。そしてその後のアメリカの西部が開け、貿易が発達し、富の蓄積が顕著になるに従って海外への投資も増加して、第一次大戦後にはアメリカが世界において指導的な地位を占めるに至っても、この文化を頭に入れて、アメリカというものに対する気分を変えるのに大分時間が掛った。」

これは中公文庫の『回顧録(上)』の33ページからの引用であるが、その筆者は外務省入省後、福井県知事、公使、文相、枢密顧問官、農商務相、外相の要職を経て、第一次大戦のパリ講和会議には西園寺公と共に全権となり、その後、宮内大臣、内大臣を歴任し元老的役割をはたした牧野伸顕である。一方で、牧野は三菱財閥と深い繋がりも持っていた。

すでに紹介した吉田茂から現在の麻生太郎につながる日本の保守本流のカトリック

家系の始祖こそが大久保利通の次男である牧野であった。また、牧野の回顧録から、

すでに牧野自身がカトリックに対して共感を抱いていたことも読みとれる。

そして、第二世代キリスト教人脈を多数輩出するきっかけをつくったクエーカー=新渡戸稲造の第一高等学校(一高、後に東大に合流)の校長就任も、当時の文相である牧野の発案であり、新渡戸が国連の前身である国際連盟の初代事務次長就任を後押ししたのも牧野、後藤新平、そしてメソジスト派クリスチャンとして駐米大使や昭和天皇の侍従長を歴任する珍田捨己であった。この天皇家の側近であった牧野と珍田の宗教観は貞明皇后を通じて天皇家にも入り込んでいった。

牧野が米国で過ごしたのは1871年からの3年間を米国で過ごしている。つまり、スウィージーが描いた時代と重なっている。次章では牧野が見た米国の変化、すなわち富の蓄積の様子を見ていきたい。

▼参考

外債発行を引き受けたオリエンタル銀行は1842年にバンク・オブ・ウェスタン・インディアとしてインド・ボンベイで設立され、1845年にロンドンに本社を移転した時にオリエンタル銀行となり、一時は中国、香港、日本、インド、モーリシャス、南アフリカに支店を開設し、この地域で支配的な位置に立ったこともある。しかし、セイロンでのコーヒー・プランテーションへの投資失敗から、1892年に静かに幕を閉じている。