フランクリンとの出会い 夜学会171
講師:伴武澄
日時:9月25日(金)午後7時から
場所:はりまや橋商店街Water Base
雷雨の中、凧を上げている男の図。ベンジャミン・フランクリンの名前を知ったのはいつのことだったか覚えていない。雷が電気であることを証明した人だった。萬晩報を発刊してから、フランクリンのことを思い出した。数十万ボルトにも及ぶ電圧の中に凧を飛ばすなどありえないと閃き、『フランクリン自伝』を読むことになった。どうやら、この命がけの実験は本当にあったことのようだった。フランクリンはこの実験のお蔭でイギリス王立協会の会員となった。1752年だから、アメリカ独立戦争が起きる10年以上も前のことである。当時、電気といえば、ライデン瓶ぐらいしか知識がなかった時代である。
『フランクリン自伝』を読むうちにいろいろなことが分かった。フランクリンの両親はイギリスからの貧しい移民で、自身は12歳の時、ボストンの印刷所に丁稚に出された。あー、アメリカにも丁稚なる制度があったのかと考えさせられた。植民地の政治の中心地だったフィラデルフィアに出て、印刷屋として成功を収め、『ペンシルベニア・ガゼット』紙を買収した。20歳代のことである。フランクリンは10歳までしか学校へ行っていなかった。印刷所で文字に目覚め独学で学んだこともあった本に対するあこがれがあり、仲間を集めてアメリカで初めての図書館を設立した。公共図書館のはしりとされる会員制の図書館だった。フィラデルフィアでは41歳で郵便局長に就任し、フィラデルフィア・アカデミー(後のペンシルベニア大学)を創設した。雷の実験はそのころのことである。
1776年には5人の起草委員の1人としてアメリカ独立宣言に署名する。このことはみんな知っているはずだが、雷の実験のフランクリンと革命家フランクリンがどうもつながらない。フランクリンが学びの場としてのアカデミーを創設したのは多分、世の中に対する疑問がスタートラインとなっていたのではないかと思われる。
今日、話をしたいのは図書館とアカデミー創設という学び舎をつくったことである。アートとサイエンスのためには図書館と学び舎が不可欠なのは今も昔も同じだろう。
1728年、イギリスのイーフレイム・チェンバーズがに『サイクロペディア、または諸芸諸学の百科事典』を出版している。タイトルが「Art and Science」だった。この本は各項目がアルファベットの順に配列されていたことに注目しなければならない。18世紀、フランス革命の前、パリを中心に百科全書派という一群の人々が登場する。フランス啓蒙思想運動の一環としてダランベール、ディドロ、ヴォルテール、ルソーらが『百科全書』 (L’Encyclopédie)を発行した。音楽、芸術から科学技術を網羅した書籍。いわゆる「なぜなぜ本」である。日本でも同じころ「和漢三才図会」が作られているから面白い。
アメリカの大学には学部がないことを知らされたのは最近のことである。リベラル・アーツといって「教養」を学ぶ場であって、日本でいえば「旧制高校」のような学び舎なのだ。アートとサイエンスという言葉が持つ意味に注目したのも最近のことである。