否定できない国家が権力機構という公理
 「天は人の上に人を作らず」といったのは福沢諭吉である。
 いまの日本人にはすらすら読んで何の抵抗もないだろうが、少し格好をつけすぎてはいないだろうか。聞こえはいいが読み方によっては、リーダーシップ、さらには国家権力の存在そのものを否定するように受けとられる。
 そのことばに耳慣れている普通の日本人にはけっこう、この言葉の暗示にかかっているフシがあるから恐ろしい。
 デモクラシーを民主主義と訳したことも、同じような暗示を与えた。民が主(あるじ)だというなら、主の上に権力があったらおかしい。同じような暗示の危険が「主権在民」ということばにも潜んでいる。
 そんな言葉の遊戯とかかわりなく、どんなデモクラシーの国にも国家権力は厳然としてある。国民が選んだ大統領や首相の権力は強大で、立憲君主制下の君主にひけを取らない。権力の行使を分掌する役人の数だって、王制でなくなっただけで半分に減るものではない。
 税務署はどっちの場合だってこわい存在であることに変わりはない。
 それはそうだろう。もともと国家というものは権力機構だからこそ国家なのだ。だからデモクラシー思想もまた、当然のことながら国の統治に権力の不可欠なことを公理として認め、それを基軸に思想が展開されている。
 だが恐ろしいのは、この肝腎かなめののところで、さきほど言ったような暗示にかかってデモクラシーを無政府主義だと錯覚してしまうことである。この暗示から抜けきらないでいると、デモクラシーそのものが別のものに見え、無政府主義思想特有の観念論が割り込んできて建設的なディベートが”電波障害”を受ける。
 (続く=伴 正一『魁け討論 春夏秋冬』1998年09月01日付コラムから転載)