「友愛」と名のつく病院は全国に数かぎりない。「友情」と「愛情」を掛け合わせたもの、キリスト教の友愛からつけたもの、命名の動機はひとつやふたつではないと思う。
 1919年、賀川豊彦の要請で友愛診療所が神戸のスラムに誕生した。医師は徳島県出身の若き馬島僴である。賀川は1909年にそのスラムに住み付き、貧しい人々の魂の救済に当たっていた。自らの”組織”を「救霊団」と名付け、その名前は後にイエス団となった。イエス団は魂の救済のほかに多くの事業を行った。いわゆる「防貧事業」である。そのひとつが友愛診療所だった。なぜ「友愛」なのか分からないが友愛と命名された。
 『賀川豊彦の贈りもの』などの著書のある鳥飼慶陽牧師が最近、賀川の一番弟子だった武内勝の子息から賀川の書簡や写真などの入った「宝物」を授かった。少しずつ整理・解読作業を進めている。その中から、大正9年3月7日付け神戸新聞の切り抜きを探し出した。馬島僴氏のスラムでの活躍について書かれた貴重な史料だ。
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 ところで、馬島医師の神戸での働きについては、葺合新川での「イエス団友愛救済所」(財団法人、大正7年8月27日設立)での働きがよく知られているが、彼が一家を挙げて住み込んで診療活動を行なった林田区(現在長田区)番町が彼の活動拠点であったようである。番町の名望家として知られる大本甚吉氏の協力もあってその持ち家のひとつ(五番町5丁目81)に診療所を設け「イエス団友愛救済所」の「出張所」としたのである。
 下記に紹介するのは、大正9年(1920年)3月7日付けの「神戸新聞」である。時代を髣髴させる記述であるが、今ではこれも貴重な記録である。殆ど句読点のない記事で、ここでは段落をいれるなど、いくらか読みやすくして取り出しておく。(2009年6月3日記す。鳥飼慶陽)
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 虐げられた人々の為に身を委す若き医師 
   新川部落の憐れな貧困者を闇から救ふ友愛診療所
 昨年七月頃から、市内の葺合新川及び長田番町の二ヶ所に友愛診療所というのが置かれて、貧困者に対し無料で診療が施されている。同所のお医者さんは、すべての病者に対する取り扱いが丁寧で、動かせぬ患者には往診もしているが、親切なその診察振りに部落の人達は、あたかも神様のように崇めている。
 そのお医者さんというのは、一昨年名古屋の医専を卒業した馬島僴氏で、一年ばかり郷里の徳島に帰り、祖父である若林医学博士のもとにあって医学の研究をしていたが、同氏は中学時代から杜翁の著書を好んで読んでいたが、医専を卒業して実社会に触れるようになってからは、気の芽生でか少なからず杜翁に私淑して何かやらなければならぬという心の悶えで、南洋を志しては南洋方面に関する書籍を渉猟し、北海道を志してはさらに北海道に関する書籍や田地を知る人達の意見などを叩いて見た結果、どうしてもジッとしていることが出来なくなり、
 昨年五月、名をレントゲンの研究に籍りて郷里を飛び出し、当地で計らず賀川豊彦氏に邂うて、一夕氏から虐げられている暗黒な社会層の有様を聞き、解放されたといっても繋縛から免れ得ず、益々藻掻きに藻掻きつつある彼等の生活、氏のこれに関する研究を聞いて、心は頓に動いて、遂に賀川氏と約束して、米国の伝道局から資金を仰ぐことになり、翻然北海道行きを廃めて、これらの社会層を研究し、自らその中に投じて、之が救済の手を差し伸べるべく、
 昨年七月、先ず新川の賀川氏の許に友愛診療所を置き、次いで間もなく番町大本氏方に同様の診療所を設けて施療することになったが、徹底的に彼らを研究し救済するには、彼等の部落に全然身を投じなければならぬというので、今まで須磨町西代に私宅を構えていたのを、
 先月二十日に家族全部を引具して、前記番町の診療所に引き移ったが、この時などは同町青年団の連中が勇み立って、氏の一家を連へ引越しの準備万端を整えて呉れたというが、現在同所には氏の妻女を始め母堂、令妹、令息などを迎え入れ、現に令妹はまだうら若い身をこの部落に投じ、白い看護婦服に包んで令兄の手助けをしているが、
 馬島氏は曰く「只私は、人間として一切平等であるべき筈の人が、習慣の為に、社会の繋縛から脱し得ずに苦しんでいる人達を憐れに思うのです。先ず私は、茲二年なり乃至三年なりを只黙して研究し、この不幸な人達の真の友人として生きねばなりませぬ。これが私の一生の仕事になるでしょう」と深い決心の色を示している。