今日は天安門事件から20年目の6月4日。1989年はベルリンの壁が崩壊し、サミットで初めて環境と経済の調和の必要性が議論された。日本では天皇が崩御し、リクルート問題で竹下首相が辞任した。東京証券取引所の平均株価はピークの3万9000円を付けるなどバブルの絶頂だった。日本にとっても大きな節目の年であった。筆者は4月から外務省を担当し、いくつかの節目の取材に携わった。
 担当して最初のテーマはOECD閣僚会議とサミット(当時は先進七カ国首脳会議=アルシュ・サミット)。主要議題が何になるのかに関心が集まった。度肝を抜いたのは日経新聞が「環境がサミットの議題に」という記事を一面トップに掲載したことだった。まだ「環境」などという言葉が見出しに躍る時代ではなく、「公害」が一般的だった。冷蔵庫やクーラーに冷却媒体として使うフロンは問題になっていたが、「地球温暖化」は初めて聞く言葉だった。抜かれたというよりも「環境ってなんだ」「世界経済を語る場で何が環境なのか」といった疑問の方が大きかった。
 5月末からOECD閣僚会議などに出席する外相、通産相などの同行取材でパリとデンハーグを訪れた。デンハーグのホテルで朝、テレビをつけると天安門広場が映っていた。広場に居座る学生たちに対して、党中央は軍隊を出動させたのだった。本社に電話すると「経済の原稿はいらん。ホメイニも死んだ」。編集局は中国一色となっていた。そもそも日本ではリクルート事件で竹下登首相が退陣し、3日に宇野宗佑外相が後継首相に就任したばかりだった。世界が大きく動いた時期に自民党はとんでもない人物を首相にすえてしまっていたのだった。
 学生たちは胡耀邦元総書記の追悼のため、4月から天安門広場に入り、民主化を求めてそのまま抗議行動を続けていた。5月に入るとゴルバチョフ書記長の北京訪問があり、世界中のメディアが北京にやってきて、天安門広場で起きている学生たちの行動を衛星放送で中継し始めた。衛星放送の黎明期でもあり、天安門広場での出来事はそのままCNNの衛星放送を通じて、世界各地の茶の間で放映されたのだ。天安門事件は、その後の湾岸戦争に先立って、CNNがワールドワイドなネットワークを確立するきっかけとなったメディアにとっても大きな事件だった。
 天安門広場での学生たちの動きはどう発展するのか、外務省中国課でも議論が続いていた。筆者の取材では6・4の直前まで「大したことにならない」と楽観的だった。西側メディアは「虐殺」と見出しを打ったところもあった。筆者の頭に浮かんだのは「奪権闘争」という文字だった。文化大革命を経て、鄧小平が3回目の復活を果たし、1978年から改革開放が始まったが、中国政治は安定からほど遠かった。巨額の日本の資金供与(円借款)を得て経済の安定を図り、かろうじて政権を維持していたのが、鄧小平派だった。
 天安門事件の伏線は前の年からあった。1988年夏、北京ではインフレ論争で熱くなっていた。経済の過熱でインフレ率は2割を超え3割に達しようとしていた。1987年に胡耀邦はすでに失脚し、趙紫陽が総書記に就任していた。改革派の趙紫陽はそのまま中央突破を図ろうとしていたが、李鵬ら保守派は経済調整が必要だと巻き返し、指導層では水面下で保守派が主導権を握りつつあった。筆者も同行した9月のた日中経協の訪中ミッションでトップ会談の相手が突如、趙紫陽から李鵬に変更した。会談相手が変わるということは中国の路線変更の証しでもあった。
 表面上は経済成長をめぐる路線対立のようにみえたが、実は革命以来、中国共産党内で続く奪権闘争の延長だったのだ。文革は劉少奇を筆頭とする実権派に対して毛沢東らが起こした奪権闘争だった。文革後は鄧小平ら改革派と李鵬ら保守派の微妙なバランスの下で中国は経済改革を進めていたが、天安門事件を引き金に党内抗争が爆発寸前となったと解釈すべきなのだ。
 筆者は天安門事件について「自由化抑圧」などという安易な批判を避けてきた。危機的状況を背景に、鄧小平としても、泣いて馬謖を斬らざるを得なかったのだと解釈している。あのまま趙紫陽路線を続けていれば、文革に伍した動乱に突入した可能性は非常に高かったはずで、現在の経済的繁栄もなかったことだけは確かだ。
 中国が動乱に陥れば、アジアどころか国際政治が大きな混乱に陥る。ここ10年、日本の知識人や報道の中でも反中国の論調が強まっているが、昔も今も中国は日本を必要としているはずである。(伴武澄)