2009年10月15日、同志社で行われた講演会「賀川豊彦のキリスト教と協同組合」で、伴武澄は「甦る賀川豊彦の平和思想」と題して講演した。以下はその講演内容である。
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 皆さん、こんにちは。というか、もうこんばんはですね。最初にちょっと自分のことを紹介したいと思います。僕は高知県の生まれです。賀川豊彦は神戸で生まれたんですが、実家は徳島で、4歳から中学まで徳島で育っています。ですから非常に親しみを持って感じています。
 僕は、中学、高校の時代、南アフリカという国で育ちました。アングリカンチャーチ(イギリス国教会)が経営しているミッションスクールに2年半ほど通いました。毎朝、礼拝がありました。日曜日にある日もありました。人種差別の国だということはご存じですね。1992年マンデラ首相が誕生するまで、白人と黒人と言いますか、ヨーロピアンとノンヨーロピアンに分けられて生活し、暮らす、そういう社会が実は17年前までありました。 当時の白人の人口が400万人。黒人の人口が1,600万人。4倍もの人を白人が実質的に支配している国があったんです。17年前ですよ。多分、ここで17年前に生まれていない人はいませんよね。物心もついていない人はいませんよね。私は1960年代、そこに3年近くいまして、非常につらい思いをしました。
 理由は2つありました。一つは自分が差別されることです。僕の父は外交官でした。外交特権というのがあるんですが、公立学校には入れてくれません。法律では、ヨーロピアンでないから入れられない。そういう国と外交関係を結んでいる日本というのがあほなんですが、父は仕方ないと言っていました。日常生活では、常に加わってくる圧力といいますか、視線といいますか、を感じていました。日本人は一応「オナラブルホワイト」、名誉白人ということで、レストランなどは入れましたし、ホテルも泊めてもらえたんですけれども、レストランで食事をしていると、鋭い視線がこちらに向かっているのが分かるんです。「なんでおまえはここにいるんだ」。そんな視線です。
 もう一つは、黒人が差別されることです。南アフリカでは法律がそうなっていますから、当然です。中国人もインド人も差別される。問題はその差別される人たちをさげすむ日本人がたくさんいたということなんですね。おじさん、おばさんたちは、黒人が差別されて当然だと言わんばかりのような発言をたくさんしていました。こういう経験をした人は日本人は少ないと思います。
 嫌で嫌でしようがなかった南アフリカでの生活を切り上げて帰ってきたら、今度は日本でいじめられるのです。何を言われたか。「きざだ」。当時。外国から帰る人はほとんどいなかったんですね。英語の発音がちょっといいだけで、「きざだ」と言われる。今のいじめですね。当時いじめなんて言う言葉はまったくありませんね。どうしてアフリカで差別されて、日本でいじめられなきゃいけないのかと思いました。
 結果的にそれで、いろいろなものが信じられなくなりました。もちろん、キリスト教も含めてです。なんでキリスト教を信じている国で厳然として人種差別があるのか。賀川豊彦批判の一つに「賀川豊彦は差別主義者だった」という批判があります。賀川が差別主義者だというなら、南アフリカの400万人の白人はほとんどクリスチャンですから、全員が差別主義者に違いない。
 当時のアメリカには「I have a dream」という言葉を残したキング牧師がいました。そのとき、何でああいうことを言うのか分かりませんでした。後で知ったのはサウスキャロライナでは、黒人の行く学校と白人の行く学校が違っていたことです。バスも前と後ろに分かれていたんです。南アフリカと同じ差別がアメリカにもあったのです。一つ違うことは、アメリカ合衆国憲法では、黒人の差別を認めていなかった。それだけです。でも実態は同じことが起きていた。
 いいですか。アメリカは今、民主主義だとか、自由だとか、アジアやアフリカの国に対して求めています。偉そうなことを言っていますが、「あなたの国は50年前、40年前まで何をやってきたのか」と言いたい。
 賀川豊彦は1914年から3年間、アメリカに留学しています。そのころはいいアメリカだったみたいです。ところが、1924年に彼は全米学生連盟に招かれてアメリカへ行きますと違うアメリカがありました。そこで見たのは何か。日本人排斥法ですね。カリフォルニアにいた日本人は確かに多かった。サンフランシスコとか、シアトルへ行くと、人口の1割は実は日本人だった。皆さん知らないでしょう。ハワイは半分が日本人だったんです。それは白人社会から脅威ですよね。
 賀川はその時のアメリカを「悪魔のアメリカ」と呼んだのです。賀川は親米主義者のように思われていますが、その時以来、アメリカ人の前で徹底してアメリカの人種差別を批判しています。本当です。
1920年代に賀川は既に世界的な著名人でした。100年前にスラムに入って、マザーテレサのように貧民のために尽くしていたからです。ただそれだけのために、彼が今でいうノーベル平和賞をもらう価値があったと思います。13年間にわたり、彼は神戸のスラムに貧民と共に暮らし、暮らしを支えました。
 僕もスラムというのは知りません。偉そうなことはあまり言えないんですが、当時のスラムはどういう世界だったかというのを、後に同志社大学学長になった牧野虎次先生の書き物から説明します。
 牧野先生は賀川より20歳ぐらい年上だったそうですが、賀川のことを「先生」「先生」と言っていました。賀川のスラムに行って講演をしたり、伝道をしたりしたそうです。その牧野先生がある晩、集会が終わってから、今日はここで泊まると言います。牧野先生は、賀川と一緒に泊まるつもりでしたが、賀川は「君は特別待遇だ」と言って、「診療所の病人用の白い寝台に真新しいシーツを2枚重ねて特別仕立てのベッドを用意してくれた」と書いてあります。
「1時間もたたないうちに、体中がチクチクしてきました。電気を付けてみると、シーツの上に黒ゴマまき散らしたような南京虫がうごめいていてゾッとしました。眠れないので、窓から外を見ると、また驚くべき光景を目にしました。売春婦たちが男を引っ張り合っていました。まるで女性サタンがゲヘナで獲物を奪い合っているとしか見えないすごい様相であった」と書いています。
 そのようなところに賀川が13年も住んでいたということ自体、とても信じられません。賀川批判するのは一向に自由ですが、批判する人たちに、一度でもいいから1泊でもいいからそういうところに泊まってごらんと言いたいです。
 アジアにはまだそういったスラムがあります。7月にタイからスラムの天使と言われる女性が神戸で講演しました。プラティープさん。アジアのマグサイサイ賞も受賞した女性です。彼女はスラムで生まれ育ちました。貧乏だったため小学校しか出ていません。卒業後、そのスラムで当然のように働き始めました。働き始めて、世の中の理不尽なことに驚いて、教育の必要性を痛感します。自分の母親は教育熱心だったから彼女小学校を出られたが、多くの子どもたちは小学校すら出ていない。働かされる。子どもは労働力なんですね。日本で自殺が増えているという悲惨な事態がありますが、一方で、子どもが労働力のままでいるという国がまだあるということにわれわれは心に留めておかなくてはいけないんだと思います。
 彼女は16歳から自ら子どもたちのためにスラムで学校をつくります。10年ほどしたらようやくそれが公立の学校に昇格します。ということは、お金が出るということですね。認可されたということで、先生の給料も出るし、校舎も建てられる。ようやく普通の学校になりましたが、それまでは、全部自分たちでやっていたのです。
 プラティープさんは、賀川献身100年記念事業の一環として来日しました。同じ事業で3月には、バングラディッシュのムハマド・ユヌスさんをお招きしました。ご存じでしょう。3年前にノーベル平和賞を取った方です。ユヌスさんは3日間、神戸大学の学生とともに議論をしました。私も3日間お付き合いし、非常に面白く勉強になりました。
 ユヌスさんはこういうことを言ったのです。「先進国の人たちは、ODAを通してバングラディッシュに職業訓練とかいろいろしてくれる。でも、私の国には、そもそも雇用という概念がないんだ」と。分かりますか。雇用というのは、会社とか、役所とかに勤めて賃金をいただくという労働形態ですね。
 ユヌスさんが始めたのは、農村の女性たちに1,000円とか2,000円を貸して、「糸を買ってきなさい。それで織物をつくって売りなさい。それから、鳥を買ってきなさい。その鳥を育てて、卵を生ませて、卵を売ればいいでしょう」ということです。元々そういう生活をしていたのですが、その1,000円、2,000円の元手を高利貸から借りていたため、その日暮らししかできなかった。ユヌスさんは、それを低利で貸すことを試したのです。今ではマイクロ・クレジットといって世界中に広がっています。もう30年、40年やっておられます。
 次に彼が思い付いたのは、ソーシャルビジネスという概念です。「投資してください。だけど、配当は払いません」。資本主義ではちょっと考えられない。そんなものに誰が投資するんだと。ユヌスさんがあくまでもビジネスにこだわった理由があります。
 例えば、慈善事業で100億円寄付してくれる人は結構いるんですよと。もっとくれる人もいるんです。でも、それって1回使ったら終わりじゃないですか。「寄付は無くなる」が「投資なら、投資額は返す。配当とか利息はつけませんが」と言います。そうしたら「事業者は返済する責任が生まれ、例えば利益を上げて5年間で返却しようと努力する。投資した方は、5年後にその元金が戻ってくれば、5年後にまた違う事業に投資できるではないか。こういうのをサステイナブル(持続可能)というんだよ」
 なるほどなと思いました。この新しい概念は既に、フランスの2つの会社に受け入れられて事業は始まっています。
 なぜユヌスさんとか、プラティープさんの話をしたかというと、振り返れば70年前に、80年前に賀川豊彦が同じようなことを行っていたからなのです。そのことを忘れて、「おお、ユヌスさんは偉いな」と言っているのです。ユヌスさんは確かに偉いですが、わが日本には、もっと前に偉い人がいたんだと感じてもらいたいのです。
 問題はここからですね。先ほど、原先生の話にもありましたけれども、外国で賀川先生のことを知っている人はたくさんいます。本当にそうです。なのに、日本人はみんな忘れてしまっている。ここにおられる方は、多分、賀川先生の名前ぐらいは知っているでしょう。同志社の学生たちがもっと知っていたら、ここは満員御礼になったはずです。多分知らないから、ポスターがあっても、「誰やこの人?」としか思いません。
 賀川がどうして外国で有名になったかは先ほど紹介した、13年のスラムの献身的生活が、実はこれが逐一外国人の宣教師によって伝えられていたからなのです。アメリカのクリスチャン雑誌の『クリスチャンセンチュリー』とか、スイスの『ニューエイジ』とか、フランスの『ラ・ソリダリテ』に賀川のスラムでの貢献が多く書かれています。
 賀川豊彦は1920年に『死線を越えて』というベストセラーを出します。数年後には、各国語で翻訳されて出版されています。多国語で翻訳されたのは出版社が「売れる」と思ったからです。賀川という名前は世界に知られていた当然でしょう。売れない本は出版しませんからね。ニューヨークでもロンドンでもパリでも。そう思いませんか。
 賀川が労働組合運動を始めたのもちょうどそのころです。1919年ぐらいから本格的に労働組合運動に取り組みます。一躍彼の名前を有名にしたのは、三菱・川崎造船の大争議です。3万人のストライキを打った。日本で初めての大規模ストライキ。これだけでも大変なことですが、彼の労働運動家として名を高めたとき、賀川の名前はすでに世界で知られていた可能性が高いんだろうと思います。
 米沢和一郎さんという賀川豊彦研究家がいます。明治学院大学のキリスト教研究センターの研究員をしていました。その前は財団法人雲柱社の賀川豊彦記念松沢記念館の研究員でもありました。大変な方で、海外での賀川の活動を克明に研究しました。各地に賀川の資料が多く蓄積されていることを彼は知って驚くわけですね。アメリカでもヨーロッパでも。実際ルーマニアにも賀川の資料が残されてあったりするのです。びっくりするでしょう、そのようなわれわれの知らないヨーロッパの賀川、それから、アメリカの賀川を文献から調査しました。それを読みますと本当に驚きます。
 スラムでの生活、労働組合運動での賀川、次は農民組合、それから協同組合の賀川がいますけれども、6月に『友愛の政治経済学』(英文で『Brotherhood Economics』)という本がコープ出版から出ました。英語で出版された賀川の本です。1936年にニューヨークのロチェスター大学神学校のラウシェンブッシュ講座した内容が同年、ハーパー社から出版されました。ラウシェンブッシュ講座はラウシェンブッシュ先生にちなんで毎年、世界の著名なキリスト教者を招いて3日間の講座を開き、その内容が出版されるというプログラムです。残念ながら当時、日本語には翻訳されませんでした。今回、初の日本語版となりました。
 賀川先生がロチェスター大学で講演するに到る経緯があります。1935年の12月からの北米の旅はアメリカ政府の招待によって実現したのです。「大恐慌以降の経済立て直しのためにアメリカ国内で協同組合を広めてくれ、普及してくれ」と言われたんですね。本当ですよ。半年ぐらいの滞在期間に、大体70万人から80万人の人が賀川の『Brotherhood Economics』の話を聞いています。日に3回、4回講演することもあったそうです。大きい会場では8,000人集まるんです。だから、多分、この会場の100倍ぐらい観衆がいるわけですね。顔を見えないところ、声も聞こえないような大きな会場で、どうしてそんなに集まるのか。不思議ですよね。でも、この中身を読むと面白いんですよ。
 メモしてきましたので紹介したいと思います。
 1929年、アメリカで大恐慌が起きますね。つまり資本主義が破たんしたのです。今と同じです。賀川はもともと資本主義に対しては「搾取的だ」といって否定していましたが、その資本主義がついに破たんしました。当時、隆盛を極めていたのはソビエト、ロシアの社会主義でした。計画経済が軌道に乗り始めていた。でも、「社会主義は暴力的だ」と言って、やはり否定するわけです。西ヨーロッパでは、社会民主主義、民主社会主義が台頭していました。イギリスの労働党、ドイツではワイマールで社会民主党的政策をやる。これも否定するのです。どうしてかというと「あれは上から押し付けているからいけないんだ」と言うのです。「民衆が自助互助でつくっていかなくてはいけないんだ」というのが賀川の考えでした。
 もちろんナチズムやファシズムも否定するのです。皆さん、誤解してはいけません。ファシズムもナチズムも社会主義なんです。一見右翼っぽいですけれども、社会主義なんです。
 賀川にとってはブラザーフッドに基づいた協同組合、このブラザーフッドが重要なんです。友愛経済でなければいけないのです。賀川は7つの協同組合ということを提唱します。消費組合、生産組合、販売組合、信用組合、共済組合、利用組合。あらゆるものを協同組合でやればうまくいくのだと言います。
 賀川はスラムの中から試行錯誤しながら、食堂を始めたり、歯ブラシ工場を経営したりしながら、独自の生活協同組合を生み出しました。今も続いているのはコープこうべです。140万人の会員を抱えた世界最大の協同組合だといわれています。いろいろなことをやる中で、貧困から脱出するために何をやればいいかということばかり考えていました。そのために、労働者は労働組合に団結することを求めます。農民も搾取から逃れるために農民組合に団結することを求めます。商人の搾取から逃れるために生活協同組合をつくります。お医者にかかれない労働者のために医療組合までつくります。よくもまぁと思うぐらい幅広い分野に協同組合を導入します。
 世界の協同組合の歴史を見ても、医療分野までやっている協同組合はないそうです。ですから、協同組合の世界大会では当然ながら農協も参加します。実は日本のJAも行っているんですね。そこで、日本はよく褒められるそうなんですね。日本の協同組合は非常にうまくやっているんだと。非常に幅広い分野でやっていることが評価されています。
 信用組合というのは、日本に多くありますでしょう。京都でトップの金融機関は京都銀行ではなくて、京都中央信用金庫だと聞いてびっくりしたことがあります、信用金庫の方が銀行より親しまれています。これはすごいことだと思います。品質ですよ、預金量ではなくて、多分、47都道府県で信用金庫がトップだというところは京都だけだと思います。だから京都って面白いんですよ。なぜ信用金庫が強いんでしょうか。助け合いの精神があるのでしょうかね。あったはずですね。昔共産主義の人がえらかったかもしれませんけれども、面白いですよ。
 信用組合では、賀川がつくった中ノ郷信用組合(当時は中ノ郷質庫信用組合)が今、東京で立派にやっています。関東大震災のとき、質屋が暴利をむさぼり始めました。質屋といっても全員が悪いわけではない、奥堂定蔵という質屋さんの主人が「賀川先生、これはやばいですよ」と相談しにくるわけです。「じゃあ君、協同組合で質屋をやろう」というところから始まったそうです。1928年のことです。それから続いているのです。深川とか、本所あたりでは、やはり、信頼を得ている。中ノ郷信用組合の理事長にお会いして、バブル崩壊で大打撃を受けなかった理由を聞いたことがあります。「うちは、担保を取らないんだよ。お金を貸すときにも。みんな担保を取るから、バランスシートが崩れるんだよ」と。
 担保を取らないという意味が分かりますか。僕は経済の取材を長くやっていますから、すぐ意味が分かりました。バランスシートというのは、左に資産と右に負債とあって、負債の中に資本金と借金があります。地価が下がって左側の資産の価値が目減りすると、右側の負債も少なくなる。仮に半分になると、こちらの借金は同じですから、そうすると、この資本の部分が逆にマイナス、つまり債務超過になるわけです。
 債務超過になれば、市場の信頼を失い、株は売られ、誰もそこに投資してくれなくなるというような状況が起きます。まさにこの1年、起きていることです。ところが担保を取らずに、返済してくれなかったらどうするの。「いや、顔が見えるからいいんだよ」と言う。貸し手と借り手に間に信頼関係があるという意味でしょう。そういう金融機関って素晴らしくないですか。だから、貸し離しも貸し渋りもない。本来の信用組合ならできるはずなのです。
 賀川豊彦らがそういうことを初めから知っていたかどうかは知りませんが、助け合いの金融機関を持ちましょうということなんですね。
 それから保険です。一般的に戦前は健康保険も十分に普及していませんでした。アメリカでは今もないんです。だから、オバマさんが全米でみんなが入る健康保険制度をつくろうとしています。日本は健康保険では大変な先進国なんです。問題を抱えながらも先進国なんです。これは認識しておいていいと思います。でも、賀川が1930年代、保険、保険と言わなかったら、いまの健保があったかどうかは分からない。ここは余り指摘されていません。生協とか労働組合の発展に賀川が貢献したことは理解されていますが、健康保険も賀川に感謝しなくてはいけないのです。
 賀川の弟子で武内勝という人がいます。一番弟子です。賀川が活動の拠点を東京に移した後も、神戸のスラムの施設をずっと維持しました。愚直なまでの人でした。その人が大恐慌時代に考えだしたのが、失業者に対して給付金を出す仕組みです。仕組みは長くなるので説明しませんが、興味のある方があったら、多分そこにおられる鳥飼先生が非常に詳しいので聞いて下さい。
 そのアイデアが東京市で採用されたんです。失業保険もなかった時代に、賀川の一番弟子がつくった仕組みを東京市が採用したのです。すごくないですか。もう腰が抜けるほどたくさんのことをやっています。
 今日は平和理念ということをしゃべるということでやってきました。賀川を読み解くキーワードの一つはもちろん「貧困」です。貧困の対極にあるのが平和なんです。
 賀川は学生時代から徹底した平和主義者でした。戦前は学校で軍事教練というものがありました。軍人が学校に来て、木の鉄砲でえいやぁと生徒たちを鍛えるのです。賀川は徳島中学時代、それを拒否して何度も殴られています。殴られても拒否するのです。明治学院のときには、徳島毎日新聞に長文の平和理論を連載しました。カントから始まって、ニーチェ・・・、ちょっと僕などは理解できないようなヨーロッパの平和哲学論を展開しています。大学の予科ですよ。予科生でそれらをすべて読破して理解していたのですからかないません。
 話は戻りますが、この本に「友愛」と書いてあるでしょう。友愛はブラザーフッドです。友愛の系譜というと鳩山由紀夫首相が言っている「友愛」にも突き当たります。この「友愛」はクーデンホーフカレルギー公が1920年代に書いた汎ヨーロッパリズムという本に由来しています。クーデンホーフカレルギーは、お母さんが日本人で光子と言います。彼は東京で生まれています。リヒャルトは本名ですが、日本名はエイジロウと言います。日本名を持ったのです。クーデンホーフカレルギーは今のEUの生みの親と言われています。ヨーロッパが戦争に次ぐ戦争を繰り返していることに対して、もうこれ以上は戦争はやめなくていけない。そのためにどうしたらいいか。ヨーロッパの国境をなくそうということになった。
 ドイツとフランスの間に鉄鉱と石炭が産出するラインラントという地方があります。ルールです。フランスとドイツがずっと100年来取り合っていました。「最後の授業」というフランス映画があります。ドイツに取られたある村の学校で「今日は最後のフランス語の授業となります。明日から授業はドイツ語の授業になります」というシーンがある悲しい物語です。しかし、現実はそう単純ではありません。村の家々ではドイツ語を使っていて授業だけがフランス語だったのです。つまり、フランスの占領地だったのです。フランスが戦争に勝ったから、そういう小説が残っているわけですね。ドイツが勝ったら、最後の授業というのは、「今日は最後のドイツ語の授業」となったはずです。そういう地域がヨーロッパにあります。
 第二次大戦後に画期的なことが起きます。1951年にフランスのシューマン外相がルール地方の石炭と鉄鋼を国際的に管理しようと言い出し、欧州石炭・鉄鉱共同体という組織をつくります。多くの国がそれに賛同しました。フランスにまた取られると思っていたドイツはもちろん大歓迎。ヒトラーが奪い返したものをまた取られるかと思った。EUは取ったり取り返されたりとか、そういう繰り返しの地域を共同で管理するというところから始まっています。
 1951年というのは、日本が平和条約を結んで、国際社会に復帰するときですが、多くの日本人には欧州石炭・鉄鉱共同体の意味するところが分かりませんでした。賀川は一人非常に喜びました。この本の中で賀川が目指していたものが実現したのですから。
 この本はさきほど言ったように1936年、アメリカでハーバー社から出版され、翌年、ロンドンでも出版されました。最終的に17カ国語に翻訳されました。中国にもアラビア語にも翻訳されています。これが、日本語だけなっていませんでした。
 1936年という年は、ヨーロッパで戦争が起きる予感どころか、暗雲がそこまで立ち込めていたんですね。そういう緊迫感がある中で、賀川はジュネーブでも「Brotherhood Economics」の講演をしています。講演はフランス人の神父さんが英語からフランス語に翻訳しました。ヨーロッパで出版されたのは、その演説をもとにしたという説があります。フランス語からイタリア語版が生まれ、スペイン語になり、オランダ語になり、ポーランド語になりという形で広がっていった可能性もあります。
 翌年から、賀川の「Brotherhood Economics」に学ぶセミナーがヨーロッパ各地で相次いで開かれました。賀川は行けなかったのですが、アメリカ人の弟子のヘレン・タッピングという人が代理で出席しています。つまり、戦争をどうしたら回避できるのかとヨーロッパがもがいている最中に、救世主のように現れた東洋の小さな巨人が、「戦争を回避するために友愛に基づくBrotherhood Economicsが必要だ」と言うわけです。日本では、庶民に人気のあった賀川ですが、ヨーロッパでは宗教家や政治家、知識人といったハイレベルの人たちに「Brotherhood Economics」が受容されたのだと想像しています。そうでなかったら、たった1~2年の間に17カ国語には翻訳されるはずがありません。
 EUは1970年代にECと言っていました。当時のECの議長だったコロンボ・イタリア外相が来日しました。その時、ECの精神の中に賀川イズムが流れているんだと言っているんです。うれしくないですか。一方で日本人の血を受けたクーデンホーフリヒャエルがEUの父といわれ、精神的な背景として、賀川の書いた「Brotherhood Economics」がEUの中に流れているということなんですね。こういうことをわれわれはもっと知るべきです。
 鳩山首相が東アジア共同体だと言っています。そんなものはできるはずがない。アメリカが反対するに決まっている。中国の得になることをアメリカがする必要がない。そんな声が高まっています。どうしてそういう発想でしか世界を考えられないのでしょうか。シューマン外相はフランスが領有してもおかしくないルール地方を「共同で管理しましょう」と差し出しました。これはイエスの心だと思います。片方が譲れば、相手も譲るかもしれない。まさに賀川精神です。
 賀川は、経済論を説きながら、結果的に平和論を語っていたのだろうと思います。つまり、貧困も平和も、戦争も経済から起こるんだと。搾取のない経済システムを導入することによって貧困をなくし、国と国の搾取のシステムをなくすことによって、平和は訪れるだろうということなんですね。一見遠回りのように見えます。荒唐無稽のように見えますが、僕には結構説得力があるんですね。皆さんはどうでしょうか。
 20年前の1989年、ベルリンの壁が崩壊して以降、国際政治にソ連という対抗軸がなくなり、共産主義が消滅してしまった。中国はもともと市場経済を入れていますから、アメリカ一国主義になってしまった。それで、どういうことになったか。ちょうどそのころ、マネー経済というか、コンピューターを導入した金融システムが非常に発達した時期でもありました。金が金を生むという経済を生み出しました。ついに去年、それが破たんしました。
 金融危機の一方で、国際政治では何が起きていたか。共産主義と自由主義陣営との対立が消滅したときに何が起きたか。正義と非正義、正義と悪の二元論になってしまったんです。その場合、いつもアメリカが正義ですね。レーガン大統領もソ連のことを悪と言ったことはあるけれども、これほど露骨に敵対するものを悪、自国を正義と位置付けた大統領はないと思います。ブッシュ大統領は「Axes of evil」と言った。そこにおられる中野さんは、「Axes of evilがあるなら、Axes of Peaceをつくろうではないか」と2002年ごろネットで発言していました。結構受けました。
 結局、これも全部失敗しているじゃないですか。その後イラクはどうなったのですか。アフガンでも平和の糸口は見いだせていません。そこへオバマ大統領が登場しました。日本はもはや普通の国の一つになってしまいそうです。GDPでは年内に中国が日本を追い越すでしょう。これからの日本は経済力で影響力を行使することは難しくなるでしょう。勤勉という美徳はとうの昔に日本から消えているかもしれません。中国人の方がよほど勤勉かもしれない。日本を賛美する多くの形容詞がはげ落ちてきています。はげ落ちたっていいじゃないですか。別に2番手でなくたっていいじゃないですか。3番だって、4番だって、5番だって。
 賀川が目指したのは北欧の国々でした。デンマークであり、スウェーデンであり、ノルウェーです。経済は中規模でもいい。でも国際的に貢献できるような国になろうと言っています。実際ノーベル平和賞の結構多くは北欧の元首相に与えられています。パレスチナの和平への貢献は小さい国だからこそできるのかもしれません。
 だから、日本もそういう奉公を目指せばいいのだと僕は思います。天国の賀川は頑張れといっておられると思います。日本は別に1番や2番でなくていい。だけど、もっと質の高い、クォリティの高い国であってほしいということを賀川ずっと言っていましたから。これがまさに賀川の平和理論だと考えます。一番を目指すから競うのです。2番を目指すのも競うのです。
 スポーツはやはり勝敗が重要かもしれませんが、国もあり方は違います。世界に200国近い国家がある中で時代による栄枯盛衰は必ずあります。人間の体力や能力がある年齢でピークに達して衰えるのと同じように、国にもやっぱり栄枯盛衰があると思います。けれども、年を取っても、あの人の言うことには理があるとか、何かあったときにあの人にちょっと相談してみようということはよくありますね。それと同じような国家を目指せばいいのではないかと僕は思います。
 ちょっと時間をオーバーしましたが以上で終わります。