土佐山の存在が気になったのは、和田三郎の名を知ってからである。昨年夏、土佐に生まれ孫文の革命に尽くした萱野長知を描いた『萱野長知研究』を読んでいるうちに、土佐山の和田三郎の存在を知った。
 孫文に尽くした熊本の宮崎滔天は誰でも知っている。萱野の名も度々登場するが、土佐の出身であることは知られていない。『萱野長知研究』は、その足跡を克明に調べた崎村義郎(元檮原町長)の後を引き継いで久保田文次が高知市民図書館 の協力を得て1996年に 出版した。中国革命を知る貴重な資料が高知に存在していたことにまず驚き、高知県の一級の知的財産だと確信している。
 和田三郎は板垣退助の側近として『自由党史』を編纂したことでしられる。一方で萱野の朋友と記されている。孫文と黄興が1905年、日本で中国同盟会を結成した後、宮崎滔天らは機関誌「民報」の編纂に協力した。その「民報」が日本で印刷され、中国の同志の革命意識を鼓舞したことは歴史的事実である。1911年10月に起きた武昌起義が引き金となって辛亥革命が成功する。清朝皇帝は退位し、孫文は中華民国初代大総統に就任する。しかし中華民国は袁世凱によって乗っ取られ、孫文らは日本への亡命を余儀なくされる。第二革命に必要だったのはまたしても機関誌だった。萱野に促され、和田三郎は1913年、東京で日刊紙「民報」を発刊する。
 その日刊紙の存在はほとんど知られておらず、国会図書館と東大の部分的に保存されているにすぎない。和田三郎宅にすべてではないが、短期間存在した中国革命を支えた「民報」が保存されているという。現物はまだ見ていないが、楽しみにしている。

 自由民権結社「山嶽社」跡の石碑文
 山嶽社は、土佐山村の民権結社であり、当村からは多くの民権家を輩出している。前身はこの場所で和田波治、千秋父子が始めた寺子屋的なもの。その後、門下の高橋簡吉、長野源吉らが「夜学会」を興し、明治15年、海南自由党成立の頃、民権結社に発展、名称を「山嶽社」とし、明治22年2月26日以降「山嶽倶楽部」と改めた。土佐山村は明治15年11月12日に県下の民権家、総勢2000人が桧山で巻狩大懇親会を行ったことや、秩父事件の指導者、落合寅市が高橋簡吉の家で匿われたことでも知られている。
 現在、当地には民権期に作られた「山嶽倶楽部の旗」が保管されている。(藤原和雄・記)

 和田三郎・生家
 和田三郎(1871~1926)
 自由民権家・言論人
 明治4年6月22日、医業の千秋を父、母は土、その三男としてここに生まれる。高知共立学校で学び、のち植木枝盛らと接触、明治学院を卒業して土陽新聞記者となり、板垣退助監修「自由党史」を執筆。孫文らの中国革命を支援するために宮崎滔天、菅野長知らと革命評論社を創立、滔天が編輯人の「革命評論」の同人となる。また、板垣退助がおこした「社会政策」の発行兼編輯人にもなり、板垣の秘書として活躍、筆まめなことで知られたが、大正14年中国旅行中、病を得て帰国、翌年没した。55歳。(藤原和男・記)