メディア業界の中でも早くからインターネットを知り、自らサイトをつくった数少ない記者だったと自負している。マイクロソフトがWindows95を日本で発売したのは1995年12月だった。テレビ・モニターで簡単に画像や音声が再現されるだけでない。ネットで全世界とつながることを日本国民が知った。僕は経団連機械クラブに所属していて発売の熱狂を秋葉原から伝えた。といっても当時は送信手段は電話とファックスだった。パソコンを持たない記者がインターネットを語るのは恥ずかしいと思って、その週末、秋葉原で富士通FMVを購入した。二十数万円をはたいたことを覚えている。インターネットにつなげるのは難しかった。神田の飲み屋で知り合った東海インターネットの役員に頼んで自宅のパソコンをネットのつなげてもらった。インターネット言語であるhtmlを学んで簡単なサイト作成ができるようになった。ネット社会の革新性は「素人の参入」ということに気付いた。ほとんどの日本人にはまったく理解されていなかった時代である。出入りしていた日本鉄鋼連盟の幹部に話すと月間「鉄鋼界」に寄稿してくれという。(2021年5月26日記)

 インターネット旋風が日本列島を吹き荒れている。一昨年の後半から企業を中心に関心が高まり、いまや企業のホームページは2、000件を超えるといわれ、ホームページを開設していない企業は肩身の狭い思いをしているに違いない。しかし、斬新なアイデアで情報を日々、更新しているホームページはあまりない。せっかくホームページを立ち上げても中身が薄かったり、表題だけあって中身が「建設中」では次から誰もアクセスしなくなる。

 マスコミ界もインターネットをはやし立てているが、自らの取り組みとなるとホームページの開設ばかりが先行し、現場の記者レベルではネットサーフィンできるような高速モデムすら配備されていない。たとえば筆者が席を置いていた経団連のある記者クラブでは加盟クラブ員は100人を超えるが、インターネットに加入しているのは10人いない。それも個人レベルでの楽しみの域を出ていない。社業に使用している形跡はほとんどなく、企業からは「アポイントなどをなぜEメールで申し込まないのか」と問われて戸惑う始末だ。情報伝達のスピードに敏感であるはずのマスコミの現場がこれでは先が思いやられる。
 米国の証券取引委員会(SEC)は4月から紙による発表を止めて、インターネット広報に切り換えた。香港政庁も主要メディアに対してインターネット広報を打診している。日本でもいくつかの企業が同様の発想を検討し始めている。ネットワーク社会はわれわれに変革の必要性を突きつけている。インターネットとの出会いはまだ短いが、その体験を通じて考えたインターネット像を紹介したい。

 台湾の頭脳集団には必須のツール
 インターネットとの出会いは一昨年末、台湾のハイテク工業団地「新竹科学工業区」を訪れた際にあった。半導体開発のウェルトレンド社は従業員は40人しかいない小集団。従業員といってもほとんどが米国などで博士号をとった頭脳集団だ。どこの部屋でもジーンズなどカジュアルウェアのエンジニアたちがコンピューターに向かっている。インターネットをつなぎっぱなしにして米国の企業や研究所と情報交換、新製品の設計を次々と完成させる。朝から晩までパソコンに向かう姿は、日本的感覚の労働とはほど遠いが、そんなユニークな環境の中から高付加価値なビジネスが生まれる。
 営業ももっぱらインターネットで、ほとんどの作業がパソコン上で始まり、そして終わる。しかし日本とのやり取りだけでは「別格」のようだ。中堅のエンジニアは「日本の企業社会ではまだEメールの自由なやり取りが始まっていないようです」と笑っていた。
 それが1年たつと日本にもようやく変化の兆しが訪れてきた。農水省を担当していた昨年3月、大臣官房の情報化室が記者発表リリースを電子化してネット上に公開すると発表した。何のことはない。すでに通産省や郵政省だけでなく総務庁、経企庁でも同様のサービスを開始していた。情報化室では「うちは遅いほうです」と弁解しながら「でも大蔵省や運輸省などはもっと遅れるでしょうが」と説明していた。
 政府は1995年度から霞が関情報化計画をスタートさせた。5年間で各省内の情報をLAN化し、最終的には各省庁のLANをさらに大きなLANで結ぶ構想だ。これが完成するとこれまで各省庁にある記者クラブが独占していた発表資料はネットワークを通じて誰でもどこからでも入手が可能になる。現在、情報のネット化が終わっている省庁でも記者クラブへの配慮などからネット上での情報公開にはまだ時差を設けている。しかし、数年を待たずに記者クラブへの発表と同時に公開されることになるだろう。

 おまんまの食いはぐれ
 共同通信社の仕事には地方紙へのニュース配信とは別に、スクリーンサービスというものがある。発表された情報を企業に設置したテレビモニターに瞬時に映し出すサービスで、金融機関を中心に多くの顧客を持っている。金融機関のディーラーたちは、たとえば大蔵省の貿易統計が発表されると数10秒で欲しい情報を目にすることができる。
 われわれ記者は、電話に向かって走る。「何月の貿易黒字は何百億ドル」と送り込むと社内のコンビュータを通じて情報がモニターに伝達されるからだ。時事通信社や日本経済新聞、ロイターなども同様のサービスを展開していて、日々陸上の100メートル走ばりの競争を繰り返している。競っているのは記事の中身でなく、速さだけ。まさしく走りっこなのだ。
 日銀担当記者は日銀総裁会見での一言一句に耳をそぱだてる。何を言ったかで為替が大きく変動するから、金融機関のディーラーはテレピモニタ一に釘づけになる。そのまま為替ディーリングの収益につながるから一刻も早く情報がほしい。日本橋の日本銀行でも走りっこが日常化している。
 しかし、日銀や大蔵省に直接、情報を発信されたら、われわれの仕事は確実にやりにくくなる。マスコミにとってのインターネットに対する恐怖はまさにここらにある。このような走りっこをいつだれが商売として始めたのか定かでないが、ネットワーク社会の台頭により、「速さだけを売り物にした情報サービスが過去のものになる」ことは誰の目にも容易に想像がつくと思う。媒体であるメディアを通じた情報よりその情報発信源によるネットワーク上の発表の方が速いに決まっているからだ。スクリーンサービスの顧客はインターネットのページをあらかじめ開いておけば、午前9時の貿易統計の発表と同時に数値が画面にパッと現れる。これでは通信社はおまんまの食いはぐれでしかない。
 ネットワーク社会はこのように記者クラブを根底から揺るがす。新聞記者クラブがあるかぎり、公けの情報も民間の情報もマスコミを通じて世間に伝達されるものだと信じてきた。世の中に氾濫する情報を取捨選択したり、その真否を確認する作業は確かにマスコミの責務でもあった。「社会の公器」としてのマスコミ論が逆に多くのマスコミ人を尊大にもさせた。情報源はまず、記者クラブで発表するのを旨としてきたし、世間もニュースはマスコミが伝えるものだと疑いを持たなかった。
 台湾で初めて体験したネットワーク社会では先進性を感じたが、次第に恐怖の概念に変わってきた。恐怖といってもマスコミ自身が決して避けて通れるものではない。速報の手段はハトから電話にそしてファックス、コンピューターへと変遷してきた。その過程で、マス(大衆)に向けて情報を発信(コミュニケート)するというマスコミの意味まで変わりかねない事態に直面していることだけは確かだ。

 400部読者が一夜に3,000に
 「ハンコックインサイダー」という情報誌を発行している友人がいる。企業や研究所向けにタイを中心とした東南アジアの独自情報を発信している。1万円の会費で毎月2回発行されているが、これをネット上に公開したとたん2週間で3,000件の検索があったことが分かった。従来は1.000部ほどの発行部数だったが、不況で購読が打ち切られて400部まで落ち込んだ。さっそく、ネット上でどうしたら購読料を取れるか考え始めている。
 もともと赤字経営だった。ネットワークとの出会いは昨年夏、通信機能がついた小型コンピューターを導入したのがきっかけだ。バンコクからの原稿のやりとりは、航空貨物からパソコン通信に一変、10分の1になった。印刷所との往来もほとんどなくなり、都内の交通費もいらなくなった。営々と続けてきてたった400しか部数がなかった刊行物がたった2週間で3,000の読者を得たということである。
 環日本海経済でもインターネットで地方の情報交換の試みが始まろうとしている。環日本海経済は、日本海岸の自治体と対岸の極東ロシアだとか吉林省などとの経済交流を深めようというプロジェクトで、情報の発信源が東京でない点が特徴だ。東京発の情報は既存メディアの発達により、全国津々浦々に伝達できるような仕組みが出来上がっている。しかし地方発の情報はそうはいかない。県境を越えるとたちどころに情報が途切れる。
 山形県酒田市が黒龍江省との間で海運事業を始めたなどという画期的なニュースが島根県や鳥取県に伝わるには数日かかる。そんないらだちを解消してくれたのがインターネットだった。北海道、新潟がそれぞれ独自にやるのではなく、環日本海のページにみんなで情報を寄せてひとつのホームページを共有しようという試みである。
 インターネットの革命性は情報発信をだれにでも可能にした点である。そこらで売っている簡単なツールで綺麗な画面がたちどころにできる。金もかからない。これはコンピューターの発達と通信の価格破壊によってもたらされた。もっともNTTの牙城がある日本の場合、通信は必ずしも安いとはいえない。しかしシステム自体は簡単でホームページを作ることぐらい中学生にでもできるようになった。企業のホームページのほとんどは学生がアルバイトで一晩で作っている。慶応大藤沢キャンパスではインターネットが無料で使用できるので、学生は学業をそっちのけでアルバイトに励んでいる。一晩15万円の稼ぎならば誰だってやってみようという気になる。
 現在の日本企業のインターネットブームが可笑しいのは、ホームページがそんなに簡単に作れていることをほとんどの人がまだ知らないという構造である。パソコン歴半年の筆者が東海インターネットに持つホームページも一晩の飲み代で生まれた。
 飲み会で構想が練られ、翌朝には綺麗な画面がネットワーク上に生まれた。ただ、多くの企業のホームページ同様、あるいはそれ以下で中身がない。      、
 内容次第では、口コミで万単位の読者を得ることも不可能ではない。媒体としての知名度が上がれぱ、PR会社が放っておかない。「そしたら億万l者だ」。そんな夢を見させてくれるのがインターネットの面白さでもある。