太平洋戦争期、高知出身の鯨部隊が駐屯していた中国の湖北省には、野生の豹が多数生息していた。それらの豹は、地元の集落の家畜や子どもたちに危害をもたらすため、村人たちは、豹の駆除を部隊に願い出ていた。

野生の豹は、兵士たちにとって格好の射撃の的であり、射止めた豹は時には食用、時には防弾用のチョッキなどに加工されるなど実用面で重宝されていた。

ある日のこと、野生の豹のすみかが銅山の洞窟で見つかり、火責めにするが、親豹は背後の巣穴から逃走する。残されたのは、よちよち歩きの子豹の雄と雌の2匹。

兵士たちは2匹のうち首筋にやけどを負った雄の子豹を抱きかかえ、残る子豹は銅山の技師に託し、傷を負った雄の子豹を部隊で飼うことにした。

名前は、編成部隊の第8中隊から「ハチ」と名付けられた。飼育の世話には成岡正久下士官が当たった。当然、野生の豹を部隊内で飼うことへの批判も起こった。食用にもしない、防寒具にもしない、しかも余計な食糧がいる野生の豹を軍隊で飼うとは何事だ。しかも、豹は人間に慣れないというではないか。誹謗、中傷も意に介さず成岡兵は子豹を育てていく。風呂に入る時も、水浴びの時も、寝る時も、成岡兵が病気で床に伏せた時も起居を共にした。ハチと成岡兵の交流は、戦場で虚しさに捉えられ、希望を失っていた兵士たちに優しい心と愛情を蘇られた。

しかし、部隊の点線命令が下る。大きくなった豹を連れて移動はできない。かと言って、野生に返せば人馴れしているハチは間違いなく撃ち殺されるだろう。そこでハチは上野の動物園に搬送されることになった。ハチは昭和17年5月30日に上野の動物園に搬送された。上野の動物園では、兵隊さんの育てた豹として話題を呼んだ。当時、学習院初等科の2年生であられた上皇陛下もハチを見学されていた。ハチは殿下の前でゴロゴロと喉を鳴らし頭と体を柵にすり寄せたそうである。

一方、空襲が激しくなり動物園の猛獣たちの逃亡を避けるため、殺処分を行った。この処分により、クマ、ライオン、トラたちとともに人気者のゾウも殺された。ハチは、昭和18年8月18日毒殺され、剥製にされた。この時、ハチの体重はやせ細って36.5キロだった。

ハチは剥製として動物園に保管されていたが、戦後に復員してきた元飼主・成岡さんに引き取られ、成岡さんの経営する喫茶店やレストラン等に置かれていた。そして、昭和56年1月に成岡家の近くに「高知市子ども科学図書館(桟橋通り2丁目)がオープンする。それを機にハチの剝製は当館に寄贈・移管された。そして、ハチの剥製は、命の尊さを物語る「平和」「反戦」のシンボルとして市民や子どもたちに親しまれるようになる。

一方、ハチの剥製も長年の経年劣化が目立つようになり、修復の時期にさしかかっていた。俳優の浜畑賢吉さんをはじめ地元高知の田村千賀さん、高橋明子さんら多くの人々によって募金運動が進められ、戦場の天使・ハチの精悍な姿がよみがえった。その雄姿は、「高知市子ども科学図書館」から「高知みらい科学館」へと受け継がれ、現在、生き物展示の中で、ひと際異彩を放っている。

終戦90年を契機に、令和7年8月17日、「ハチと兵士の像」が建てられ、除幕式が盛大に行われた。