木地師と君が代の発祥地、君ヶ畑
津市にいたころ、なぜか鈴鹿山脈の中の小椋谷・君ケ畑を訪ねたことがあった。君ケ畑は全国の木地師の総本山のような場所だった。平安時代、文徳天皇の第一子でありながら、政争に敗れた惟喬(これたか)親王が隠れ住み、山の人たちにロクロの使い方を教えたという伝説が伝わる。宮廷で使っていた椀や盆づくりの技術が広まった瞬間なのだという。椀や盆はロクロなしにはできない。君ケ畑には当時のロクロが保存されている。回転力は軸に巻き付けた太い縄を向こうとこちらと出互いに引っぱることで生み出す仕組みである。
いまでも全国に広がる木地師は君ケ畑の神社の氏子で強い連帯感を持ち続けているというから驚いた。君ケ畑から全国に広がった木地師たちは山の道をつたい、トチやブナといった材料を求めた。
いまでも漆の塗り物は高級食器の一つだ。当時の山のなりわいで椀や盆はかなりレベルの高い付加価値を生み出した産品であるといっていいかもしれない。
君ヶ畑には、惟喬親王を祀る「髙松御所・金龍寺」と、「大皇器地祖神社(おおきみきじそじんじゃ)」があり、隣接する蛭谷町には、「筒井公文所」と「惟喬親王の御陵」、「木地師資料館」などがあり、木地師集団を統括する場所だった。
木地師のふるさとには「さざれ石物語」という伝説もある。「君が代」は、905年頃の『古今和歌集』巻七・賀歌(第343番)にある「わが君は 千代にやちよに さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」が原歌で、詠み人知らずとなっているが、君ヶ畑では、惟喬親王の側近であった「藤原定勝」という家臣が、岐阜県の春日村という木地師の村を訪ねた際にさざれ石を見つけ、作ったことになっている。和歌に詠まれている「我が君は」というのが、君ヶ畑の惟喬親王を示しているということで、もともと「小松畑」と呼ばれたこの地が、君が代が詠まれた聖地ということで、「君ヶ畑」と呼ばれるようになったと言われているのです。鎌倉時代になって「わが君」が「君が代」になった。
明治3年、薩摩に来ていたイギリスの軍楽隊から、日本を代表するような曲はないかと聞かれ、薩摩の歩兵隊長だった大山巌が、自ら愛唱していた薩摩琵琶の「蓬莱山」という曲の一部である「君が代」を推薦した。その歌詞にイギリスの軍楽隊長フェンライトが曲を付けたのが最初の「君が代」だった。しかし歌詞と曲がしっくりしていないので、改めて雅楽課に作曲を依頼し、奥好義が日本古来の旋律をもとにまとめたものを、上司の林広守が補作して曲として完成させ、明治13年に演奏した。これが現在の「君が代」の始まりとされている。
