世界連邦21世紀フォーラム講座 2011年10月2日 賀川豊彦記念松沢資料館

賀川豊彦の歴史観
貧民窟からみる世界
戦争と平和
人種差別
宗教
芸術
自然科学
協同組合

 武内勝『賀川豊彦とボランティア』から学ぶ
 幸徳秋水の後、済生会病院が生まれた。恩賜金100万円。
 神様に名前がないのはどうして?
 どうして朝鮮は独立運動を起こすのか?
 賀川が帰国してから「困った人を助けること」から「困らないようにしなければならない」という行動に変わりました。
 「組合の必要性」について、「スラムへの落伍者をなくすために組合、市民生活を守る消費組合が必要」「農民が食えるように、スラムに出てこなくていいように」

 賀川純基氏の「賀川豊彦の予見」

  詩「平静」

   私は急がない
   私は慌てない
   私は遅鈍を忌む
   私は予見を欲する

 『空中征服』(1922年)テーマは大阪の大気汚染。公害を征服したいという。煙突からのばい煙で昼でも暗いと書いている。
 80年前に地球の公害を語り、最後に地球人は地球を脱出して火星に行くと予見している。
 1937年に世界経済協同組合的合作を発表。日米英の戦艦の数を語っていた時期に世界経済の在り方を論じていた。
 「品目別経済会議」「地帯経済会議「一国対一国」「局地会議」(OPEC,アジア開銀、バイ対マルチ。
 賀川の予見のうち、実現していないのが世界連邦。

 『雲水遍路』から
 米国人の血と、私の血は、アダムの血によって繋がってゐる。米人の非人道主義を恥ぢる前に、私は私の血を恥ぢねばならぬ。自らの血に就て自覚するものは、その修正に勇敢であらねばならぬ。私は私の魂に向って厳格であらねばならぬ。
 世界は彼の新しき四国八十八ケ所である。
 彼は地球の為めに「良心」を求むる為めに出発する。
 米国の為めにも辻説法を厭はぬだらうし、
 英国の為めにも、その帝国主義を罵らう!
 世界の有色人種の運命はどうなるのであらうか?
 世界の資本主義制度はどんな転換をするのだらうか?
 国際聯盟と世界国家の夢はどうなるのだらうか?
 果して共産主義の運命はどうなるであらうか?
 機械文明と精神運動の交錯は、どんな結末を見るであらふか?

 有色人種の擡頭
 機関長は親切にもランスロップ・ストダアドの『有色人種の擡頭』Lanthrop Stoddard : Rising tide of Colorを借してくれた。
 彼は云ふ――世界を白色人種、黄色人種、褐色人種、黒色人種、赤色人種の五人種に別ち、地球表面5300万平方哩の陸地の中、2200万平方哩は白人の占むる地積、3100万平方哩は有色人種の占むる地積である、――この3100万平方哩の中2500万平方哩は白人種の政治的統治に委せられてある。而も、有色人種の総数は11億5000万人、白色人種は5億5000万人の比であると云う。
 ストダアドは猛烈に日本人に喰ひ附き、褐色人種のイスラミズムを侮辱し、黒色人種の為すなきを罵り、八つ当りに書き放した後に、考へて見れば矢張り排日気分で充満した論文であった。
 彼が拾ひ上げた日本の排米主義の論文もは極端なものばかりである。かうして、双方が云ひ争ってゐる中につまらない紛争が起ることであらう。それにしても、大統領ハアヂングが此の論文に感心したとか、ノスクリフ卿が1950年の世界的政治はこの書によって予言せられてゐると云うたとか、広告に書いてあるが、困ったものである。
 そこで、私は始めて、自分が太平洋を渡りつゝある理由が善くわかって来た。私はこんなつまらない人間同志の喧嘩の裏を搔く為めに使はされてゐるのだ。一つこれからアメリカで、英国で、この人種闘争熱と戦ふといふ気になる。

 ハワイの人口の4割が日本人だった
 ハワイには日本人が12万2000人居るので(之は総人口の4割である)、その比例に入監者も多いのであるの1920年の日本人労働者の大ストライキの犠牲者12名を初め、凡てで40名も入獄してゐたらう。その中にはストライキの犠牲者、堤文字士も居られた。
 比島人は3万5000人からハワイに来てゐたが、みな労働者で、誠に憫む可き状態であった。ルーズベルトが発布した契約労働の条文の如きは、ハワイでは空交に等しいものであった。凡ての新聞、凡ての警察事務、凡ての経済組織が完全に資本家の手によって支配せられてゐた。私はあれほど徹底した資本主義国家を他に見る事は出来ないであらうと思った。
 それは殆ど5つの大会社がハワイ全体を支配してゐるのであった。ハワイは、米国で1年間に消費す600万噸の砂糖の8分の1を生産するところであるから、成金は凡て砂糖成金である。そして、労働階級も糖業労働者であった。

 米国人に教えねばならぬ日本精神
 正月には七五三を張り松竹梅をたて、3月には雛壇に桃を飾り、4月には桜の下に一日の行楽をもち、5月は菖蒲に鯉幟り、7月は七夕さんの竹と短冊、8月は月見団子、9月菊節句と云った風に――人生に対する実に美しい鑑賞がある。
 また生活に対する単純化にしても米国人に教ゆることは多いので、決して日本文化が米国文化に劣ってゐるから、それを捨て去ると云ふことは愚かなことである。
 日本の今日までの教養は仏教文化であるけれども、その仏教文化は『あはれみ』の文化であってマホメット教の如き争闘の文化ではない。
 最近の米国は殺人犯の激増に苦しんでゐるが、日本は宗教に於て、米国に劣ったものを持ってゐるやうではあるが、その道徳状態は必しも劣等では無いのだから、たゞ表面だけ考えないで、日本精神のあるところを米国人に教へねばならぬ」と云ふたことであった。

 日本人が隔離される小学校
 翌日、私はフローリンの教会で講演をした。石垣健三郎氏などの手料理で、日本人の有志と会食を共にし、非常に愉快であった。フローリンはキリスト教も盛んであるし、日本人にして土地を持って居るものが多いので、比較的落ち付いて居る。サクラメントなどより遥かに気持ちが善い。
 たゞ一つ、フローリンで悲しかったのは、白人の小学校が、日本人の生徒を隔離してゐることであった。白人は独逸系、伊太利系、メキシコ系、ギリシャ系の移民であるが、日本人の家庭にあまり日本語が多過ぎる為めに、語学の為めに、分離せねばならぬと云ふ理由によって、二つの小学校を村に立てゝ居る。このあたり、我等の考えさせられるところが大いにある。日本人の数が少ない時には日本人を許容してゐても、多人数になると日本人を隔離するのである。

 牧師諸君に求めた反省
 サンフランシスコ市の宗教家大会に出席した。与へられた時間は僅かに15分であったが、私は「米国の宗教家が眠るべき時ではない。
 米国は今や、建国の精神に逆って人類愛を忘れんとしてをる、物質による繁栄は暫くであって、真に永久性のある文化は十字架の精神を国民生活の基調にしたものでなくてはならない。国が大きいからといって誇り、人種が美しいからといって誇るといふことは許されない」といふやうな主意を述べて、牧師諸君の反省を求めたのであった。

 外国伝道会社に敬意
 ワシントンに於ける私の仕事は、北米外国伝道大会に三回の講演をすることであった。私はそこでも、排日問題の否なることを宗教的立場から話した。北米外国伝道大会は、カナダの外国伝道会社の代表者をも含んで、約五〇〇〇名の代表者が出席してゐた。頗る熱烈な信仰の使徒達の集りで、私は誠に愉快であった。米国は物質的な国であるけれども、かうした方面から見ると、米国のほんとの偉い部分が此処にあるのだと理解せられる。
 一年七〇〇〇万円の金を費して、三万人の宣教師を外国に派遣してゐるこの米国伝道会社は、いくら、米国が嫌いな私にでも、その偉大な事業に対して賞讃しないわけにはいかなかった。
 私は、その会に出席して居る世界的思想を抱いてゐる人々に、心より敬意を払ったのであった。

 わが物顔に振舞う金権の亡者
 かうして、私が米国を攻撃しても、悔ゆる心を持つ米人には感心なところがあると私も感心して了った。私は叫んだのであった――
 「かういふことは、あなた達を侮辱してゐるかも知れない、侮辱してゐるのだ、それが厭なら引ずり出して下さい。私は神の名の為めに叫ばずには居れないのです。米国の憲法に何と書いてありますか? 私は米国の国歌を唱ふことをもうよした。私は10年前に来た時には「おゝ自由の国、汝の名を我は歌ふ」と高唱しました。然し私はもうその歌を唱へますまい。白人には自由かも知れないが、黄色人種には自由はないのです! 私はアブラハム・リンカーンの名によって、米国を恥ぢる!」
 かう云った時に私は誰かゞ飛び出して来て私を引ずり出すかと思うた。然し誰も出て来なかった。却って涙が多くの人々の眼瞼に漂ふを見た。
 「可哀相だ! 米国に善人もあるものを・・・金権と我利の亡者連がこれらの徳ある人々を隅に押し込み、わが者顔に振る舞ふてゐるのだ!」
 こんなに思ふと米国人にも豪いところがあると思はれてくる。到る処でヨナの流儀を発揮して、1月28日、米国の首府ワシントンに乗り込んだ。此処でもキリスト教外国伝道大会が開かれた機会を利用して全米国に訴へる必要を感じた。で叉例の演説を繰り返した。そして会派は私の意見に賛成し、北米のクリスチャンは総て上院議員の行為を拒否することを表白した。それは一人の除外例を見なかった。

 霧に包まれた神像
 一日として楽しまなかった米国を出立することをどんなに自ら祝福したことだらう。
 ニューヨークは霧に包まれてゐた、私は霧に物語った。
 「霧よ、永遠にニューヨークを包んで居れ、ニューヨークを光に出すには余りに恥しい」
 船はニューヨーク港を出た。港の入口に立つ自由の神像は霧の為に見えなかった。
それを私は意味あることにとった。
 米国は、今、霧の中に坐る!
 自由の神像は米人にも今見えないで居る!

 グラッドストーン
 今私はウェストミンスター寺院の東の入口から這入って、英国の精神と物語ってゐるのだ。
 「此処が、グラドストーンです」
 かう云ふて、案内役のマクレナン氏が、私に指してくれた。驚いたことには、私は知らずに、グラドストーンの墓標を踏み付けてゐた。
 ・・・小さい葬式が通る・・・それには一人の寡婦の外、誰れも葬列に加はるものはない。それを見兼ねて背の丈六尺を越ゆる白髪の老人で頬髯を長く生やした風采の賎しくない黒装束の紳士が、その淋しい葬列に黙々として加はった。小さい葬列は共同墓地に着いた。
 寡婦も黙ってゐた。老紳士も黙ってゐた。そして、沈黙の中に老紳士はまた引き上げて了った。寡婦は勿論その老紳士が何人であるかを知らなかった。老紳士は、その寡婦が英国市民としては最も同情すべき貧しき階級の女であることを知ってゐた。
 眼の早い新聞記者は、その老紳士が何人であるかを知った。それは時めく大英帝国の大宰相、敬虔なる紳士、グラドストーン卿その人であったのだ。
 私が知らずして、グ卿の墓を踏み付けてゐる時に、私の頭をよぎった幻影は、その葬列の光景であった。

 ウエストニンスター
 そこは天才の集合所である。そこは歴史の結晶したものである。此処にはセキスピアも居れば、テニソンも居る。バイロンも居れば、シェレーも居る。それらは、みな聖堂の左翼に陣取ってゐる。
 進化論の創始者チャールズ・ダァヴィンはその友人、サァ・アルフレッド・ラッセル・ワレースと共に南の袖の東側の廊下に陣取ってゐる。
 英国を精神的ブルボン主義より救ふた大宗教家ジョン・ウェスレーの胸像が私を睨む。
 今、私が彼等の寝てゐるこの寺院に来て、瞑想の世界で彼等の前に会ふことは、此の上なき光栄であった。ワーズウォースによって、私は自然を愛することを学び、テニソンによって、性に対する至純の愛を学んだ。そして、彼等は、今、此処に寝てゐる。
 バイロンによって、私は海と自由と熱情を学び、シェレーによって、雲雀と物語ることを教へられた。リヴィングストーンは、私の敬虔の父である。ダァヴィンは私の科学の母である。ワレースは私に進化を通じての神を教えて、ウェスレーは産業革命を通じての信仰と祈りを学ばせてくれた。そこに立つ塑像は、みな私の恩人である。

 ロンドンの貧民街
 トインビー・ホールの前を真直ぐに通り抜けると、ユダヤ人の貧民窟である。二間幅の道路に人が一杯埋まってゐる。こんな穢い狭いところにわざわざ野天の店なと出さなくても善ささうなものだと考へるけれども、そこがロンドン式と見える。何処から出て来るのか知らないが、まあ兎に角大勢で、余程巧者に歩かないと通られない。日本の縁日市場に行ったのと少しも変らない。ニューヨークにも、之があるが、こんな狭い通りにかうは出て居らない。
 極彩色に染め出したうち緒を売ってゐる店がある。果実を売ってゐる店がある。その隣が魚屋、道の中央に肉屋が頑張る・・・と云った仕末で、とても滑稽なほど秩序の無い縁日市場である。その中を襤褸を着た少年も通れば、マッチを売る乞食も通る。さうかと思ふと女優のやうな風釆をした金糸の刺繍をしたマントウを着たクレオパトラのやうな女が通る。
 「妙な所に来たものだわい」と思ってゐると、大勢の児供が、一人の精神病患者をからかい乍らやってくる。此の女は六尺に近い巨大な体格の持ち主であったが、顔を極彩色に塗りたてゝ、貴婦人のやうな真似をしてゐる。頭の上には、変手な伊太利式の帽子に人形のやうなものをぶら下げ、驚く程小さな日傘をさして、女王の如く歩いてゐるのである。私は町の表と裏でかうも人情風俗が変るものかと、全く驚いて了ったのである。
 男は昼間労働に出てゐると見えて、買物に出て来てゐるものは大抵女であった。それが多くはおかみさんである。そのおかみさんが、一九世紀の中葉に流行した頭の上にちょこツとしか乗らぬ小さいボンネットを黒い緒で顎にくゝりつけ、子供の子を引き乍ら、街をよちよち歩いてゐるのである。
 貧民窟は、時代の敗残者の隠れ場所であると云ふが、流行までが、七、八〇年遅れてゐるのを見て、私は感慨無量であった。
 右手側の二階屋は、もう崩れかゝって居る。そこに住むことは、誠に危険である。窓にはガラスも無く、屋根の瓦は落ちて、天井から青空が覗いて居る。それでも、窓にはガラスの変りに新聞紙を張り、屋根と天井の残って居るところに、歪んだ鉄製のベッドを寄せ、そこに住んで居る家族がある。勿論、ベッドの上に白いシーツなどの有らう道理がない。昆布のように、ドロドロになった毛布が二、三枚そこにぐるぐる巻いてつみ上げてある。かうした中にも、レースのカーテンを窓に吊り下げた家もあり、窓の硝子越に、ピュロー・ケースの美しいカップ・ボァドが見えてゐる所もある。このあたり、日本の貧民窟と少しも変らない、たゞ違ってゐるのは、日本式の畳が、西洋式の机とベッドに代って居るだけのことである。

 イギリスの軍拡
 ミスター・アモンズ氏は私を一人一人の議員に紹介してくれた。
 みんなの要求は、シンガポールの海軍要港問題を私が、どんなに思ふか、次に、日本の労働運動の事情を話してくれと云ふのであった。
 私はシンガポール海軍要港問題に就て、五つの点から反対論を述べた。
 第一、日英同盟の意義を今更疑ひ始めるとは、あまり英国の保守党も現金過ぎるぢゃないか?
 第二、国際聯盟で第一ケ条の約束無戦世界の実現の趣旨に反するぢゃないか?
 第三、日本が軍備縮少をしてゐる今日、英国が軍備充実とはどうした理由か?
 第四、凡てを譲って、英国がシンガポールを堅める必要があるとして、東洋の仮想敵国はシンガポール以東には日本だけしか無いではないか! 日本を恐れる理由は何処にあるか? 保守党は日本が英国のそれの如く殖民地の侵略に出掛けると思ふのか?
 日本は十九世紀の人類の失敗史を繰り返したくない。その野心があるならワシントン会議には参加しなかったであらう。日本の輿論は侵略主義に反対して居る。従って、英国の保守党の意見には反対である。
 第五、日本にも軍国主義者が無いではない。然し、一般の輿論と、そして労働階放の意見は仏のエリオーと、実のマクドナルドの抱いて居る絶対世界平和の意見に賛成してゐるのだ。「平和議定書」(プロトコール)の趣旨には我々は絶対に賛成である。之に反対するものはたゞ、少数の帝国主義者と英国保守党者流だけの者であらうと結んだ。
 それに対して、労働党の議員連は足踏みと拍手で迎えてくれた。

 マクドナルドの平和論
 マクドナルド氏「君はシンガポールの海軍要港問題に就て、どう思ひますか? 君の忌憚なき意見を聞かして下さい、明後日、私はその問題に就て演説することになってゐるんですよ」
 マクドナルド氏は。牛のような温順な眼玉を私に向けて尋ねた――写真で見るとマクドナルドの眼は如何にも奥目で犯罪者の如く恐ろしく光ってゐるが、実際会って見ると、実に柔和な眼付をしてゐるには私も驚いたのであった。日本では武藤山治氏が柔和な顔の持ち主であるが、マクドナルド氏はその柔和さに於て武藤山治氏に似通ふところがある。
 彼の質問に対して私はすぐ答へた。
 「あれは実につまらない保守党内閣の悪戯ですね。あの為めに世界の平和は威嚇されますよ。第一ワシントン会議で軍備の縮少を唱へたその舌の根がまだ乾かない中に海軍根拠地を新設するなんか全く馬鹿らしいじゃありませんか? それに、日本では軍備縮少を断行してゐるのに、英国が拡張をやると云ふのはどうしたことなんですか・・・シンガポールの根拠地は日本を仮想敵国と見なければならないでせうが、昨日迄で同盟国であったものが、今日は互ひに相疑ひ、相かまへて戦闘準備をすると云ふのはおかしなことですね。どうも英国の帝国主義がいやになりますねえ」

 揚子江の米艦隊
 彼が沈黙したので、私は更に、支那に於ける米国の帝国主義的行動に就て、彼に話した。
 「数年前に私が揚子江を遡った時に、私の見たところによると、日本の砲艦よりも、英国砲艦よりも、米国の砲艦の数の方が遥かに多いように見受けたものですから、数へて見ると、やはり、米国の砲艦の数が実際に於て、日本よりも多いのでした。私は、何故支那のような遠いところに、米国が揚子江だけにしか使はない砲艦を造る必要があるか、それを私は疑ふものです。世界の軍国主義にはいやなりますね」
 さう私が云ふや、マクドナルド氏は直ちに答へた。
 「揚子江にある英国の砲艦はみな旧式のものばかりで、役には立たないものばかりです」
さう云ふたマクドナルド氏は、独り言のやうに・
 「あれらは早晩新式のものに取り換へなくてはいかない」とつけ加へた。
 その言葉を私はマクドナルド氏の無戦主義と照し合せて考へて、妙な気がした。
 それは保守党が、新式の砲艦を揚子江に入れる必要があると云ふたのか、自分が首相になった日にでも、揚子江に新式の砲艦を入れると云ふたのか、その辺ははっきりしなかった。兎に角、マクドナルド氏は無戦主義者であるけれどもトルストイアンで無いことだけは事実である。彼は失業者救済の目的を以って、軍艦五隻を建造することを提議した人であることも善く覚えておかねばならない。
 私は実際政治家と理論的批評家との間には余程の距離があると云ふことをつくづくと考へたのであった。マクドナルド氏も理想の世界がどんな世界であるかをよく知ってゐよう。然し、彼は現実の世界に処して、揚子江に新式の砲艦のいることを考てゐるのであった。

 パリーのラマ教文化
 「パリーを、どう思ふか・・・」とお尋ねですか、さうですね、一口でいってしまへばラマ教文化の街といってしまひませうね。
 私はパリーでは出来るだけ同情を持って、パリー人を観察しようとしてゐました。しかし、結局、結論としては、パリーは今ラマ教のあるいた道をあるいてゐるな、としか、思はれませんでした。
 「皮肉をいふな」と仰しゃるのですか、皮肉ぢゃありませんよ、私は真剣なんですよ。
 パリーに着いた最初の晩、私はモンマルトルの「地獄」「極楽」を見ました。そしてあまり馬鹿々々しいのにあきれて開いた口が塞がりませんでした。

 デンマークの印象
 高等農民学校は、五月一日から、女子部が開校せられてゐた。それで、ハスラウには一五〇名ばかりの娘達が、全国から集って来てゐた。独逸の娘違に較べて、実に輪廓が美しく、一〇人よれば九人まで美しい。日本の農村の娘達のやうな栄養不良の顔は一つも見出せなかった。みな林檎のやうな煩ぺたをして、星のやうに輝いてゐた。洋服は凡て手縫ひださうだが、自分の好みの縞と、色彩を撰んで思ったやうに巧者に縫ふてゐた。
 第一に、私は校長先生デビドソン氏の聖書の時間に出席したが、一五〇名の生徒は至極静粛にそれを聞いてゐる。讃美歌が実に善い。
 それが済むと、お昼飯であったが、私は、一五〇名の苦学生と食卓を共にするの光栄を担ふた。食堂は教場の階下にあったが、正面にはデンマーク、スイデン、ノールウェー三ケ国の大きな国旗で飾られであった。校長に何政三ケ国の旗を並べるかと尋ねると、同一種族同一国語を話す国民だから、親愛の意味で並べてあるのだと云ふ。その言葉が第一私に気に入る。

 海軍を全廃して国民教育に
 デンマーク政府は海軍を全廃し、陸軍を3000人に縮少して、国民教育の資に当てゐる。だから、どんな小さい私立学校であっても、生徒があれば、そこには、政府から補助金がくることになってゐると云ふことであった。

 小さな国ほどよく治まる
 私は思ひました――ヨーロッパを見ようと思へば大きな国を見てはならないと。ヨーロッパの小さい国ほど、よく治まってゐます。私は、ベルギーとオランダとデンマークを見たことを、ほんとにうれしく思ってゐます。それ等の国を廻って、私は、ほんとのヨーロッパに来たやうな気がしました。イギリスやフランスやドイツはヨーロッパではありません。あれは地獄です。
 私はデンマークに来て、私等の農村改造の理想が一層困難になったことを、感じさせられて居ります。農村改造の問題は、ロシア共産党の様に、腕力や武力で解決するとは考へられません。グルンドウィッヒとベックとドグラスと(デンマークの荒地に植林して砂丘を緑の野に変へた人)熊沢蕃山と、二宮尊徳と、ベスタロッチの凡てを備ふて来ても、まだ足りない様に思ひます。
 私は、日本に帰ればも少し落ち付いてやる心意(つもり)にして居ります。落ち付いてと云ふ意味は、も少し精神主義的にといふ意味です。私は枯木に花を咲かすような運動をしたいと思ってゐません。私は一生を種蒔く人となって終り度いと思って居ります。グルンドウィッヒの最初の学校は、生徒が僅か四人しかありませんでした。私はその四人から初めたいと思って居ります。

 欧州は煩悶している
 フランスは80万人の陸軍を持ち、欧洲は戦争前の軍備の数倍を持って、藻掻(もが)いてゐる。
 ボルセヴィキも思った程進歩しない。経済制度が強力と支配で整理出来ると思った迷夢から、今や目醒めつゝある。
イタリアはファチスチの鉄拳政治に悩んで居る。ムッソリニは執政官スラ・マリアスの真似 事を繰り返してゐる。然し、強力が長く民衆を支配し得るとは思へない。
 オスタリアは虫の息である。国は三分され、オスタリア本国は、今はたゞ400人を残してゐるのみだ。国際聯盟に救済されて、漸く虫の息を繁いでゐる。
 賢き白人種は、欧洲平原に共喰ひして、1300万人の白骨をミューズの流域に残した。人類は共愛扶助の為めに、生く可く賢き智慧を持ち、その智慧を用ゐて自らの墓穴を掘る。
 去年、英のマクドナルドと、仏のエリオーが、こゝで相会して、世界の絶対平和を申し合せ、平和議定書まで作り上げたが、貧慾の人々は、それを支持することを好まないでまた、それを破壊してしまった。

 魂と愛だけが成長しなかった
 挑むことのない努力の中に、械械の発明は為し遂げられた。それは人類の歴史に取っては、成長の一階段であった。それは恰も、カインが最初の武器を発明したように、機械は二〇世紀の人類に取っては少し道具が大き過ぎた。機械に較べて愛が少な過ぎたのだ。
 成長が悪いのではない! 魂が外側に較べて成長しないのが悪いのだ。成長する! 成長する! 凡てのものが成長する。都会が成長し、機械が成長し、資本主義が成長する。機を織るものがある。船を造るものがある。自働車を走らすものがある。電信をうつものがある。そして魂と愛だけが成長しなかった。そこに地球の悩みがあるのではないか。

 ファンダメンタリスト
 米国で近頃問題になってゐるのは、根本主義者(ファンダメンタリスト)と自由主義者の争ひです。根本主義者といふのは、三身一体、あがなひ、処女懐胎、よみがへり、昇天等の教義的方面を重んずる一派で、自由主義者はそれを宗教の実感の根本でないと見る一派であります。米国ではこれが一般社会の物笑ひとなる程やかましいのです。
 英国では全くこれを問題にしませぬ。私の出身校のプリンストンのギリシャ部専門の教授メーチェンさんが、教義主義の大親玉で、自由主義はニューヨークの宗教界に、その人ありと知られたフォデック博士が一方の旗頭です。新聞紙などは、みなフォデックに肩を入れ、保守主義者はメーチェンの尻押しをしてゐるのです。私はこの喧嘩をつまらないものだとみてゐます。かうして米国では良心宗教家の根本義を忘れ、資本主義横暴の宗教界が出来上ってゐるのです。

 偶像教の保存
 私がパリーのパンテノンの一裏にある、パリー市の守本尊サン・ジネーヴの棺を据ゑてある、旧い寺院を訪れた時に、驚いたことはパリー人がキリストの聖像を無視して、サン・ジネーヴの棺の前に幾百本となく蝋燭をとぼしてゐることでした。私は、あまり馬鹿らしいので初めはぐんにゃりしたが、考へて見ればパリー人は始めから聖教徒になってはゐなかったので、偶像教をキリスト教の形で保存して来たのだと思って、同情に堪へられなくなったのでした。
偶像教にも美しいところはあります。真理の断片のない宗教的価値といふものはありませぬ。視覚的陶酔に偶像教ほど都合のよいものはありません。そしてパリー人は始めからキリスト教にはならないで、偶像教をキリスト教的に保存せんとしたものだから、今日の形でサン・ジネーヴををがむに何の不都合もないのでせう。
 しかし、パリーやロマほどキリストが無視せられて、聖母マリアが礼祥を受けることの多いところも少いでせう。

 殿堂建築を教えなかった大工イエス
 私は、サン・マルコ寺院には感激を受けないけれども、拝んで居る巡礼達から感激を受ける。奥の方から、美しい聖歌のコーラスが聞えて来る。今しも、一団の巡礼が聖母マリアの前に讃歌を捧げて居る処である。
 寺院の中には、ベンチも何も無く、只、目醒むるばかりのモザイクが、床一回に惜しげもなくほどこしてある。円形になったドームの内部も、虹の様に美しい金色のモザイクを以て飾ってある。私は、人間の手で此れより以上美しいものが、出来得るとは考へられなかった。
 信仰でも無ければ、こんな面倒臭い仕事が出来るものではない。大きなサン・マルコが一つの珠玉である。それは完全な彫刻物である。たゞ悲しいことには、これは私の考へて居る基督教では無い。
 基督教がサン・マルコを造った時に、それはその本質より離れて、ギリシャ文化に降参してゐた時である。大工イエスは、人間建築を教へたが、殿堂建築は教へなかった筈である。大地震があって、サン・マルコがバラバラになっても、私は惜しいとは思はぬ。

 ペテロとの会話
 クォ・ヴァディスの教会近くになった。精霊のペテロが後から私に近づいて来た。
 「賀川豊彦よ、先刻の約束に従って、私は、お前に、私達の悩みを教へる為めに、此処に来た」
 其の声に私は後に振り向いた。ペテロがそこに立ってゐると思って。然し、誰もそこに立つてはゐなかった。立ってゐる者は自分一人であった。それで私は、ペテロが、私の魂に訴かけてゐることを初めて悟った。
 「魂のペテロよ、語ってくれ、私は東洋から来た巡礼者だ。ローマの醜き姿に耐え兼ねて、アピア街道に昔の君を偲ぶ為めに来たのだ。ペテロよ、今日のローマは十字架を逃げつゝあるぢゃないか、お前はそれに就いてどう思ふか」
 「東邦の巡礼者よ、それに就いて、私は語らねばならぬ。まことに君が云ふ如く、ヴァチカンの鼠等は、十字架の棒杭を噛み切って了った。まことに私は彼等を、私の名によって辱ぢる。私達の礼拝した所は、彼方にある地下のカタコムであった」
 斯う云って、見えざるペテロが、アピア街道の前方を差し示す。ペテロの言葉はなほ続いた。

 「我等の同志はもぐらの様に、土の下で祈った。昨日は殉教者を一〇人葬り、今日は二〇人を葬らねばならぬその日に、私達は敢然として、土の底に祈り且つ相愛したのであった。そして、今日のヴァチカンは、大理石と錦とをもって、飾って相憎んでゐる。彼等は暴君へロデの末裔であって、ナザレの大工イエスの弟子ではない。ガリラヤの漁夫は、何の持ち場をもヴァチカンには持たぬ。ヴァチカンは、砂丘の上に立つ屡気楼だ。私は十字架の上に彼等を耻(はじ)る」

 エルサレム
 国亡びて、既に二〇〇〇年、彼等は猶、「神よエルサレムを築き給へ」と祈ってゐることを思ふと、人間の力と云ふものが存外、弱いようで強いものであることを思ふ。
 こんな砂漠地方に国家を作ることは不可能中の不可能なこと。民族として一国家を作りたければ、別に何処か、南アメリカあたりに集中して、移住すれば善いのにと思ふ。なにも北半球でなければ、神が居らぬと云ふのではなし、彼等が団結して土地を買ひ取って移住すれば、立派な国を作ることが出来るのにと思ふ。私であればさうする。こんな砂漠にアインスタイン大学を作るよりか、ユダヤ人の集ってゐるニューヨークにアインスタイン大学を作った方が遥かにましだと思ふ。
 
 然し、「哀歌」を唱へてゐる人々に取っては、地理的エルサレムは、もう地理的実在ではなくして、心理的実在なのだから悲劇である。男子が篩(ふるひ)のような形をした毛皮の帽子を蒙ってゐることと、髪の毛を剃らないで、延びるだけ延ばせて、それを巻き上げてゐる姿が如何にも異様に見える。宿の主人公のミスタースパフォードは「異邦人」(ヒーザニッシュ)臭いと云ふたが、確かに野蛮人でなければ、半開人の姿と云って然る可きである。
 私は、彼の哀号を聞いて居る中に「国」と云ふもの、民族と云ふものが如何に妙なものであるかを思ふた。私のように世界を旅する人間に取っては「国」と云ふものほどおかしなものはない。そしてユダヤ人は今、そのおかしなものの為めに祈ってゐるのである。何故一歩前に進んで「神の国」の為めに祈らないであろうかと、私は考へた。

 昇天教堂
 マホメット教の霊場になってゐる昇天教堂に行くと、アラビヤ人の番人が、此処からイエスが天に昇天したのだと、モスクの中央に埋めてある四角な石を指さした。それには足跡を二つ並ベて刻んであった。
 アラビア人は、如何にも勿体さうに、橄欖の樹の一枝をその足跡に撫で付けて、それを私の頭の上で振って、「祝福を受けなさい」とアラビア語で云ふて、私に、その枝を差し出した。私がそれを受け取るや否や、彼は「バクシーシ」と云って、左の手をつき出した。

 回教徒のアブラハム信仰
 マホメット教徒は、アブラハムを信仰の中心人物の一人として考へるのと、アラビヤ人種が、イサクの長子エソウと直接関係ある為めに、アブラハム、イサク、ヤコブの墓を最も神聖なものと考へ、之を尊重して居ること、メッカ、メシナに劣らないのである。ヘブロンは、メッカ、メシナ、エルサレムを加へて、マホメット教徒の四大霊場の一つとなって居る。
 それほどまでに、大切であり、有名であるへブロンも、行って見ると四国八十八ケ所の一つの霊場に較べても、見劣りのする位穢い場所であった。
 マクペラの洞穴は、山の麓に掘られてあるものと見えて、マホメット教の寺院は実に妙な場所に位置を占めて居る。俗人は一切出入りを禁止してある為めに、洞窟は私等には見ることが出来なかったが、少し金をやると、仕事をしないで遊んで居る案内人らしい男が、門の中を一寸這入った東門の戸の鍵穴からヨセフの墓と、ヤコブの墓を窺かせてくれる。

 競争伝説を製造
 
ユダヤの霊地では、マホメット教徒と、キリスト教徒が競争で、伝説を製造する。それで場所と器物に就ては或る物を除いては殆ど信ずべき者は無いと云って善い。誕生教会も、イエスが現実的に生れたと云ふことを知るよりか、巡礼者の心理に、伝説がどんな形で印象されて帰るかを知る為めに、見るより外に仕方はない。
 私は伝説を伝説として受け取る。それに高等批評を加へるだけの野暮では無い。それにはそれだけの大きな使命がある。それで私は魂の糧として、ユダヤの自然美を勉めて、多く吸収することにした。

 3回のプロテスタント
 今日までに、三つのプロテスタントが有った。第一回はマホメット教で、第二回はルーテル教で、第三回はボルセヴィキである。三つともユダヤ人或ひはユダヤ主義が中心であることに注意せねばならぬ。
 私はマホメット教のモスクを一番心持ち善く思ふ。彼等はキリスト教の伝説を巧みに保存し、それを偶像化せずに保存する。マホメットが、ユダヤ教とキリスト教を取り入れんと苦心した醜しき伝説をみよ。それは最も完全なる反抗運動であったのだ。

 パレスチナのユダヤ人
 今日パレステナに居るユダヤ人は僅かに8万5000位である。(1922年10月の国勢調査の時にユダヤ人は8万3794人、其の他67万3388人)この中の大部分の人々は戦後欧洲列国から帰って来た人々である。
 約五万人(1918年以後1924年12月迄4万8979人)は、英国がパレステナをユダヤ民放の為に解放してから、帰って来た人々である。
 実際、最近、ユダヤ人の聖地に帰還する趨勢は驚く可き程度であって、戦後彼等は既に6000万円近くの金をパレステナに投資し、約100万本の樹木を植林し、50万本のユウカリプトスを植え付け、1000万円の資金を投じて150の工場を作り、製油、製粉、製塩、セメント工業の四種のパレステナ特有の産業の為に、戦後既に500万円の投資をなし、その他最近には煉瓦、養蚕等の方面に若しき発展を遂げつつあるのである。
 ロシヤ系のユダヤ人ピネハス・ラッテンベルク氏は動力の不足を補ふ為めにと、イエス・キリストが洗礼を受けられたヨルダン河に水力発電所を設ける許可を英国政府から受け、その工事はもう着々と進行して居る。
 組織好きなユダヤ人は、生産及消費組合を組織し、殆ど凡ての企業と投資は何等かの産業組合と関係が有ると云ふ形である。
 2万人のユダヤ人はヨッパ郊外のテル・アヴィヴTel Aviv に市政をしき、世界に唯一つのユダヤ人の自由都市として、パレステナに於けるユダヤ系の文化の中心をなして居る。そこには、アムステルダムの万国労働組合総聯合に加盟してゐる労働組合もあり、教育機関も完備し、義務教育的設備もあり、5歳より14歳までの児童の96%は小学校に出席して居る。医療機関も非常に発達して居る為めに1923年のユダヤ人の死亡率は僅かに1000の人口に対して14人8分であり、出生率は36・2%と云ふ数字を示して居る。
 之を他の住民に較べると話にならない。一般住民の死亡率は一〇〇〇に対して二七人三分と云ふ高率を示し、出生率も一〇〇〇に対して四九人二分と云ふ数である。
 ユダヤ人のこの建国運動の中心勢力は何と云ふても「シオン」主義運動である、シオニスト( Zionist )は世界に四七の同盟会を列国に持ち、三二万人の組合員を持って括る。
 然しユダヤ建国運動に賛成して居る人々はこの団体の外に、ユダヤ教教師の団体であるミズラキ( Mizrachi )と、社会主義団体である、ヒタチダス、ザイレシォン、ポアレシォンの三団体がある。ミズラキは一三万四〇〇〇人の組合員を有し、社会主義団体三派は一〇万九〇〇〇人の組合員を持って居る。
 之等の人々の中には「開拓者」(チャルジム)運動と云ふのが特に唱道せられ、欧洲列国のユダヤ人の中にも、二〇の農学校を泣立して、近々ユダヤに帰還せんとする近世的農業技術者を養成して居るのである。今日ここには四〇〇〇人の学生が訓練を受け、その組合には一万二〇〇〇人が加盟して居ると云ふことである。
 こんな傾向であるから、ユダヤ人は欧洲からも、アメリカからも続々とパレステナをめがけて帰還しつゝあるのである。その中の多くは、資本金二五〇〇円以上五〇〇〇円位までを携帯した定住的移民であるから心強い。然し中には、紅海に面しにヤタン地方に遊牧してゐた牧羊者の群も、帰還しつゝあるから面白い。

 ダビデの墓
 ダビデの墓と云ふのが、妙なものである。之はシオン門に近いところにあるが、マホメット教のものが勝手に作ったもので、何等、信ず可き根拠のないものである。面白いのはその墓の二階をキリストが聖餐式を守ったところだと伝へてゐることである。
 それは使徒行伝二章二九節に、「ダビデの墓は、今日に至るまで我等の中にあり」と云ふ一節から、無理にも、ダビデの墓と、聖餐式場とが同一ケ所であると云ひ出したものである。
 マホメッド教徒は万事この式で、クリスチャンの伝説を利用して、入場券を取ることのみを考へてゐる。そこは今マホメット教の礼拝所である。