国語・国民・国家 夜学会317
今日の話は「国家とは何か」の続編になる。国語・国民・国家は明治に生まれた言葉。国が並んでおり、明治の人々がいかに国を意識していたかが分かる。国家と国民は英語のnationの訳語。英語では一つの概念なのに日本語になると二つの概念を現すようになる。この中で国語だけが不思議な概念だ。national languageを翻訳したものだが、あまり使われる言葉ではない。普通はEnglishとかFrenchと固有の言語で表現する。国語という言葉は明治20年、帝国大学文学部長だった上田万年(かずとし)が言い出したとされる。現在は日本語を多用し、国語はあまり使われない。使うのは学校の教材としての「国語」と「国語辞典」。English Dictionaryとはいうが、日本語辞典とはあまり呼ばない。そもそも、イギリスには英語つまりEnglishという授業はない。授業名はGrammar(文法)とComposition(作文)。唯一、台湾にだけ「国語」という表現があり、北京語のことである。蒋介石が北伐しながら、中国をまがりなりにも統一した際、共通語の必要性を感じ、「国語運動」を起こした。根拠はないがたぶん日本の影響ではないかと思っている。
その明治時代に、日本語の辞書づくりに励んだのが大槻文彦。解体新書を現した大槻玄沢の孫である。17年の月日をかけて、一人で1万2000語の辞書「言海」を編集した。明治24年の出版記念会には明治の元勲の伊藤博文ら政府高官、学者、新聞記者が集まった。最大の特徴は言葉を「あいうえお」の順に並べたことであろう。いまでは誰でもが辞書を引けるのは、みんなが「あいうえお」の順番を空で覚えているからである。それまでの「あいうえお」は「いろはにほへと」だったため、福沢諭吉は「なぜ、わからん順番に並べるのか」と痛烈に批判したそうだ。「言海」が世に出た時、多くの日本人が戸惑ったことは容易に想像できる。そもそも言葉の意味を現す辞書などという概念がなかった上に「あいうえお」が登場したのだから当然である。この「言海」を出版したのは自由民権運動の旗手の一人小野梓の弟子、坂本嘉治馬がつくった富山房という会社だった。国語づくりにも高知の人々が貢献したのだ。「言海」は後に語彙が拡充されて、「大言海」として広く世の中で使われた。戦後、岩波書店が「広辞苑」を出版するまで、国語辞典の代表的存在だった。
僕が大槻文彦の存在を知ったのは、「言葉の海」(高田宏)だった。20年前、津支局長として赴任する際、友人が贈ってくれた本である。高田宏がいなかったら、言海が生まれた経緯は今も不明のままだったかもしれない。津市に赴任してしばらくして、谷川士清という学者の名前を知ることになる。三重県でもそんなに有名ではない人物だが、本居宣長と同時代の人。宣長が古事記を解読したことが有名であるが、谷川士清は日本書紀を解読した。解説書の「日本書紀通証」に「和語通音」という付録がついていて、驚くべきことにその中に「あいうえお」の表があったのだ。僕にとって大発見だった。谷川は、日本書紀のなかの言葉の語法や意味を考えるうちに、日本語の動詞の語尾が変化する法則性を発見した。いわゆる動詞の五段階活用である。それがまさに「あいうえお」だったのである。谷川は同時に、言葉の意味をカードに書きとめ、あいうえお順に並べた「和訓栞」を著した。1777年のことであるから、「言海」の出版の100年以上も前のことである。しかし、第一巻が出版されたのは死の翌年だった。谷川家のすごさは士清の業績を四代にわたって継承したことである。和訓栞93巻は明治20年、ようやく完成した。言海の4年前である。語彙の数はなんと2万1000語。言海を凌駕していた。大槻文彦がこの和訓栞の存在を知らなかったはずはない。大槻の言海は和訓栞のぱくりだった可能性が高い。シーボルトはこの和訓栞をオランダに持ち帰って翻訳したという話もある。