戦争中、アジア各地から日本にやってきた南方特別留学生のあり方は、戦後しばらくたってから思わぬ物語を生み出した。一九九〇年代初頭、京都市の修学院小学校の子どもたちは先生たちと一緒に、創立七〇年を記念した地域学習に取り組み始めた。与えられた「修学院風土記」が種本だった。神社仏閣を回るうちにこどもたちが遭遇したのが、圓光寺にあった形の違うお墓だった。前回の「被爆したラザク氏とルック・イースト」の続稿となる。

 ヒバクナンポウリュウガクセイ
 寺の住職の説明では、「ヒバクナンポウリュウガクセイ・サイド・オマール」という人物のお墓で、日本の墓と形が違うのはイスラム教徒だったからで、墓石にはアルファベットが刻まれていた。どういう人物かよく分からなかったので、先生たちは再度、寺を訪ねた。毎年九月に行われるオマールさんの慰霊祭に参加している人の名簿とNHK広島放送局がつくった「わが心のヒロシマ」というタイトルのビデオを借りて子どもたちに見せた。
 オマールさんが、戦争中に南方特別留学生として日本に学びに来て、広島にいるとき、原爆が落とされ、被爆しながらも留学生仲間や地域の市民を助けながら、被爆に治療を受けるため東京に行く途中、京都の病院で亡くなった経緯を知った。子どもたちにとって、広島の原爆の話も詳しくは知りませんでした。そして、被害者の中にアジアの留学生がいて、その墓が身近の寺にあったことに驚いた。
 住職から話を聞いた後。子どもたちはもっとオマールさんのことを知りたくなり、オマールさんが日本に滞在した時の関係者に手紙を書くことを決めた。クラスで手分けして、マレーシアの友人、日本での日本語の先生、広島時代の日本人の友人など二〇人近くの人々に手紙を書いたところ、子どもたちからの手紙とあって懇切丁寧に、オマールさんとの関係や当時の状況を返事してくれた。

 京都人の恥
 京都の園部宏子さんはオマールさんの墓を建立した経緯を書いてくれた。一九五八年の週刊朝日に「オマール君のお墓」と題して、京都の大日山のオマールさんの墓があって、たった二本の杭棒で埋葬されていることが書かれてあった。園部さんの兄から「京都人の恥だから、なんとかしてくれ」という要請があり、当時京都市役所に勤めていた園部さんの亡夫が関係先を回って、圓光寺で埋葬する許可を得て、嵯峨野の石寅という石屋が石碑を提供してくれることになり、一九六一年九月に改葬を終えた。三年後にはオマールさんの義兄が来日し、翌年にはオマールさんの妹の夫で、後にマラヤ大学学長になるアジス博士も墓参りに来てくれた。墓石のわきには武者小路実篤による追悼の碑文が刻まれた。
 「君はマレーからはるばる日本の広島に勉強しに来てくれた。それなのに君を迎えたのは原爆だった。嗚呼実に残念である。君は君のことを忘れない日本人あることを記憶していただきたい」
 オマールさんの被爆死はマレーシアでは多くの人が知っており、圓光寺に墓が改葬されたことにより、マレーシア関係者が京都に来た際には必ず、来訪する場所となった。子どもたちはオマールさんの墓がマレーシアとの国際親善の架橋になっていることも知るようになった。
 一九九一年二年、妹のアザーさんが二度目の墓参をしたとき、広島大学の教授が、オマールさんが被爆の直後に詠んだ和歌が披露された。
 「母を遠くはなれてあれば、
   南にながるる星のかなしかりけれ」(サイド・オマール、昭和二〇年八月二五日)
 一九九一年四月、マレーシア首相(当時)のマハティール夫妻が参拝した際、墓に千羽鶴が飾られていた。住職は、近くの修学院小学校の子どもたちがオマールさんのことを慕って作ったことを伝え、首相は「私たちの国の人が、外国で地域の子どもたちに、こんなに大切にしてもらっているのを知って、本当に嬉しいです」と語った。
 
 折り鶴集会
 四月、六年生は広島への修学旅行に出かけた。出発まで、実行委員会の子どもたちを中心に一九四五年八月六日の広島での凄惨な原爆による被害の実態を学んだ。広島で留学生たちが住んでいた興南寮で寮父をしていた人の長男が立命館大学で勤務していて、みんなで平和ミュージアムで話を聞いた。広島で被爆した人たちからの手紙も頼りだったが、地元の図書館の原爆に関する書籍のほとんどが子どもたちによって貸し出されたという。オマールさんの墓を見つけたことがきっかけとなって、子どもたちの関心は戦争と平和というより高度なものへと広がったのだから大変なことだと言わざるを得ない。
 修学院小学校のその年の修学旅行は、普通の単に楽しいだけ旅行とは大きく収穫があった。
 一つの成果は折り鶴集会だった。興南寮跡地で、開催され、修学院小学校の一年から六年までの子どもたちが折った一二〇〇羽の折り鶴をあしらったパネルを展示し、「野に咲く花のように」を合唱、誓いの言葉を順番に唱えた。
オマールさん。
私たちはあなたが、日本にむりやり連れて来られたこと、
被爆死、大火傷をおったあとも、
多くの日本人をはげまし、助けたことを知りました。
私たちは、あなたのやさしさと、勇気に感動しました。
また、私たちは、
たった一発の爆弾で、二〇万人もの尊い命が、
一瞬のうちに失われたことも知りました。………
もう一つは、交流カードだった。広島で出会った人たちに、オマールさんと広島の被爆への思いをつづった手作りのカードを手渡しした。カードの内容は「オマールさんを訪ねる旅」「原爆と熱線」「広島・宮島の特産物」など多彩だった。カードを読んだ多くの市民から、そのカード一つひとつに返事が来た。学校に帰った翌々日、五枚のはがきが届いた。次の日は一二枚、続いて、二三枚、二一枚……、渡した一六七枚から最終的に九二枚の返事が来た。そして夏休みには在日マレーシア大使館からマレーシア関連の刊行物を同封した感謝状が届いた。学習そして交流の成果が実感できた瞬間でもあった。
子どもたちの集会の様子は翌日の広島の新聞に掲載された。興味を持ったことをともに学びそして成果を出す、という本当の意味での修学旅行となった。オマールさんの被爆死は悲しい出来事だったが、子どもたちは修学旅行を通じて、広島でオマールさんと出会ったのだと思う。
この稿は主に早川幸生編「オマールさんを訪ねる旅 広島にいたマレーシアの王子様」(かもがわ出版)を参考にした。最後の章は「オマールさんはみんなの中で生きている」で終わっている。(萬晩報主宰・伴武澄)