今年9月1日は、関東大震災から100年となる。神戸のスラムで貧しい人たちとともに生きていた賀川豊彦は、そのニュースを耳にしてその日の内に船に乗った。東京の惨状を眼にして、「東京がスラムになる」と直感した。関西に戻って、支援金と支援物資を調達し、一か月後に被害が最も甚大だった本所でテント村をつくり、救済に乗り出した。まず住む場所、食べるものが必要だった。働く場所も不可欠だった。子どもの居場所も必要だった。スラムでそんな実態を知っていた賀川は本所を中心に八面六臂の活躍をし、新聞も連日、賀川の行動を記事にした。

 賀川は本所の地に、協同組合(コープショップ)、質庫協同組合をつくり人々の生活を底辺から支え、健康保険すらない時代に協同組合による病院までつくった。協同組合の精神はよく「一人は万人のために、万人は一人のために」というスローガンでしられるが、賀川は「人のため」ではなく、「ともに生きる」という精神を大切にした。

 2009年、東京と神戸を中心に「賀川豊彦献身100年プロジェクト」というイベントが開催され、一年に渡って各地で賀川豊彦を顕彰する運動が広がった。歴史に埋もれていた賀川豊彦を今一度、現代に蘇えらせる運動で、僕も広報委員長の立場から全面的に運動に加わった。今回は「関東大震災100年事業 賀川豊彦とボランティア」と題したプロジェクトが始まっている。日本生協連など関係35団体が集まり、賀川の精神を後世に引き継ぐ運動を模索している。8月31日にはそのキックオフ会が開催される。すでに「アニメ」「出版」などの事業が進めれ、秋以降、来年春までの間、いくつかのシンポジウムも計画されている。

 賀川豊彦は自分が主宰していた財団法人雲柱社の月刊誌「雲の柱」の1924年7月号で「ボランチア」という言葉を始めて使った。そんなことから賀川豊彦を日本のボランティアの始祖だという人もいる。長い人間社会の歴史で助け合いは当たり前のことだった。そうした自然発生的な「互助」ではなく、知らない人同士が困っている人々を組織的に助けることは日本では賀川以前にはなかったと思っている。自然界は弱肉強食のみで成り立っているわけではない。弱いものが助け合い生き延びて来たとするのが賀川の理論だった。人間社会でもそうしなければ、社会は発展しない。そう考えた賀川の精神を少なくともこの一年、振り返って生きることは決して無駄なことではない。ぼくもそう思って、今回のプロジェクトに参加している。