南行徳中でのよさこい波及効果
伴武澄(萬晩報主宰)
「じっちゃん、髪を赤く染めてもいい?」
「いいよ。パンパンやれ!」
昨年、千葉県市川市・南行徳中学のよさこいグループが本場、高知のよさこい踊りに参加した時、大谷能久先生は迷うことなく、子どもたちに髪を染めることを許した。大谷先生は教務主任だった。校内の生活指導の責任者である。じっちゃんは大谷先生の愛称である。
翌日、子どもたちは髪を染め、派手なメイクをしてよさこい本番に臨んだ。結果はどうだったか。翌々日、みんな元の黒い髪に戻していた。
「先生、髪赤く染めてもぜんぜん目立たないよ。黒い方が目立つ」
大谷先生はしてやったりという顔をしていた。
よさこい踊りは50年前、高知市で生まれた夏踊りである。田んぼのスズメ追いの鳴子をカスタネットのように使うもともとテンポのよい踊りだった。鳴子を使って、よさこい音頭の一部を音楽に取り入れれば、あとは編曲自由、振り付け自由という自由な発想の田舎踊りがいつの問にか進化した。
よさこいの第一印象で誰もが語るのは「ゾクソクした」という表現である。10年ほど前に北海道大学の学生が札幌によさこいを持ち込み、『YOSAKOIソーラン』を始めたことから全国に広がり、今では200ヵ所近くでよさこいが踊られている。どこでも「元気」が生まれると言っている。子どもたちより実は大人たちがまず踊りたくなる踊りなのである。
高知では8月10日から炎天下の2日間、踊り子隊(連)は地方車という音響・照明装置を積み込んだ大型トラックを先頭に、市内十数力所の演舞場で踊りまくる。狂うという表現の方がぴったりかもしれない。
音楽は、時代を映すようにサンバ調がはやったり、ロック調になったりした。90年代はラップも取り入れられ、21世紀になると日本調への回帰が始まった。それぞれの連がそれぞれの音楽、衣装、振り付けを持つだけではない。ほとんどの連が毎年、新しい音楽、新しい衣装、そして新しい振り付けを産み出すところに踊りの広がりと面白みがある。
南行徳中学では4年前からよさこいを練習している。生徒会長が「ぜひ踊りたい」と言い出した。校長も「いいよ」と言った。クラブ活動ではない。クラブ活動に迷惑をかけないということを約束させた。子どもたちは主に昼休みに体操着で練習した。
よさこいを学校でやることは、極端な話、学校にディスコを持ち込むに等しい。本場、高知の教育関係者は「よさこいは非行の始まり」といって学校単位でのよさこい踊りの参加は認めてこなかった。
大谷先生たちの立場は違った。「よさこいで学校を建て直した」といういくつかの例がすでに新聞記事になっていた。稚内南中学の『YOSAKOIソーラン』を取り入れた地域ぐるみの取り組みは映画にもなった。生徒会長らは横浜市の老松中学のよさこいをみて自分たちもやりたいと言い出したのである。
南行徳中学もまた4年前まで、授業がほとんどできない状態だった。一部の子どもたちは勝手気ままに教室を出入りし授業を妨害した。そんな子どもたちの暴走を先生も仲間の子どもたちも止められなかった。
大谷先生によると、生徒会がよさこいを始めると校内の空気が変わった。子どもたちのエネルギーが蘇ったとも言った。非行少年たちは遠巻きに生徒会の練習を見ていた。今でも踊りは見に来るから、本音では参加したかったのかもしれない。不思議なことなのだが、よさこい踊りの存在感が高まると、非行少年たちの存在感が急速に薄れて行った。
大谷先生は、東京下町生まれの自身も学生時代、祭好きで通したこともあって祭りがもたらす効用をある程度知っていた。
「子どもたちにも非日常の空間が必要なのです」
「大人たちはそんな世界をつくってあげる必要があるのです」
行徳は市川市の中でも比較的新しく発展した地域で町に祭がなかった。
子どもたちのよさこいはさっそく秋の文化祭で実った。3月の親子三代祭にも生徒会チームがよさこいを披露した。市教育委員会もPTAも子どもたちのよさこいに目を見張った。
「笑顔が蘇った」
「仲間意識が育まれた」
そんな評価があちこちで語られた。
そのころまでに、南行徳中学の生徒会の子どもたちのつくった人の輪が校内に広がり、さらに地域に広がっていたのである。現在、行徳には小学校、中学、高校、それから婦人会、青年団と7つのよさこいチームが生まれ、祭りに参加している。地域の大人たちが子どもたちを意識するようになると、子どもたちに自覚が生まれる。疎外という言葉が空文化する。そんな好循環が祭りのもたらす効用なのだ。
南行徳中学のよさこいチームの衣装はもちろん手作りだ。法被は黒を基調に黄色の袖口。袖は黒とオレンジの市松模様。襟の半分は縮緬で、半分はロイヤルパープル。
一週間かけて学校の家庭科室のミシンで縫った。家でミシンなど動かしたこともない子どもたちにとって生きた家庭科の授業にもなった。まだ自前の音楽は持っていないが、いずれそんな才能を持った子どもが現れるだろう。
実は、昨年からマレーシアでもよさこいが踊られるようになっている。マレーシア日本語協会というNPOが日本語学習の余技としてよさこい踊りを取り入れ、日本語を授業に取り入れている2つの中学校にすでに伝播しているのである。集まって騒ぐ祭りがないイスラム教の国でよさこい普及の兆しがあるということも興味ある事実である。
8月末、東京原宿で行われた『スーパーよさこい』で、デザイナーのコシノ・ジュンコさんが全国から集まった踊り子の衣装について「われわれデザイナーにとっても大いに刺激になった」と語った。法被という古来の祭りの衣装が蘇っただけでない。そのデザイン、色彩に進化がみられたからだと思う。
最近、よさこいは単に元気をもたらすだけではな いかもしれないと考え始めている。既製品が氾濫するこの世相に自前の音をつくったり、独自の衣装を 考えたりする創造の領域もまた評価される時が来るのではないかと思っている。(ばん・たけずみ)
全国200カ所で踊られる「よさこい」
鶴岡香代(高知県東京事務所)
私か勤める「高知県東京事務所」では、「よさこい」を通して高知県を知ってもらおうと、鳴子や法被の無料貸し出し、よさこい踊りのインストラクターの派遣を行っています。これが、なかなかのヒット商品で、運動会で踊りたいと首都圏の小学校から依頼が集中する9月には、手持ちの鳴子1000組は底をつき、インストラクターの先生方は大忙しの状況です。
インストラクター派遣の小学校の先生から、子供たちに踊りを教えてもらうだけでなく、「よさこい」をもっと知る機会にしたい、とのお話をいただいた時は、喜び勇んで出向き、かわいい小学生相手に「よさこい」のお話をします。「よさこい踊り」は、人に出会い、励まし、仲良しの輪を広げる踊りだと伝え、「よさこい祭り」の誕生について話します。
みんなは、第二次世界大戦って聞いたことあるかな? 高知の街も戦火で焼け野原になって終戦を迎えました。なんにもなくなった中で、とにかく生きていることに頑張る時代が10年近くたった昭和29年、みんなをもっと元気づけ、高知の街をもう一度賑やかにしたいと誕生したのが「よさこい祭り」です。お隣の徳島の阿波踊りに匹敵する祭りを高知でもということで、乾いた明るい音を出す鳴子を手に持たせ、街中を練り歩くことが考えられた、ということです。
だから、「よさこい踊り」は、踊る人も見る人も元気づけ、励ます不思議な魅力があって、今、どんどん日本中に広がっています。いま全国200ヵ所近いところで踊られています。みんなも、しっかり覚えて、踊ってください。そして、「よさこい」を好きになってくれたら、嬉しいな。
「よさこい祭り」には、踊り・音楽・衣装が重要な三大要素ですが、高知の「よさこい祭り」には、もう一つ流し踊りに必要不可欠な存在として「地方車」があります。一チーム毎に必ず一台準備することがルールに明記されていて、チームの司令塔であり、バンドの機材置き場兼ステージの役目も。地方車奨励賞も設けられ、各チームが地方車の装飾にもセンスを競い合っていますので、見る際の大切なポイントの一つです。
また、高知の「よさこい祭り」で忘れてならないのが、競演場です。50年の今年は賞の対象となる競演場9ヵ所と演舞場6ヵ所、計15ヵ所が設けられました。
高知の私の家は、万々競演場のすぐ近くですので、毎年、よさこいの音に誘われるようにふらふらと出かけ、たっぷり「生よさこい」を体感するのですが、ふと気が付けば、顔見知りの万々商店街のおじさんたちが、次々と入ってくるチームの整理や接待に追われています。審査席に座っているのは、いつもお魚を買う角のあの店のおやじさん。
この街にも、病院もあれば、受験生もいます。みんながみんな、祭りだといって浮かれていられるわけではないのですが、このおじさんたちが一つひとつ頭を下げて、祭りへの協力を呼びかけ、寄付金を集めたりしてくれて、この競演場を支えてくれています。高知の「よさこい祭り」はこうした人々にずっと支え続けられてきたのです。
でも、おじさんたちもお年をとっちゃったな、と思います。50年を経て、こんなに大きく育った「よさこい祭り」。次の時代に向けて、もっともっと大きくたくましく育って欲しい。今一度、土台からしっかり考え直す時期なのかな。そんな気もするこの頃です。