戦争中、占領した東南アジアから約200人の留学生が日本にやってきて勉学に励んだ。アジア各地の将来の指導者を育成するのが目的だった。当時、占領地は陸、海軍が軍政を行っていた。その軍政当局から、留学生派遣のアイデアが出て、大東亜省が受け入れを決定した。派遣は1943年4月から始まり、44年に2回目の派遣があったが、さすがに終戦の年には派遣がなかった。留学生たちは1年目に国際学友会で日本語を学び、2年目には専門学校や高等師範で専門分野を、そして3年目には大学に進学した。

留学生は現地で選抜されたエリートが少なくなかったため、戦後、政界や財界などで活躍し、日本との懸け橋となった人が多い。戦時中の留学ということで、日本での生活に自由はなく、厳しさを強いられたが、先生や寮監らに恵まれたこともあり、戦後になっても懐かしさをこめて留学時代を語っている。

悲劇だったのは、広島への原爆投下によって、広島大学に通っていた2人のマラヤ人留学生がなくなったことだった。その1人、オマールさんはマラヤのサルタンの王子だった。オマールさんの死は多くの日本人の涙をさそった。1994年、京都市の小学生たちによって「オマールさんを訪ねる旅」として出版された。

共同通信社は1995年、「もう一つの自画像」というタイトルで南方特別留学生へのインタビューを含めた記事を連載した。そして翌年「アジア戦時留学生」という名で出版された。サブタイトルは「トージョー」が招いた若者たちの半世紀。あとがきに「日本から見たアジアではなく、アジアから見た戦後の日本を浮かび上がらせたい」と書いてある。

日本社会の長期低迷によって、もはやアジアにかまけてもいられない。しかし、90年代にはまだ、アジアを考える余裕があったのだと、今さらながら考えてさせられている。

マラヤ   12人
スマトラ  16人
ジャワ   44人
セレベス  11人
南ボルネオ  7人
北ボルネオ  2人
バリ・セラム 3人
ビルマ   47人
フィリピン 51人
タイ    12人