NPO高知県日中友好協会の「日中友好新聞No.80号」に中国残留孤児で現在高知市に住んでいる中野ミツヨさんが、昨年10月9日、日中国交正常化50周年記念公演で話をしたあいさつ文を掲載します。胸を打つ文章である。

 皆さまこんにちは私は高知県日中友好中国帰国者の会 中国残留孤児の中野ミツヨと申します。
 現在毎日ロシアとウクライナの戦争のことが報道されています。誰が戦争を望んでも争いの結果共倒れになる(両敗具傷)無事の庶民が災難に遭います。ウクライナの難民を見ると、心がとても痛みます。この様子は同時に、1945年終戦時の、私たちの家族、開拓団の逃避行の惨状を思い浮かばせます。
 1945年の終戦時、当時の日本は、中国の最大の敵でした。(なぜなら、日本の中国侵略は1931年から1945年までまる14年続いたのです。)この戦争で私達満蒙開拓団は大きな犠牲者となりました。日本軍に捨てられた、身に寸鉄も帯びない開拓団の老人、婦女子、弱者たちは暴民やソ連軍などの襲撃をうけ、略奪にあい、全く、天にも地にも行き場がなくなってしまいました。開拓団には様々な惨劇が襲い掛かりました。ある団は、自国の軍隊に殺されたり、ある団は追い詰められて集団自殺をしたりしました。老若男女を問わず、皆がすべてを奪われて、一糸まとわぬ、裸!裸!のあり様、それは本当の生き地獄でした。その様子は、高知県幡多郡西土佐村江川崎開拓団の記録集『さいはてのいばら道』の中に詳しく記録されています。この本の中に166ページには、江川崎開拓団の終戦時の在籍者数363名、死亡者数267名、死亡率73.6%と記載されています。これは身の毛がよだつ恐ろしい事実です!私の家族もその中の一員です。家族6人ですが4人(母、兄二人、おじさん)中国で命を落とし、父は引揚3年後病気で亡くなりました。生まれたばかりの私は中国の養父母に貰われました。その時から、私と両親、家族はもう二度と会うことができませんでした。
 日本は戦争で負けた後、何千人ものいきている子供を侵略した他国の地へ捨てました。その時、中国人は気持ちが大きく、敵の子供たちを助けました。残留孤児たちには、いろいろな運命、血と涙の経験がありました、そのため、私たちはこんな年になるまで、苦しく、辛い人生を歩んできました。日本が起こしたあの戦争で残留孤児になった私たちは失った親、家族に永遠に会えなくなりました。私たちは戦争を許さない、悲惨な歴史が二度と来ないようにしたいと思います。
 そのためにこの歴史の事実を忘れることなく「前事不忘、後事の師」(前のことを忘れず、後々の教訓とする。)という言葉を守らなければなりません。
1972年9月29日、日中国交が回復してからの私達残留孤児の故郷を待ち望むこの苦しい気持ちが、皆さんは理解できますか?私は16年間待たされて、1988年7月29日に私か43歳の時、家族4人で、やっと「日本」私の祖国へ永住帰国しました。
 私残留孤児たちは、二つの祖国を持つ、両国の平和を誰よりも望んでいます。
 つまり 中国は私達を死の淵から救ってくれ、育ててくれた命の恩人です。日本国は私たちの母国であり、永遠に離れることはできません。日中国交正常化50年にあたりこれからの未来を展望して、私達は日中友好が世々代々受け継がれていくことを心から願っています。日本と中国が相互尊重の基礎の上に、友好関係を築いていくよう力を尽くしたいと思います。皆様、日中友好を続けましょう!頑張りましょう!
どうもありがとうございました。
                                         2022年10月9日