安倍晋三元首相の国葬について、是非論を論じているうちに、本物の国葬の在り方を見せつけられた。イギリス女王、エリザベスの死去である。まず、deathという言葉である。国王でも庶民でも「death」しかない。日本のように崩御などという特別な言葉はない。死に貴賤がないことにあらためて感じ入っている。

ユーラシア大陸の両端の島国で二つの国葬が行われる。19日はウエストミンスター寺院でエリザベス女王、そして1週間後の17日に武道館で安倍晋三元首相の国葬が。必ずや明暗を分ける「二つの国葬」としてジャーナリズムの関心を呼ぶはずだ。

戦後、両国の国葬となった民間人はチャーチル元首相と吉田茂元首相。一人ずつしかない。イギリスではサッチャーもダイアナ妃もフィリップ殿下も国民葬だった。日本の歴代首相も国民葬だった。チャーチルの場合、第二次大戦で勝利をもたらした偉人だった。吉田の場合は終戦処理をこなした首相でしかなかった。それでも国葬となった。

安倍元首相の場合、モリカケ騒動、櫻を見る会など「公」でない部分での疑惑が未解決のまま死去した。そして暗殺の動機となった元統一教会とのかかわりについても本人と重大な疑惑が持ち上がっている。首相在職期間が最長だったことなどは国葬の理由とならない。経済部記者だった僕からすれば、アベノミクスなどというものは逆にマイナス面の評価しかない。今の円安問題の引き金を引いたのは日銀による「異次元の金融緩和」だったことは歴史が証明するだろう。国際政治に果たした役割などは一つもない。仮に北方領土返還交渉に成功したとか、北朝鮮の拉致問題が解決したというなら、大いに評価しよう。そもそもこの二つは安倍元首相の「政治公約」でもあったはず。

岸田首相は、元統一教会問題に関して、自民党議員に対して一切の関係を断つよう指示した。政治と宗教のかかわりはずっと政治の問題だった。元統一教会との関係を断つということは元統一教会が社会通念上、「良からぬ団体」であると認識したからにほかならない。その「良からぬ団体」とずぶずぶの関係だったことがその後の報道で相次いで明らかになっている。このこと一つだけでももはや安倍元首相は国葬に値しないはずだ。

武道館の一般弔問で、元教会員が「普通の国民」として現れたら、政府はどう対応するのだろうか。万が一、会員に弔問を遠慮してほしいなどと要請していたらそれこそ恥ずかしい。