2013年3月28日世界連邦ニューズレターに投稿した原稿。

 3 月4 日、東京・虎ノ門の霞山会館で、国際平和協会と霞山会の共催による「崇貞学園が遺したもの」と題したフォーラムを開催した。戦前、25 年にわたり北京のスラムで崇貞学園を営み、貧しい人々の子弟に教育と職業訓練を授けたクリスチャン清水安三の生き様を顕彰する集まりである。桜美林学園理事長の佐藤東洋士氏が基調講演し、後に清水安三の生涯を綴った『朝陽門外の虹』の作家でもある山崎朋子とのトークショーとなった。
 ちなみに清水は桜美林学園の創設者である。当日の講演などをもとに清水安三について紹介したい。清水の崇貞学園は現在、公立の陳経綸中学となっているが、2005 年、清水の業績を偲んで校内に胸像が建てられた。反日キャンペーンの最中だったが、学校側は「関係ない」と反日論者を一蹴した。たぶん、戦後建てられた唯一の日本人の胸像なのだろうと思う。
 清水が学校を建てた朝陽門外は北京に城壁があったころの東の城門の外にあった。揚子江からの運河が引かれており、陸揚げされた物資が行き交う市場のようなところだったが、辛亥革命後は運河も閉鎖され、スラムと化していた。清水が心を痛めたのはそこで体を売らなければ生きていけない十代の女の子たちの存在だった。縫い物や編み物を教えて食べていけるだけの力をつけさせようというのが清水の志だった。
 清水が朝陽門外にやってきたのは1920 年。知識人を中心に列強の経済支配に対する反対運動としての五・四運動も盛んだった。清水は学校の経営資金を稼ぐために、日本のメディアに北京情報を書く記者としても活躍した。その中で、北京の知識人との幅広い交流が生まれた。胡適、李大釗、周作人、魯迅・・・。戦前の中国を代表する知識人たちである。
 当時、「北京週報」という日本語の雑誌があり、清水自身もその記者でもあった。清水は中国人が近代に目覚めたとされる五・四運動に強い関心と理解を示し、当然ながら列強による経済支配に反発する中国の人々に大いなる共感を抱いていた。清水の書いた記事の愛読者の一人が大正デモクラシーの吉野作造だった。吉野は他人の本の推奨文などは書かない人だったが、清水安三の著書に巻頭言を送り「清水君の中国情報だけは信頼できる」と絶賛した。
 魯迅との交流で知られる内山完造は中国でも日本でもつとに有名であるが、清水安三の名前が日中交流史に出てこないのはなぜなのだろうか。しばし考えさせられた。魯迅を最初に日本に紹介したのが清水安三だったと知ったら誰もが驚くであろう。そもそも魯迅を内山完造に紹介したのが清水だったりするのである。
 清水の1930 年代における圧巻は盧溝橋事件後の八面六臂の働きであった。北京在住の英米人宣教師、さらには北京大学や北京大学の有名な教授たちから署名を集め、日本の特務機関と北京を守っていた宗哲元に戦闘回避を訴えた。日中の戦闘によって紫禁城や天壇など北京の歴史的景観が焦土となるのをなんとしても防がなければならないと考えたのであった。
「昭和12 年7 月29 日の朝、気が付くと街には兵も巡捕も誰もいない。きのうに変わる今日の姿である。ついに宗哲元は全て兵士7000 を率いて北京城から去って行ったのである。そして日本軍は、出城する中国軍に一発の砲撃も加えなかった」というのだ。ため息が出た。清水安三は単なる朝陽外の聖人ではなかったのである