京セラの稲森和夫氏が亡くなった。僕は大阪経済部時代、一度だけお会いしたことがある。当時、日本で一番株価が高かった。確か8000円を超えていた。発表者は「うちは100%配当しています」と胸を張った。僕は質問した。「50円の配当で100%というのはおかしい。株価8000円に対して50円の配当は1%にもならないではないか」と反論した。

 その後、その人と関係が出来て、京セラに「セラミクス工場を見せろ」と言った。当時の京セラは半導体の集積回路の冷却としてセラミクスの需要が舞い込んでいた。「見せてあげてもいいがそこらの陶器工場としか見られない」「それでもいい」といって滋賀県の工場の見学が実現した。実のところ、稲盛さんが言った通り、どこがハイテクなのか分からなかった。稲盛さんは「ミクロンの世界で焼き物を焼く技術は並大抵ではない」といっていたが、現実にみたセラミクスはただの「焼き物」にしか過ぎなかった。

 ただ自慢は1億円かけてつくったという「電気自動車」をみせてくれたのには驚いた。1980年代前半のことだった。たぶん日本で最初の電気自動車は京セラによってつくられたはずだ。もちろん、戦前から戦後にかけて「電気自動車」はつくられていたが、40年後の世界を見据えた電気自動車はこの時、初めてつくられたのだと思う。

 工場見学の後、稲盛さんは京都市東山の迎賓館で宴会を開いてくれた。祇園からきれいどころも大勢いたが、稲盛さんは上機嫌で日本酒のお銚子を持って参加者にお酒をついで回っていた。その存在感は極まっていた。僕も何回もお銚子をついでもらった。こんなフランクな社長がいるものかと感嘆したことを思い出している。

 もう一ついうと、京セラはCDの再生装置もつくっていて、僕は初めてCDの音色に聞き入った記憶がある。稲盛さんは、「みなさんCDの音を聞いたことがありますか」といって、迎賓館にしかなかったオーディオシステムの電源を入れた。CDの販売が始まったばかりで、誰も「音色」を聞いたことがなかった。とにかく「音」が澄んでいたのだ。

 その後、今のKDDI、通信事業に参入した。いまはないが地球規模の携帯電話システム事業「イリジウム」に参画するなどいつも日本の最先端で事業を起こしていた。一期一会というのは出会った「人」から覚える感慨なのだが、僕からみれば、すごい存在、自分には想像もできない世界を考えていた人物だったといえるかもしれない。経済記者として真面目な経営者、頭のいい経営者には多くであった。失礼ながらこんなに可愛い経営者に出会ったことはない。