日本書紀を読む 夜学会210
日本書紀の現代語訳をまた読み始めた。何度読んでも面白い。今日は景行天皇に焦点を絞りたい。日本武尊はその第二子である。熊襲征伐と東征は物語としても面白いが、大和朝廷が全国に勢力を広げた時代だったはずだ。景行天皇記によると、天皇は熊襲を打つため、九州に出征した。行く先々で熊襲を戦いながら地名をつけていった。日向、火国、阿蘇国、八女国は景行天皇が命名した。武内宿彌に銘じて北陸と東方諸国を視察させた。のちに日本武尊に東征を命じた。景行天皇は80人の皇子を生んだが、その中から、讃岐国造、日向国造、播磨別、伊予国御村別、阿牟君、水沼別、火国別などとして国や郡に封ぜられた。神武天皇は日向から東征して大和盆地を征服したことになっているが、肝心の九州が朝廷の版図に入ったのは第十二代の景行天皇の時代だったということになる。
日本武尊は、まず伊勢神宮を訪れ、倭媛命から草薙剣を賜り、駿河で賊と戦い、相模、上総、甲斐、武蔵、上野、越、信濃、尾張を経て、能褒野で病に倒れた。興味ある出来事として、蝦夷人を捕虜として連れて帰り、伊勢神宮に献上したが、神宮側はもてあまし、大和盆地に連れて帰ったが、そこでも狼藉を働くばかりで都にはおいておけないと、安芸、播磨、伊予、讃岐、阿波に送り、そこで佐伯部の祖先となったと記されていることである。