特攻隊の遺族行脚を続けた山本健児

父親の母親は土佐藩の御殿医だった西町の山本家から嫁いで来た。その伴美智子の弟は健児といって海南学校を出て陸軍幼年学校、同士官学校を出て、陸軍大学校では恩賜組だった。早くから陸軍の航空部隊に創設に加わり、満州公主嶺で飛行第12戦隊長としてノモンハン事件に出動。マレー進攻作戦ではプノンペンから陸軍の上陸を支援、その後、ビルマに転じた。戦争の最後は台湾の高雄にあった第8飛行師団長だった。偶然、ネットでその写真を見つけた。記念にアップしておきたい。

【ウィキペディア】高知県高知市西町出身。
1895年(明治28年)9月20日、山本雄秀・駒の二男として生れる。幼少期は神童と呼ばれ、友人の遊びを断り蔵に籠り読書三昧が日課であったという。県立中学海南学校、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て
1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。
1916年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第62連隊付となる。
1920年(大正9年)4月、歩兵中尉に進み、
1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)を卒業した。
1924年(大正13年)2月から10月まで操縦学生として訓練を行った。
1924年10月、飛行第5大隊付となる。
1925年(大正14年)5月、兵科を航空兵科に転じ航空兵中尉に任じられ飛行第5連隊付となる。同中隊長、陸軍航空本部員、下志津陸軍飛行学校教官などを歴任し、
1931年(昭和6年)8月、航空兵少佐に昇進した。
1933年(昭和8年)8月、陸軍省軍務局課員に就任し、
1935年(昭和10年)8月、航空兵中佐に進級。
1935年12月、飛行第12連隊付となり、航空本部員を経て、
1938年(昭和13年)3月、航空兵大佐に昇進し航空本部第3課長に就任した。
1938年12月、陸軍航空総監部第2課長兼航空本部第4課長に発令され、次いで飛行第12戦隊長に着任。ノモンハン事件に出動した。
1941年(昭和16年)7月、第7飛行団長に就任。
1941年8月、陸軍少将に進級し太平洋戦争を迎え、南方の諸作戦に参加した。
1942年(昭和17年)12月、浜松陸軍飛行学校幹事となり、同校長を経て、
1944年(昭和19年)6月、第8飛行師団長心得に就任し台湾防空の任を担った。
1944年10月、陸軍中将に進み、第8飛行師団長に親補された。台湾で終戦を迎え、
1946年(昭和21年)に復員。
   戦後は、朝日生命保険顧問、高知県軍人恩給連盟初代会長などを歴任した。
1975年(昭和50年)4月14日死去。墓所は高知市小高坂丹中山。坂本家の墓地の後ろにある。

粕谷俊夫著『ああ山本重爆隊』-「昭和19年6月、台湾第8飛行師団長に転じ、昭和20年3月26日から7月29日までの沖縄戦では連日のように薄暮と未明に数基ずつ合計245機の特攻機を送り出した。「至誠殉国とはいえ、心の痛みはいまなお残り、山本は貧しい中にも暇をみつけては遺族をたずね、全国行脚を続けている。」

飛行第12戦隊長 大佐 1939.8.1―1941.7.1
第7飛行団長     1941.7.1-1942.12.22
浜松陸軍飛行監事 少将 1942.12.22-1943.1.29
浜松陸軍飛行学校 少将 1943.1.29-1944.6.10
台湾第8飛行師団長 1944.6.10-1945.8.15

伴武澄 について

新聞記者を定年退職後、高知市へ帰り、旧鏡村でシイタケとクレソンを栽培しながら、はりまや橋商店街で毎週金曜日に露天を商い、その夜に「夜学会」を開催するスーパーおじいさん。
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